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いつもの朝

 なかなか立派なお屋敷の裏庭にある小さな井戸。その冷たい井戸水で顔を洗ったリナベルは、端のほつれたボロ布で水気を拭き取った。ちょっとゴワつくが、清潔なのだから問題ない。

 トレードマークの分厚い眼鏡をかけてから、年頃の娘としてはとても他人様にお見せできないような大欠伸を連発する。


「ふぁ~、眠い……。なんでこう朝が来るのが早いのかしら。一度でいいから干からびる程寝てみたい……」


 だが、そんなことは夢のまた夢だ。遠くの煙突から立ち上る細い煙をぼーっと見ていた彼女は、家の中から聞こえる奥様の金切り声にはっと振り返った。


「家政婦ーっ。家政婦は何をしてるのっ?」

「うわっ、まずいっ」


 そういえば今日は朝イチで教会堂に寄進した燭台のお披露目ミサがあると浮かれていたのだったっけ。すっかり忘れて普段の朝のつもりでいた少女は、慌てて家に駆け込みながらも、いつものように「名前呼べっつーの」と文句を言うのは忘れなかった。




「はぁー、大変だった……」


 怒涛の朝を乗り切ったリナベルは、台所の丸椅子にへたり込んだ。かまどでスープを温めパンを焼き、ご主人一家の給仕をしてから奥様のお支度を手伝い、ようやく教会に送り出したところだ。だぶだぶのチュニックからのぞく細い手足を、座ったままう~んと伸ばす。


「お茶の一杯も飲むとしますか」


 使用人の彼女が自分のために湯を沸かすなど、本当なら無理な話だ。なにしろ締まり屋の奥様は、毎日どのくらいの薪を使っているのか、無駄遣いをしていないか、隅々までチェックしているのだ。家政婦は水で充分、贅沢などさせないというのが彼女のポリシーである。この家の住み込み家政婦になって三ヶ月だが、それは骨身に染みていた。


 だが、リナベルには秘密の方法があるのだ。

 カップの水に自分で育てたハーブの葉を散らすと、パチンと指を鳴らす。本当はそんな動作は必要ないが、やった方がサマになる。


「フッフッフ。いただきまぁす」


 香りのいいハーブ茶をゴクゴク飲み干すと、疲れが和らぐ気がした。


「はぁ~、おいしかったっ」


 もう一杯飲もうか考えてすぐに結論を出す。ご主人一家が留守の間しかゆっくりくつろぐ暇はないのだ。ここは伸び伸びさせてもらいましょう。と、その時、背後で扉が開いた。


「何サボってんだよ」


 天敵登場。振り返ると本人いわく、透き通る黄金色の黄色い髪と、意地悪そうな碧の目。この家の一人息子ゲイリー・アウグストンが立っていた。後ろには隣家の息子、シオン・グレゴリーがいる。二人は同い年の幼馴染なのだ。


「二人分、ココアを用意しろ」


 案の定、余計な仕事を言いつけられてリナベルはムッとした。するとそこをつくようにゲイリーは目を眇める。


「なんだよ。返事くらいしたらどうだ。主人が話してるんだぞ、リナベル」


 こいつは名前を呼んでくるが全く嬉しくない。


「あーはいはい、ココアでございますねー」

「返事は一回」

「かしこまりました、お坊ちゃま」


 今度は馬鹿丁寧に言ってやると、甘やかされたぼんくら坊ちゃんはそこに込められた嫌味には気付かず、満足げに頷いて引っ込んだ。


 これから部屋の掃除もしなくてはならないし、窓拭きも残っている。市場に買い物に行って夕食の支度もある。木の洗い桶に木灰と苛性ソーダの溶液を作って洗濯物は浸してあるが、この後叩いて濯ぎ、吊るして乾かさなければならない。やることは山積みなのだ。

 その前に追加された仕事を片付けるべく、リナベルは鬼の形相で戸棚を開けた。


「ほんっとーに、あのぼんくら坊ちゃんとっ、きたらっ」


 ココアパウダーの中から乾燥したバラの花びらをふるいで取り除き、ミルクを二つのカップに半分ほど注ぎ入れると、それぞれを軽く爪先で叩く。こんなことで一から火をおこすのは馬鹿らしいし大変だ。そういうことをわかっていながら熱い飲み物を注文するあたりが、ゲイリーの面倒くさいところなのだ。


 リナベルは文句を言いながらも手際よく動いた。カップのミルクに砂糖、バニラビーンズ、シナモンとココアパウダーを入れてかき混ぜ、冷たいミルクを足す。もう一度カップを爪で弾いてから生クリームとビターチョコレートの欠片を落とし、ワインを足して出来上がりだ。


