後編
小学生の頃、わたしは頭を打って病院に運ばれたことがある。検査の結果、幸いにも重篤な異常は見つからず軽い脳しんとうだけで済んだのだが、その影響か頭を打った前後の記憶が曖昧だ。
「確か、そのときもイヅナと一緒に花火大会に来てたんだよね」
どおん、どおんと打ち上がる花火。香しいソースの匂い、手に持った真っ赤なりんご飴。初めて夜に子ども二人だけで出掛けて、楽しくて楽しくて興奮のままにはしゃいでしまったわたしは、そう。確か、はぐれてしまったのだ。今日と同じように。
「……探したんだ。でも、見つからなくて」
言葉を一つ一つ確かめるように、イヅナは言う。
「走り回ってようやく見つけたとき、リコはクラスの男子たちに囲まれてて……喧嘩になってるみたいだった」
そう、そうだ。イヅナとはぐれて、そのときはまだ待ち合わせ場所も決めていなくて、必死に走り回って、クラスの悪ガキたちに見つかった。いつもイヅナをからかったりしている連中は、わたしを見つけるといつもの調子でからかいだしたのだ。
言い合いがいつしか取っ組み合いの喧嘩になって、りんご飴も落ちて踏まれてぐちゃぐちゃになって、けれどやっぱり三対一では勝ち目はなくて。
「押されて、転んで、頭を打ったんだ。俺はリコが地面に倒れる瞬間を見たんだよ」
ごめん、とイヅナが続ける。殆ど覚えていないがそういえば、身体が後ろに傾いだ瞬間、誰かがわたしを呼ぶ声が聞こえた気がする。もしかしてそれはイヅナだったのだろうか。転んだ後のことはもっと覚えていない。ただ、ひどく冷たかった。それだけは何となく覚えている。
「リコが倒れた瞬間、頭が真っ白になった。そのまま動かないリコを見て、今度は目の前が真っ赤になった。……リコが傷つくのだけは許さない。絶対に」
硬い口調でイヅナが告げる。真剣な表情に、胸のあたりがきゅ、となった。ど、どうしよう、嬉しい。滅多なことでは決して怒りの感情を見せたりしないイヅナがそんな風に思ってくれていたのが本当に嬉しい。だってまるで、わたしのことを大切に思ってくれているみたいだ。
「ずっと、引け目みたいなものがあった。リコは昔から俺のために一生懸命で、泣いて怒って大騒ぎして、そのたびに申し訳なくて仕方がなかった」
「申し訳ない?」
「俺は、あまり感じないから。腹が立ったり、悲しかったり、そういうの。だから、リコが怒ってくれるたび、どうして怒らないのかって叱ってくれるたび、申し訳なかった」
同時にそんな風に思ってもらえるのがたまらなく嬉しくもあった。申し訳ないと思うのにリコが俺のために泣くのは嬉しくて、そんなことを考えるのも申し訳なくて。
ごめん、と続けるイヅナの声は徐々に小さくなっていった。
「でも、あのとき生まれて初めて感じたんだ。リコが転んだ瞬間、胸がものすごく熱くなった。絶対に許せないと思った。あれが怒りっていうものなんだと初めて知った」
つまり、と告げたイヅナが一瞬言葉を切った。そして、意を決したように続けられる。
「俺の感情を動かすのは、リコだけだよ。あの頃も、いまも」
真摯な目、だと思った。
普段、あまり多くを語らない彼が殆ど初めて、自分の気持ちを話してくれているーーその事実がたまらなく嬉しかった。誰かに何かを言われる度に大騒ぎしていたあの頃の自分をほめてやりたい。あんたのおかげで、イヅナはちゃんと怒ったり泣いたり出来るようになったんだと。
「良かった、良かったね、イヅナ」
「リコ……?」
「わた、わたしもうれしいよ。イヅナがちゃんと、怒ったり、ちゃんと感情があるって、そりゃそうだよ! 当たり前だよ」
ああ、言ってやりたい。あの頃、イヅナを散々気味が悪いだの血も涙も無いだのぬかしていた悪ガキどもに言ってやりたい。イヅナはちゃんと、立派に怒ったり笑ったり出来るんだぞと。
「良かった、本当、良かったねえ」
「ちょっと待ってリコ。ちゃんと話、聞いてた?」
イヅナが訝しげに眉を寄せる。え、何だよ。聞いていたに決まっている。イヅナはちゃんと怒ったり泣いたり出来ますって、素晴らしいことじゃないか。
そう言ったら盛大にため息を吐かれた。
「あのさ、俺、いま一応、告白したつもりだったんだけど」
「は?」
告白? なにを。
「好きだから」
「はあ」
「リコが」
はいはいなるほど好きだから、と……はぁあ!?
