事故物件も使いよう
まただ。
また、あの音。
そのやかましさに俺は目を覚ました。
枕元の時計に目をやると、午前二時半。やはり、いつもと同じ時間。
――ドン、ドン、ドン。
一定のリズムで壁を叩く、あの音。毎回押入れの奥から聞こえてくるが、勿論押入れの中には何も入っていない。今再び確かめたが、やはりいつもの如く空っぽである。
こんな夜更けでは、他に聞こえる音はカエルの鳴き声くらいのものだ。それだけに、この壁の音はより一層激しく鼓膜を揺さぶり、俺の神経を磨耗させる。間近で太鼓を鳴らされているように誇張されて感じるのだ。
ここに越してきてからというもの、毎日同じ時間に、この音が聞こえてきている。
もう我慢の限界だった。
俺は、部屋を飛び出した。
*
俺がこの部屋に越してきたのは、つい数日前のことだ。工場の視察及び労働環境調査ということで、俺は本社のある東京から、この地方へとやってきた。
数ヶ月の派遣ということになるのだが、その間の俺の住まいは、会社が提供してくれた。
浦野ハイツ203号。
それが、俺の新しい家だ。
到着して荷物をある程度整理したら、すぐに同じハイツに住む人たちに挨拶回りをした。
その殆どが同じ工場に勤める人達で、そうでないのは201号に住む、七十代くらいの老婆だけだ。彼女はここのアパートの管理人を務めているのだという。202号には陰気そうな男が一人。二階はそれだけで、一階の三室は家族連れと独身男が一人ずつ。こちらは皆明るくて人当たりもいい人たちばかりである。これなら、近所づきあいで心配することはなさそうだ。
と、そう思っていた。
連夜あの音に目を覚ます羽目になる前までは。
*
「おい、開けろ!」
部屋を出た俺は、隣の202号の戸を力いっぱい叩いた。
何度も大声で呼びかけていると、不意に扉がゆっくりと開いた。
扉の隙間から、男が顔を出した。
瞼はほとんど閉じている寝ぼけ眼で、今まさに起きたという感じの男。
「ふぁあ……。なんです、こんな夜中に。失礼でしょうが」
それはこっちのセリフだ。
どうやら惚けるつもりらしい。
俺は怒りに任せて怒鳴った。
「あんたこそ、毎日毎日ずっとこの時間に壁をガンガン叩いて、迷惑してるんですよ。少しはこっちの気持ちも考えてくれよ。眠れなくて仕方がない」
すると、男は少しだけポカンとした顔になってから、小さく嘲るようにして笑った。
「何言ってんですか? 私は今の今までぐっすり寝てましたよ。気のせいなんじゃないですか?」
「はあ? 気のせいなわけ――」
「とにかく、明日も早いんで、私はもう寝させてもらいますよ」
有無を言わさずに男が扉を閉めて部屋に戻ったので、俺はその前で立ち尽くすしかなかった。
そんな馬鹿な。
あいつじゃなかったら、一体誰だというのか。
どうにも怪しい。
とにかく、明日管理人の老婆に相談してみよう。あれだけ大きな音だ。周りの住人にも聞こえているに違いない。あの男が一人しらばっくれても、無駄な足掻きだろう。
そう考えて、俺は一旦引き下がり、部屋に戻った。
床に就くと、例の音はもう聞こえなくなっていた。
*
翌日、管理人の老婆に壁の音について訴えたのだが、予想に反してまったく聞き入れてもらえなかった。
老婆も202号の隣室なのだが、そんな音は聞いた覚えがないという。老婆だけでなく、他の住人全員に聞いて回ったが、誰一人音に悩まされていないようだった。
それだけではない。あれだけ引っ越し初日に挨拶した時は、何か困ったことがあったらいつでも相談に乗るなどと言っていた家族連れが、俺が音の話をしたら突然忙しい体を装い始めて、俺を追い出したのである。
何かがおかしい。
あの202号の男。そしてこのハイツに住む人間たち。何か、絶対に何か、隠している。
今日は諦めたが、そのうちに必ず認めさせてやると決めた。
その夜、俺はスマホで音を録音することにした。深夜の二時半。それまで、じっと待った。
*
鈍い断続的な音で目が覚めた。
あの音だ。
はっとして起き上がると、電気も点けっぱなしで寝落ちしてしまったようだ。時刻を確認すると、いつもと同じ通り、午前二時半だ。
俺は慌ててスマホを取り出して、録音を始めた。
――ドン、ドン、ドン。
見てろ。明日になったらこの証拠を突き付けて、鼻を明かしてやる。
暫くして音は止んだ。