 盆にのせて二階のゲイリーの部屋まで行くと、坊ちゃん方は優雅に指輪の品定め中だった。


「早いな。何かズルをしたんじゃないだろうな?」


 胡散臭そうにカップの匂いを嗅ぐゲイリーに、シオンが一口飲んで、ん? と眉を寄せる。


「ちょっと味違わないか?」


 リナベルも、ん? と眉を寄せて記憶を巻き戻す。もしかしたら砂糖と塩を間違えたかもしれないと思い当たったが、どうせ食通ぶっていても頭のぼやけた坊ちゃん達だ。クセの強い材料のごった煮飲料の味など、はっきりとはわかるまい。強気で気のせいですよとごまかした。


「じゃあ失礼します。わたしは仕事がありますからね」


 言いおいて部屋を出ようとすると、シオンが呼び止めてきた。彼は黒髪黒瞳におしゃれ眼鏡をかけた伊達男だ。ゲイリーよりは勉強が出来るらしいが、リナベルは口八丁手八丁のただの女ったらしとしか見ていない。


「ねえ君。リナベルだっけ? 君ならどの指輪がいいと思う?」

「はあ?」

「女の子から見て素敵っていうか、恋人と一緒につけてみたいのはどれだろう」

「おいおい、リナベルにリサーチしてどうするんだよ。意味ないだろう」


 小馬鹿にした口調で割って入ったゲイリーに、シオンは呆れ顔で首を振る。


「意味あるに決まってる。リナベルは十六才? 十七才? とにかく身近にいる若い女の子だよ。そして若い娘の好きなもの、それは恋だ。男だ。彼女だって何かしらの意見や好みはあるに違いない」

「はあ~っ? あったところで参考になるもんか。ただの家政婦だぞ? しかも見ろ、このもじゃもじゃの髪、分厚い瓶底眼鏡とやせっぽっちの身体。これはもう女じゃない。僕が女でこんな外見だったら、世を儚んで死んでしまうねっ」


 さすがに温厚な(?)リナベルも、ここまで言われて黙って引っ込んでいられる程、人間が出来ていない。すぐに肩をそびやかせて、うんと嫌味に戦闘開始だ。


「わたしも坊ちゃんみたいな髪はちょっと……ねぇ? 知ってます? 通りをうろついてるシガルさんちの犬。あれ見る度に、坊ちゃんを思い出すんですよねー。いつも土埃で黄色くなってるでしょう?」

「な、な、なんだとっ!? 僕の髪は黄金色だっ。お前のようなうんこ色とは大違いだっ。たとえて言うなら水辺に反射する眩しい日差しの煌めきのような―――」

「あら、さすが坊ちゃん。うんこにまで詳しいとは。日夜観察に明け暮れてるとしか思えませんわ。これからはうんこ博士と呼ばせてもらいますね。まあ、人の趣味嗜好は様々ですもんね。恥じることはありませんよ。うんこマニアだって生きていく権利はあるんです。あ、ちなみにわたしの髪色はココア色ですけどねっ? それより犬は嫌いですか? そっくりの黄色い髪なのに。シガルさんちの犬が見たら仲間意識で飛びついて離れないでしょうにね。そういえばあの犬、意地汚いからよその犬の餌を横取りしてよくケンカしてるんですよねー」

「なっ、何ぃっ?」

「あ、大丈夫ですよ。その黄色いうんこ……じゃなかった、なんでしたっけ? 水辺のなんちゃら色ですか。その安っぽい色でも気にしないで強く生きていけばいいんですから。あ、そういえば水辺で思い出したけど魚もフンをするんですよ。生き物ですもんね。見たことあります? お尻にずっとくっつけてて、水の中もよく見ると汚いもんですよね」


 ナルシストの鼻先でせせら笑ってやると、ゲイリーは顔を真っ赤にして湯気を立てている。自分から攻撃してきたくせに打たれ弱い男だ。だが弱ったところを狙うのが戦いの鉄則。思い切り連打を浴びせてやろう。

 リナベルは調子よく続けた。


「わたしの意見を聞かれたからには言いますが、その指輪どれも駄目でしょうね。全部素敵ですけど、なんというか渡す側に問題が。先月も大学で落第点を取った段階で、マチルダさんの眼中に入るのは難しいんじゃないでしょうか。うんこマニアなのはさておき、知的な男性が好みだという話ですからね、残念なことに」


 わざとらしく同情します顔を作って言ってやると、心の中で舌を出しながらさっさと部屋から逃げ出す。うぁーっっ! という喚き声と物が壊れる音が聞こえたのは、そのすぐ後だった。 

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