1.カナエ
透明の箱。
透明の箱に、りんごがひとつ。
中には種。
土に植えると、芽が生えるけど、何もしなければ、実ごと枯れて死んじゃうの。
山道を県庁所在地から、車で数十キロ走った所に、人の少ない簡素な住宅街がある。その奥の木々が生える林に隠れる様に、六木山精神病院が、立っている。
六木山病院は1920年代、大正時代から経営されている歴史の古い精神病院で、多くの患者達が入院している。中には病内で一生を終える人間もいるらしい。そのパターンを、棺桶退院、と患者達は呼ぶ。
副作用の強い薬を処方されて、混濁状態で過ごす入院生活は、辛いという。
治療に不可欠なので仕方がないのだが、歴史の古い病院なので、職員の患者に対する差別意識なども未だ強く根付いており「薬を飲んで黙らせておけばいい」とばかり、カウンセラーを常備させてないなど、杜撰な経営方法も多いのが、六木山病院の実情である。
六木山病院の508号室には、クォーターの髪の白い患者が住んでいた。歳も若い。
17歳の少女だ。入院して、1年強になる。
名前は水鳥花苗。相性はカナエちゃん。
よく脱走する。
病院は3階建てになっていて、1階の比較的病状の安定している患者達の為に、花などが植えてある、綺麗な中庭が建設されている。中庭は西側がフェンス囲みになっていて、乗り越えると駐車場に行き当たる。
そこから、彼女は歩いて、白いロングヘアーを靡かせながら、近くの川でボーッとしたり、変わった石ころを集めたり、綺麗な花びらを拾い集めたりして、入院の暇を潰すのだ。
もちろん、すぐ看護師にバレて、病棟に引きづり戻される。でも、とりあえず、大人しくしておく。そうすれば、少し薬の量が増えるだけで、患者達から「隔離部屋」と呼ばれている、監禁室に送られる刑罰は受けないのである。
「近藤さん。カナエちゃんを知らない?」
第3病棟のナースステーションで、看護師が、近藤に話しかけた。
近藤は男で、彼も看護士の一人である。
「知らない。・・・またか?」
「下の病棟に連絡してみます」
「補強しても器用に抜けるもんだなぁ、持ち物制限したほうがいいんじゃない、あの子」
「また迷惑ばかりかけて、鬱陶しい」
青い空、カナエは、駐車場の辺りをうろうろしていた。
車体が並ぶ駐車場の奥のほうに、夏の熱く熱されたアスファルトから、根強く生えた草木には、バッタやセミが活動的に動いている。
「・・・セミだ」
カナエは、地面を眺めて、ぽつりぽつりと歩いていると、地上でひっそりしているセミを、素手で捕まえた。
「死んじゃうのね」
カナエは呟いた。
セミは手の中でもがこうともしない。そんな元気もなさそうだった。
「どうせ死んじゃうのなら、私にその魂、ちょうだい?セミの中身って、見たかったんだ、私」
パキン、と音を立て、カナエはセミを真っ二つに割った。黄色くドロリとした体液が地面と手に滴る。興味深そうに、カナエはその中身を確かめていた。
そして、笑った。
「あははは。蜘蛛を潰した時とは違う。中身、からっぽ。楽器みたいな虫だなあ」
カナエはジーッとセミの裂かれた死骸を眺めていたが、そのうち、飽きた、と言わんばかりに、セミを投げうって、何処かに行こうとした。
駐車場と道路の間に段差があり、そこは影になっていて、前方には小川が流れていて、居座ると涼しいのである。カナエはそこで一休みしよう、と段差を降りた。
誰か、座っていた。
洋服とも和服とも似つかない、牛乳の様に白い一枚布を纏った男性が、一人いた。
腕も足も頬も、痩せこけている。
目は虚ろで、俯いて、何も喋らず、動かず、ただ、ぼんやりと座っている。
言うなれば即身仏の様な出で立ちである。
カナエは最初、座ったまま死んでいるのかと思った。びっくりした。
カナエは上方から見下ろしながら、
「もしもし?」
と話しかけてみた。
白い男は答えない。俯いたままだ。
カナエは、男に興味を持った。何をしているのか知りたいのである。目を輝かせて問う。
「ここで何してるの?」
男は答えない。
「暑くない?」
やっぱり答えない。
カナエはなんとかして言葉を話させようと、試みた。そして思いついたのが、くすぐりであった。
「ほらほらほら」
脇の下をくすぐると、男は力なく口の角を上げた風に見えた。
「ここの患者さん?」
男は答えない。
ただ、修行僧のように座禅をしては、虚ろに、俯いている。
「修行?」
問答に堪え兼ねたのか、男は、ゆっくりと、口を開けた。カナエは、聞き逃さない様に、男の目と口を、じっと眺める。
「透明」
男は、そう答えた。
カナエには意味がわからなかった。
「何が透明なの?」
「部屋」
「部屋?」
それだけ答えると、男はもう、喋らなかった。また元の様に俯いて、力なく座り込んでいる。カナエはますます興味を持った。
「なんて呼べばいい?名前は?透明さん?」
男は無言である。
「私ね、ここから見える、あの六木山病院に入院してるの。つまんない場所よ。人の個性に病名につけて、文句を言う人間達の集まりなの。私はすぐにでも退院したいけど、無理そうだなあ」
カナエは男の頭を撫でる。
「ひょっとして彼処に入りたいの?」
「カナエさん!駄目でしょ!こんな場所に来たら!」
やっと看護師が2人飛んできた。カナエは笑顔で手を振る。
「今日は遅い方だったね」
「・・・」
看護師はため息をつく。
「あのねぇ、皆迷惑するの、カナエさん、わかってる?単独外出するなら、ご両親と主治医の先生の許可を得ないと、絶対駄目なんですよ」
「外を歩くのに人様の許可がいるなんて、何様のつもり。私、病気じゃないもん」
「自覚がないのなら、なおさら病院で静かにしてないと。治る病気も治らないよ?」
「だから病気じゃないもん!」
カナエは声を荒げる。
看護師は呆れたか、困ったのかの様子な引きつり笑いで、カナエを宥める。
「はいはい。早く戻って薬、飲みましょうね」
カナエは両脇を抑えられた。そのまま、引っ張られていく。
「もう、看護師のバカ!話してる途中だったのに!」
「はいはい」
「バイバイ!透明さん!今度、何がお菓子持ってきてあげる!」
男はやはり、俯いたままだった。
カナエはそのまま、病院の中に引きづり戻されて、半日隔離部屋に放り込まれた。今日はツイてない日の様だ。
薬も、少し増やされて、カナエも虚ろに、ボーッと白い病室の窓から外を眺めていた。