「なななにそれ!!」
「なにそれって……」
イヅナが少しだけ傷ついたような顔をした。あ、いや、違う。違うから! 嫌なわけじゃなくて、ただ純粋な驚きが……!
「す、き?」
「うん」
「ほほ本当に」
嘘ついてどうするの、とイヅナが呆れたように言う。そ、そうですよね。しかし、これ以上ないくらいに頭の中が混乱していてうまく言葉が見つからない。ちょっと待てよく考えろわたし。だって、これ、それって、つまりーー。
両手で顔を押さえて俯く。とてもじゃないが顔を上げられそうにない。きっとひどい顔をしている。真っ赤で真っ赤で、どうしようもない顔をしている。
「リコ」
肩が跳ねた。イヅナの声が先を促している。答えを、促している。
「ね、リコ。聞かせて」
「ーーーーき」
え、と吐息のような声が返ってくると同時に言葉を重ねる。
「すき、好き。好き。ずっと、いまも、昔も」
好き。ぐちゃぐちゃになった思考のまま、ただこれだけを口にした。もっとちゃんと言いたいことはたくさんあったはずなのに、なぜだかそれしか出てこなかった。
だって、好きなのだ。はにかんだような笑みが、少し丸まった背中が、ときどきいたずらっぽく笑うところも、全部ーー。
「好き」
「うん」
ようやく上げた顔の先、少しだけ色味を持ったようにも見えるイヅナの顔がはにかんだように笑った。
まだ顔が熱い。心臓がどうにかなりそうだ。そんなどうしようもないわたしを、イヅナはおもしろそうにまじまじと眺めている。くそ。ていうか何でこの人こんなに普通なの。
ーーイヅナ。ぽつりと名前を呼んだら、なに、と返された。ただ、それだけだ。それだけなのに、馬鹿みたいに嬉しくなった。ほんとうにどうしたんだわたし。
たまらなくなって、手を伸ばした。この人に触りたいと、本気で思った。震えながら伸ばした手はイヅナの柔らかそうな髪をすり抜けて、向こう側に到達した。感じるのはかすかな温もり。いつも通りの。
「……」
「リコ?」
ああ、そうだよなあ、当たり前だよなあ、そう思ったら、少しだけ泣けた。
触れないのだ。だってイヅナは幽霊だもの。当たり前じゃないか、何を今更。馬鹿じゃないか、わたし。
ああ。
ーーつらい、なあ。
「? リコ?」
「……イヅナ」
人間は、なんて欲深な生き物だろう。もっともっとと、絶えず次を欲しがる、罪深い生き物。
想うだけで良いと思っていた。それがいつしか、伝わればいいのにと願うようになった。それはゆっくりと色を変え、やがて叶えたいと強く祈るようになり、そしてついにーー。
「触りたい、よ」
「リコ」
「わたし、イヅナに触りたい。ねえ、触りたいよ」
何を言っているのだろうわたしは。こんなのはイヅナを困らせるだけだ。今ならまだ大丈夫。顔を上げて、冗談と笑って、そうしたらまたいつも通りに出来るはず。それが正しい。ちゃんと解っているはずなのに、できないのは何故だろうか。
ーー触れたい。一度そう思ってしまえば願いは止めどなくあふれて、呼吸すら苦しい。次から次にあふれ出る感情の止め方など、誰も教えてはくれなかった。
「ねえ、リコ」
静かな声だった。どこか神妙な面もちでこちらを見つめるイヅナの顔は、今まで見たことのない種類の感情をたたえていた。
「リコ。俺に、触りたい?」
唐突な問いかけに瞬く。同時に、目尻に溜まった涙が一筋流れていった。
「俺に、触りたい?」
重ねられた質問に、今度はしっかりと頷きを返す。それを見届けたイヅナが解った、とちいさく呟いた。
「イヅナ……?」
「本体、持ってくる」
ーーは?
