パン屋にて
恵美は急いでいた。夜の帳が降りるまえに、なんとしても町までたどり着かなくてはいけない。
もともと目的のある旅じゃない。どこを目指しているわけでもない。だが喉は渇くし腹も減る。渇きのほうは、なんとか満たすことができた。
つぎは空腹だ。そして今晩、どこに投宿するかという問題だった。
さっき雨に打たれたせいか、恵美はかるい寒気をおぼえていた。これで風邪とかひいたらシャレにならんぞマジで。
小さな町だが、すでにそれは視界に入っていた。が、なかなか近づくことができない。近いように見えても10キロメートルくらいは、かるくありそうだ。
脚を棒のようにして、やっとの思いで、恵美は町らしき集落にたどり着いた。
とりあえず腹ごしらえだ。空腹が満たされれば、力も希望も湧いてくるだろう。でだ。頼みの綱はこの腕時計だった。
ゴムバンドのアナログ時計。バンドと盤面には、有名なねずみのキャラクターが描かれていた。
お金は持っていなかった。持っていたとしても、ここで日本円が通用するかは甚だ疑問だ。こういうときは現物にかぎる。
たとえ言葉が通じなくても、物々交換の意思表明をすれば、だいたいの意味は通じるだろう。それに賭けるしかなかった。
……それにしても寂れた町だ。店屋とかあるのか、それすら心配になってきた。
すこし進むと噴水が見えてきた。
たぶん、ここが目抜き通りにあたる場所なんじゃないか。たぶん、ここは世界一さみしい目抜き通りだ。人っ子ひとり、いなかった。
だが、なんとかパン屋らしき店を発見した。まさかもう閉店とか、してないよね? 恵美は意を決して店のドアを開いた。
店の奥に恰幅のいい女性がたたずんでいた。腕を組み、恵美のほうをじっと睨んでいる。この店の女将だろうか。
「あ、あのう……パンを」
恵美はダメもとで女将に話しかけた。
「あんた、変わった格好だね。どこから来たんだい」
驚いたことに言葉が通じた。
「えっと、ですね。日本という国からです」
「ニホン? 知らないねえ。で、この町へ何をしにきたんだい」
「それが、」恵美は口から出まかせを言った。「知り合いとはぐれてしまって。捜しているところなんです」
「ふうん」
女将は訝しげな目で見た。
「で、パンを売っていただきたいんですが」
「お金はあるのかい」
恵美は首をふり、腕時計を差し出してみせた。
「いま、お金はありません。かわりにこの時計を差し上げます」