俺は録音をやめ、明日のことを想像しつつ、満足しながらしげしげとスマホを眺めていたが、再びの睡魔に夢の世界へと連れて行かれた。
*
翌朝一番に202号室に乗り込み、あの男にスマホの録音を見せつけた。
これで認めざるをえない状況になった――はずなのだが、
「何の音も録れてないじゃあないですか。言いがかりはよしてくださいよ。こっちが訴えますよ」
一蹴された。
そう。深夜に確かに録ったはずのあの音は、一切データに入っていなかったのだ。
ただ小さなノイズが入っているだけで、他は何の音もない。
俺は面食らった。
男は俺を見て、含み笑いを浮かべた。
「だから言ったでしょう。私は何もしていないって」
出鼻を挫かれ、意気消沈としてすごすご部屋に戻るしかできなかった。
しかし、このままでは終われない。
たまたま今回はうまく録れていなかっただけだ。チャンスはいくらでもある。明日、またやってみよう。
しかし、それからも何度か録り直しをしてみたのだが、いくらやっても聞き返してみれば叩く音だけが録音されておらず、これでは何の証拠にもならないと諦めるほかなかった。
しかし、妙な話だ。
俺が背後で喋る声は入っているのに、壁の音だけ入っていないなんて……。
まさか、あの音は、その時の俺にしか聞こえていないのか。
そんなありえないオカルトじみた考えが、俺の頭の中に俄に存在し始めるようになった。
*
何日もちゃんと眠れていないせいか、遂に仕事にも支障が出るようになってしまった。
もともと本社ではデスクワークで、ただでさえ慣れない工場業務だ。ミスの連発で、いよいよ上司に呼び出されることとなった。
「君ねえ、いくら初めてって言っても、そろそろ慣れてくれないと困るよ」
腕を組んでムスッと顰め顔の上司。
怒鳴るような調子ではないが、静かな言葉に苛立ちが含まれていることは、俺にもよくわかる。本社でもよく浴びた類の言葉だ。
「申し訳ありません」
と深々と頭を下げようとした時、くらりと世界が歪んだ。平衡感覚がなくなる。まっすぐ立っているはずが、左に傾いて感じる。
そのまま倒れそうになるところを、なんとか踏み留まった。
寝不足が祟っているようだ。
その様子に、上司もただならないものを察したのか、
「大丈夫かね? そう言えば、なんだか顔色も悪そうだが……」
「ちょっと、あまりよく寝れていなくて」
「君はどうやら仕事の前に、まず新居に慣れるのが必要なようだな。
……そう言えば、君の家はどのあたりにあるのかな?」
「ええ、駅の近くにある、浦野ハイツってところですよ」
そう言った瞬間、上司の太い眉がぴくりと動いた――ような気がした。
僅かに顔色も変わったかのように見える。それまで暗かったのが、微妙に眉間にあった皺が取れて、幾分柔和になったような、そんな気がした。
「そうか、それじゃ君が例の……」
「え?」
「あ、ああ、いや、何でもないよ。気にしないでくれ。まあ、とにかく頑張って早く仕事に慣れるようにね」
上司は立ち上がって、俺を労うかのように肩を叩いた。急に優しい素振りになった。唇の端も上がっている。にやっとした笑みだ。
もっと陰湿に叱られるものだと思っていたから、俺にとってはあまりに意外で、逆に気味が悪かった。
*
――ドン、ドン、ドン。
また始まった。
もう身体が覚えてしまったようで、音が鳴る前に目が覚めるようになっていた。
俺は耳を塞いで、寝返りを打った。
しかし、音は隙間から、次々に外耳道へと侵入してくる。
無視だ。もう無視しよう。
俺はさらに布団を被って、ぎゅっと目を瞑った。
だが、寝よう寝ようとすれば、余計に目が冴えるものだ。
俺の神経は研ぎ澄まされ、壁の音はより大きく聞こえてくる。
――ドン、ドン、ドン。
じっとりと汗が滲んできた。眠れない焦りや苛立ちも募る。それに伴って心臓の鼓動も早くなる。
俺は遂に耐えきれなくなって、布団から飛び起きて、壁を勢いよく殴りつけた。
「いい加減にしろ! このくそったれ!」
鈍い音が部屋中に反響する。アパート中に鳴り響きそうな勢いだった。
少なくとも隣の部屋には届いたはずだ。
俺の怒りに気付いたのか、壁の音が鳴り止んだ。
ふっと肩の力が抜ける。
安心したせいか、急に眠気が襲ってきた。
その時、
――ドンドンドンドンドンドンドンドンッ。
布団に戻ろうとした俺は、びくりと身体が竦んだ。