□□□
謎の言葉を残して踵を返してしまったイヅナの後を小走りで追いかける。
いったいどうしてしまったんだろう。方角的に、おそらく家に向かっているのだろうけれど。もしかして、怒ってしまったのだろうか? わたしがわがままを言ったから。
「い、イヅナ?」
「待ってて」
家に着くなり短くそう告げたイヅナは足早に家の中に入っていってしまった。ぽつんと一人残されてますます不安が募る。あたりは真っ暗だし、家の目の前だとしてもなんとなく怖い。本当にどうしてしまったのだろう。あんなイヅナはあまり見たことがない。よく解らないが、謝った方がいいのだろうか。
(そうだよ。もしかしたら、わたしが変なことを言ったから本当に怒っちゃったのかもしれないし)
今更自分の発言を後悔する。あんなこと、言わなければ良かったーー、そう内心でため息を吐いたと同時、がちゃりと玄関の扉が開かれた。
「リコ」
イヅナ、そう返事を返そうと口を開きかけてーー押し寄せるように流れてきた違和感に文字通り、言葉を失った。
扉が、開いた? なぜ? だってイヅナは物理的に扉の開閉をしなくても、身体がすり抜けて出入りが出来るはずだ。それだけではない。いま聞こえたイヅナの声が、なんだかおかしかった。確かに声色はイヅナのものなのに、きちんと耳を通って聞こえたような気がした。幽霊特有の、頭の中に響くようなそれではなく、そう、まるで、まるで普通の人間が生身の身体を使って発しているようなーー。
「リコ」
声が聞こえる。放心しながら顔を上げて、ついに言葉だけでなく思考すら失った。
ーーこれは、誰だろうか。
あ、う、あ、ど、え? 言葉にならないとはまさにこれだ。意味を成さない、単語ですらない文字の羅列ははたから見たら正気を失ったと取られかねない。しかし、そうなっても仕方がないほどの大事件がいま、目の前で起こっていた。
ーーイヅナの向こう側が見えない。
瞠目して、口をぱくぱくさせながら、さながらお化けにでも出遭ったようにイヅナを指さすわたしに、当の本人は苦い笑みを浮かべた。な、なにこれ、ドッキリ? マジックショー? 何故、どうしてイヅナの身体が透き通っていないのだろうか。わたしの視力はどうにかなってしまったのか。
「落ち着いて、リコ」
どうどう、とまるで興奮する馬でもなだめるようにイヅナが両手を差し出す。その手のひらももちろん透けていなかった。
イヅナの身体が揺れる度にミルクティー色の髪がゆらゆらと揺れる。困ったような瞳は薄い茶色。そんな色、見たことがない。だってわたしの知っているイヅナは明確な色素を持たないもの。ただ、着ている服は何故かパジャマで、肌の色はやけに白かった。
一歩、後ずさる。混乱しすぎて頭の中がパンクしそうだ。
「リコ、待って。逃げないで。俺だよ、解る?」
「い、イヅナ……?」
うん、と頷く唇は薄い桃色ーーああ、もう、駄目だ。いっそ倒れたい。
「リコ」
不意にイヅナがわたしの手を取った。びくりと身体が大きく跳ねる。
ーーあたたかい。いつもの、ほんのりとした微かなそれではなく、血の通った人間が持つ人肌のぬくもり。指先だけが少しだけ冷たいのがいやに生々しい。
「イヅナ……それ、どうしたの」
ようやく絞り出した言葉にイヅナはうん、と頷いた。
「ちゃんと説明する。だから、お願い。逃げないで」
□□□
「幽霊がどういうものか、リコは知ってる?」
とりあえず中に入ってとイヅナに促され家の中に入った。居間に通されソファに座っていると、イヅナが湯気の立ったマグカップを持って現れた。ひとつひとつのことにいちいちびくびく反応してしまって、そのたびにイヅナに苦笑された。
イヅナの家に入るのはものすごく久し振りだ。記憶通り最低限の家具しかない部屋は、混乱しきった頭の中を少しだけ冷静にさせてくれた。
「どういうもの、と言われても……。ええと、人間が死んでから幽霊になる、みたいなものとは違うということくらいしか」
つまり、何も知らないのだ。そんなわたしを馬鹿にすることもなくイヅナは続ける。
「人によって解釈はいろいろあるけど、俺は、生まれたときから精神体のままで存在することが出来る人、だと思ってる」
「精神体……」
精神体とは魂みたいなものだと思って良いとイヅナは言った。人間は肉体と精神体の二つを持って生まれてくるけれど、幽霊は初めから肉体を持たずに生まれ、精神体のみで成長していく種族、らしい。
「俺の場合はとても特殊で。明確に言えば、俺は幽霊じゃない」
「じゃ、じゃあ、なんなの」
「俺は生まれたとき、肉体と精神体の両方を持って生まれた。でも、俺はそれを分離することが出来る。不死者というよりも精霊に近いらしいよ」
