逃げるが勝ち
胡乱に目を眇めて、苦笑いを浮かべている幼馴染みを睥睨する。
「何?」
相変わらず無駄に色気を振りまく奴だ。
シオンはいつも飄々としているところが格好いい、眼鏡は知的、柔らかい口調や物腰は優しそう、と女の子たちから全てをいいように取られ、切れる間もなく親密な相手をとっかえひっかえしてきたという、男としては全くいけ好かない奴だ。だが、それら多くの女友達や恋人の誰一人として、シオンの心を本気で捉えることはなかった筈。
最近はどういう心境の変化か、誰とも付き合っていないようだったが、基本的に恋愛沙汰に真剣に打ち込む性格ではないと知っているから、気にも留めていなかった。だからリーナ程の美女に心を動かされる様子もないのを、不思議とも感じていなかったのだ。
勿論、男としてそれはおかしいということは親友の立場から懇々と言って聞かせたものの、正直リーナと知り合いだとはさすが顔が広い男だと感心しただけだった。だがここにきてにわかに不審な思いが募ってくる。
ゲイリーは慎重な口ぶりで、つかぬことを聞くが、と話し始めた。
「えー、シオンくん。僕はだね。そのぅ、多少の疑問というか、違和感というか、そういうのを感じているわけだ」
「何、その喋り方。シオンくん、て……」
「お前はどうも、うちの家政婦にこだわり過ぎているようだぞ」
シオンの失笑を無視して続ける。
「いいか。僕達の話題として、あのクソ生意気な家政婦は相応しくない。そう思わないか?」
冷静に友人を諌めたつもりのゲイリーは、次の瞬間ギョッとして口を開けたまま固まった。シオンは書き物机の上から取り上げた青銅の鳥の置物を興味深げに弄びながら、俺はどうやら彼女に夢中らしいよ、と言ったのだ。
「はぁっ!? おかしいだろ、あんなブス」
「俺には可愛く思えるケド?」
「本気かよっ? あれがっ!?」
「いつも一生懸命じゃないか」
呆気に取られているゲイリーに、シオンは苦笑して見せてから、考え考えという態度で再び口を開いた。
「ゲイリー。お前が彼女に特別な好意や親密な感情を抱いていないと知って、俺は実際ほっとしている」
「シオン……」
「彼女を……うちに迎えたいと思うんだ。お前は反対しないだろう?」
「はっ? いや、その―――」
「最初はお前をやり込めるくらい気が強くて口が達者なところが面白かっただけなんだ。女の子に晩熟なお前が楽しそうだったから、二人を焚き付けてやりたかったし」
「なんだその失礼な言い草はっ。僕はあいつといて楽しかったことなど一度もないっ」
「うん。よかったよ。俺自身がリナベルに興味が出てきたのでね」
「―――」
言葉もないゲイリーにシオンは話を戻した。
「彼女はうちに来てくれるかな?」
「……」
「どう思う?」
「お、お前の家は使用人が二人もいるじゃないか。もう増やす余地など―――」
「ああ、それは問題ない。うちのばあやの娘が今年の収穫の後に嫁に行くことになっててね。なかなか財産のある男の所に片付いたんで、母親を引き取って同居するって言うんだよね。うちは父と俺の男所帯だし、しかも父は留守がちだろう? ばあやの後は人を入れなくてもいいと思っていたけれど、リナベルだったら大歓迎だよ」
「―――」
「仕事もそんなに多くないし、楽だと思うんだ。ただ問題はアウグストン家の家政婦がいなくなってしまうことだよなあ。お前の母上がリナベルにもう一人足すために今探しているって言ってたけれども、それを二人にしてもらえないだろうか」
ゲイリーは返答に困って目を泳がせた。
いや、リナベルなんかに全く興味はないし、どこに働き口を移そうが本人の勝手だ。だが―――。
「シオン。僕は―――そのぅ、あれだ。うちの母はいつだったか、二人も新人を育てるのは面倒だと言っていた……であるからしてだな」
「無理?」
「だと思うね。僕の意見ではないぞ? あくまで母の意見だが―――」
「そっか。……それも当然だよね」
あっさり頷いたシオンを見て、ゲイリーは気付かれぬよう肩の力を抜いた。