一際大きな音で、押入れが叩かれ始めたのだ。その異様さに、俺は気味の悪さを覚えた。
その上、
――たすけて――
その音の中に、子供の声を聞いた気がした。小さく掠れた、しかし甲高い子供の声。
俺は今一度押入れのほうを見た。
――たすけて――
幻聴ではない。今度ははっきりとそう聞こえたのだ。
誰もいるわけのないはずの押し入れ。
俺の足は、自然とそこへ向かっていた。
襖に手をかける。そして、一気に引き開けた。
そこにはやはり誰もいなかった。
しかし、俺は中の異変に気付いた。
べっとりと壁に付着した赤い手形。それが何個も何十個も壁を埋め尽くし、幾重にも重なりあっていた。
暫くそれに目を奪われていたが、よく押入れの中を見てみると、それ以外にも発見があった。
床に何かが落ちている。
俺はそれを手に取ろうとして、押入れの中に身体を屈めて入り込んだ。
オルゴールだ。古びたブリキのメリーゴーラウンドの装飾。その台座の所に、小さなねじ巻きが付いている。
俺はそれを回して、ピンと櫛で奏でられる音楽を流した。それに合わせて、メリーゴーラウンドの馬が回り始める。
どこかで聞いたことのあるような、クラシックの曲だ。曲名はわからない。
小気味の良い軽やかな音のメロディーが空間を支配する。しかし、ところどころ壊れているらしく、音は飛び飛びで、リズムも調子はずれだった。
回転する木馬に目を、金属の音列に耳を奪わていたその時、襖が勢いよく閉ざされた。
俺は慌てて開けようとしたが、何か強い力に阻まれて、開けることができない。まるで巨大な金庫の扉の如く強固で、全体重をかけても開こうとしない。
呼吸が乱れる。パニックになりかけていた。自然と手に持ったオルゴールをきつく握りしめる。
俺は暗闇の中で、狂ったように首を動かした。
何かないか。ここから逃げ出す方法がないだろうか。
その時、背後から聞こえた。
――ねえ、たすけてよ――
はっきりとした、女の子の声。オルゴールが再び鳴り出した。巻き直してもいないのに、ピンが勝手に動き出す。
それらが耳から脳に入り込み、身体は恐怖で硬直した。
しかし、殆ど無意識に首はゆっくりと後ろへ振り返ろうとする。
誰がそこにいるのか。何がそこにあるのか。
見たくなんかない。
でも身体がいう事を聞かない。頭だけ乗っ取られてしまったみたいに、首が回転する。
そして、そこにあったのは――。
見なければよかった。こんなところに来なければよかった。
ありったけの後悔の中で、俺は絶叫した。
*
ある日の昼休みに、202号の男と101号の男が、社員食堂で昼食をとりながら話をしていた。
話題のタネは、例の203号の若者のことである。
「あの兄ちゃん、結局二週間と保たなかったな」
202号の男がにやにや笑いながら言った。くちゃくちゃと噛みながら喋るその姿に、101号の男は少し顔を顰めながらも頷いた。
「ああ、まあ、あの部屋じゃ、しゃあないだろうけどな」
203号室の若者は失踪して、今も行方知れずだという。連絡も取れないで早一週間になる。会社では既に自然退職と言う形で対応を取っていた。
「にしても、会社もえげつないことするよなあ。使えない社員とか、定年間近の社員を対象に、ああいう物件に住まわせて、辞職を促させようだなんてさ」
「それはあくまで噂だろう」
「でも、だいたいの人間は本当だと思ってるぜ。まあ、会社側にしてみたら、クビにするより辞職の方が、後々訴えられたりしないからリスクも少ないからな。失踪でも向こうから連絡来なけりゃ自然退職の体で辞めさせて、退職金も払う必要はない。それにうちは特別酷い労働環境ってわけでもないから、自殺でも労災は下りないしな。おまけに不動産業者にしてみたら、短期で入れ替えが激しいとはいえ、買い手のつかない曰く付きの事故物件に次々人が来てくれるんだからありがたい話だしな」
「つまり、よく言うwin-winってわけだ」
101号の男の言葉に、202号の男は口をもごもご動かしながら指をさした。
「そうそれだよ。負けるのは常に俺たち労働者側ってこった。俺もああはなりたくないもんだ」
「本当になあ。くわばらくわばら。しっかし、自分の利益のために怨念まで利用するなんてねえ。人間ってのは、実に業の深い生き物だねえ」
「まったくだ」
二人はにやにやと卑しい笑みを浮かべて、それからも何事もなかったかのように、いつもの如く談笑を続けた。