ーーつまり、肉体を持ちながら幽霊のように精神体のまま存在することが出来る。そう言ってイヅナは薄茶色の目をこちらに向けた。
イヅナの種族はとても特殊な存在だった。幼い頃は総じて身体が弱く、肉体的な負担を減らすために幼少期は殆どが精神体のまま生活する。イヅナも例に漏れず小さな頃から精神体で生活し、肉体はほぼ眠っていたそうだ。
「そ、そんな種族、聞いたことない」
「俺も、俺の家族以外の同胞は知らない。どこかにいるのかもしれないけれど、会ったことはない。特殊な種族だと聞かされていたから、普段は幽霊で通してきたし」
黙って聞いてはいるが、衝撃が強すぎてなかなか頭に入ってこない。イヅナは幽霊ではなくて、精霊に近い種族でーー。
「それでも、一日に一度は身体に戻っておかないとそのまま分離して戻れなくなってしまうから、夜に眠るときだけは戻っていたんだけど。俺は特に身体が弱くて、戻る度にだるくてしんどくて、いっそ身体なんてなくなればいいと思ったこともあったよ」
精神体というのはとても楽なのだとイヅナは言った。
「感情が鈍くなるというかーー嫌みや悪口も気にならなくなるから周りに煩わされなくて済むし、何よりだるくないししんどくもない。快適だったよ、とても」
そうやってある程度まで精神体で生活し、肉体が成長と共に丈夫になるにしたがって、徐々に二つを融合させていくのだそうだ。普通は。
「俺はなかなか肉体の免疫がつかなくて、いつまで経っても身体と馴染めなかった。どうやってもだるさやしんどさが抜けないし、息苦しいし、もう一生このまま、身体と精神が離れたまま生活していかなきゃならないのかと思った」
それも良いかと、心の隅で思ったこともあった。辛いばかりの身体など手放して、精神体だけで生きていけばいいのではないか。そう言う前例がないわけではない。それで良いのではないかーー。
けれど。
「リコが、いるから」
「え?」
「リコが、人間だから、身体が欲しいと思った。だって、精神体じゃ、リコに触れない」
イヅナが大まじめに言うものだから呆気に取られてしまった。今もまだ二の句がつげない。
「何を言われても意に介さない俺のために泣いて怒って、誰よりも俺のことを考えてくれた女の子。……そりゃ、好きになるでしょ」
それでも高校に上がる頃にはだいぶ肉体の強度も上がり、殆ど苦痛なく二つを融合させることも出来るようになったのだそうな。それなのに今の今まで黙っていた理由を問うと、イヅナは気まずそうに視線を泳がせた。
「タイミングを見計らっていた、というのもあるし、それに……俺の場合、通常よりもかなり長い間肉体から離れてたせいで、その……いろいろな感情とか、衝動、みたいなものを制御するのが苦手、というか」
だからこそリコの気持ちがはっきり解るまでは絶対に言えなかったというか……と、なんだかごにょごにょと続けるイヅナに疑問符を浮かべる。なんだ、つまり、どういうことだ。
意味が解らないと顔に書いてあったのか、イヅナが疲れたような顔をしてため息を吐いた。しばし逡巡した後、言葉を選ぶようにして続ける。
「こみ上げる感情のまま、リコの同意なく、無理矢理リコの嫌がるようなことをする可能性がある、ってこと」
「……」
なんか遠回しすぎてますます解らなくなった。けれど、それに関してわたしにも言えることが一つある。
「わたし、イヅナにされて嫌なことなんてないよ」
言い切ったと同時、イヅナがぴきんと固まって動かなくなった。何故固まる。こっちは本気だ。
ずっと触れたいと思っていた。触れてみたいと思っていた。無理だと解っていても日毎に思いは増すばかり。諦めなければならない。仕方がないーーそう思っていたのだ。いままで、ずっと。
「わたし、いますごく嬉しい」
立ち上がってイヅナの傍らに膝をつく。そっと顔をのぞき見ると、困惑したような目と視線が合った。その目元がほんのりと赤いのはもう気のせいではない。ちゃんとこの目に映っている、幻じゃない。
触っていい? そう問いかけるとイヅナは戸惑いながらも首を縦に振った。恐る恐る手を伸ばして、それを彼の真っ白な右手に重ねてみる。触れる瞬間、イヅナの手が目に見えてびくりと跳ねた。
「あったかい」
ぽつりと漏らす。イヅナがうん、と返す。それだけなのに、何だかまた泣けてきた。
重ねた手のひらの下で細い指がもぞもぞと動いて指を絡めてきた。その内、あたたかかった感触に少し湿り気が帯びてきて、生身の身体だからこその変化に、また少しだけ泣けてしまった。
ーーああ、幸せだ。
涙のにじんだ目でイヅナを見上げる。揺れる視界の中で、彼は薄く頬を染めてはにかんだように笑った。