おかしな話だが、女に関して悪名高い親友の毒牙にリナベルがかからぬようにするのは、自分の責任のような気がする。シオンに妙な深読みをされたらうっとうしいが、いくら小憎らしい相手とはいえ、自家の使用人を保護するのは主人の務め。そうだ。僕は仕方なく己の義務を果たしているに過ぎないのだ。
一瞬のうちにそこまで考えを巡らせたゲイリーは、シオンが机の上に戻した青銅の鳥を手に取って、顰め面を向けた。
なんで女に不自由したことのない親友が突然気まぐれを起こして、全てにおいて下の下に位置するリナベルに目を留めたのか、心底理解できない。ついでに、なんでそのことがこんなに気になるのか、自分自身の感情も全く理解できなかった。いつもなら、頼りになる幼馴染みに、僕はなんでこう思うんだろうか? と相談をすればすぐに納得のいく説明をしてもらえる。だが今回はそれが使えない以上、このもやもやした気分を抱えたままでいるしかなかった。
夕食の後片付けを終えた後、リナベルはそっと屋敷を抜け出した。今日の仕事は全て終わりだ。暗い裏庭に出て辺りを見回す。約束したわけではないが、ここに現れる気がしていた。
井戸の脇を通って、敷地の外れまで短く刈った草を踏み分けて歩く。足取りがゆっくりなのは気の重さの表れだ。生垣まで辿り着いてから再び周囲を見回すと、予想通り隣家の敷地から声をかけられた。
「お疲れさま。もう仕事終わったんだね?」
密やかな声が夜の闇に溶けていく。リナベルはギュッと唇を引き結んで、声の方に向き直った。
本当はすぐにもアウグストン家の家政婦を辞めて街を離れたかったが、それはできなかったのだ。若い娘がたいした所持金も働き口のあてもなく、独りで生きていくのは不可能に近い。それに祖母の遺志を受けて、わざわざディラに出てきたのが無駄になってしまう。すぐにこの家に雇われたのは、めったにない幸運な出来事だったのだ。もう一度同じ幸運が訪れる確率は無きに等しいだろう。
だったら、見たことを誰にも言わないという言葉を信じたい。いや、出来ることならなんとかして目の錯覚、夢まぼろしと言いくるめたい。
今日一日、色々と考えたことが脳裏を駆け巡って、リナベルはぎこちなく口を開いた。
「……えーと、いい夜ですね―――」
「うん。そうだね」
「……」
シオンの淡々とした口調はいつもと何も変わらない。とはいえこちらも油断する程バカではない。
完全に弱い立場のリナベルは、警戒心に満ちた視線をシオンに送った。暗くて互いの表情は読めないが、少なくとも敵意らしきものを感じないのは救いだ。
「あの、ですね。わたしはちょっと夕涼みに出て来たんですけど、シオンさんもですか?」
「シオンね」
夕涼みには季節が遅いのだが、彼はそこには触れずに相変わらずくだらない訂正を入れてくる。
リナベルは面倒な気持ちを押し隠して愛想笑いを浮かべた。なんとか秘密保持の確証が欲しいのだ。ここで喧嘩腰になるわけにはいかない。
シオンはこちらの内心に気付いたのか、無頓着に、昼間のことは本当に心配いらないから、と言った。
「二人だけの秘密―――ということで」
機嫌を損ねてはいけないと思うが、むやみにエロくさい口振りで意味ありげに言われて、イラッとなる。だがここでキレては台無しだ。リナベルは苛立ちを鎮めつつ、ヒビの入りかけた愛想笑いを全力で修復した。
「あの、ですねぇ。そろそろ部屋に戻ろっかなー……と」
「ええ? もう戻っちゃうの?」
「明日も仕事あるし―――」
口止め工作が必要ないなら長居は無用。どこまで信用がおけるかはわからないが、暫くは大丈夫だろう。教会の熱心な信者というわけではなくても、大学の学生である以上は日常的に聖職者と接しているシオンが、明らかに異端のリナベルの存在を秘密にする理由はわからない。
おそらく、魔女の受難の歴史は昔話やおとぎ話の類いとしてしか認識していないのだろう。そう決め付けるとリナベルはさっさと退散しようと後ずさる。
「じゃ、そういうことで」
「あ、リナベル。待って。相談があるんだ」