前編
わたしの幼なじみは、薄い。とにかく、色々なものが。
それは身体の線だったり、感情の起伏だったり、存在そのものだったり、色々だ。しかしそれは仕方のないことなのだとわたしは既に理解している。
「おはよう、リコ」
「うわっ、びっくりした。イヅナ」
わたしの幼なじみは気配を消して人の背後に立つ、ということをよくする。よくする、とは少し違うか。彼は別に故意にそういった登場の仕方をするわけではない。わたしは幼なじみと出会ってから今までずっと、彼の足音を聞いたことがないし、すぐ隣にあるはずの体温を感じたこともないし、そもそも、彼に触れたことすらないのだ。何故なら、彼ーーイヅナは幽霊だから。
人間と他種族が共存するようになって久しい現代において、不死者系の人々というのはあまり珍しいものではない。うちの近所の薬局にはミイラさんが元気に働いているし、最近テレビでよく見かける女子に大人気のとあるアイドルグループは全員が吸血鬼だったりする。さすがに人間や獣人に比べたら数では劣るが、妖精や精霊ほど少なくもない。そんな認識。
イヅナはお隣さんだ。幼い頃からそばにいて、一緒に育ってきた幼なじみ。不死者ーー幽霊だからといっても、イヅナたちは死んだ人間が恨みや未練を残してこの世にとどまっているとか、そういう類のそれとは少し違うらしい。この世に存在したその瞬間から彼らは「不死者」という種族であり、人間とは一線を画す存在なのだ。
「ごめん、驚かした?」
突然の登場にビクつくわたしに、イヅナが眉を下げて謝罪する。昔から幾度となく繰り返しているやりとりだ。毎回毎回こりもせず驚くわたしに、イヅナも律儀に毎回申し訳なさそうに頭を下げる。いい加減慣れたらどうなんだと自分でも思うが、仕方ない。気配も何もない状況から、突然頭の中に直接語りかけるように声が響くのだ。これは慣れない。
謝罪するイヅナに大丈夫大丈夫と首を振り、早く行こうと歩き出す。かつかつとローファーで地面を踏みしめながら歩くわたしを追うように、イヅナが音もなくスーッとついてきた。そしてそのまま隣に並ぶ。幽霊である彼の身体はうっすらと向こう側の景色が透けて見える。色彩もぼんやりとしか確認できないが、全体的に白っぽい。そんな彼は今、高校の制服を着て、同じく制服を着たわたしの横を学校へ向かうべく歩いて……歩いて? 歩いて、で良いんだよね。足あるし。
とにかく、昨今の幽霊は学校にだって通うのだ。
□□□
イヅナに出会ったのはうんと小さい頃だ。小さすぎて細かい部分は覚えていないが、イヅナは不思議な男の子だった。透き通っていて、あまりおしゃべりもしない、いつもどこか遠くをぼんやり見つめている男の子。あまり友達の輪にも入ろうとしない彼が子どもながらに心配で、幼い頃はいつもくっついて回っていた。小学校にあがってからはお隣さんだからと理由を付けて迎えに行って一緒に登校するようになった。初めは明らかに戸惑いを見せていたイヅナも徐々に打ち解けてくれて、今では胸を張って仲の良い幼なじみになれたと言える。
高校生にもなって幼なじみの男の子と一緒に登校していると友人に驚かれることがある。どうやら、普通はある程度成長するとだんだんと疎遠になってしまうものらしい。それは異性になると更に顕著のようだ。思春期ってむずかしい。
ちら、と傍らの幼なじみを見上げる。
成長と共ににょきにょき伸びた上背は、わたしがあまり伸びなかったという点を差し置いても結構高い。しかしそれをあまり感じさせないのは、薄っぺらい身体の線とやや猫背気味の背中のせいだろうか。幽霊が成長するものなのかとか、そういった疑問は無意味だ。実際、こうやって成長している幽霊が目の前にいるのだから。
物静かな幼なじみ。あまりおしゃべりをしないのは成長しても変わらなかった。それを彼の種族のせいだと思っている人がときどきいるが、きっと違う。彼が静かな空間を好むのは、もとがそういう性格だからだし、それに彼は特別無口というわけではない。話しかければ答えてくれるし、慣れれば他愛ない話にも応じてくれる。要するに人見知りなだけなのだ。しかし、これを知っている人は少ない。そして、その方がわたしとしても都合が良い。ライバルは少ないに越したことはないし。
あまり表情の変わらないイヅナが照れたときに時々見せる、はにかんだような笑みがたまらなく可愛いなんてこともわたしだけの秘密なのだ。
学校へ着いたらイヅナとはさよならだ。何故ならクラスが違うから。いつも通り手を振って別れを告げる。それに彼も手を振り返して応えると、スーッと音もなく自分の教室へと入っていった。同時に教室内から「わっ」だの「きゃっ」だの聞こえてくる。突然すぎるイヅナの登場に度肝を抜かれたクラスメイトたちの悲鳴だ。毎朝の恒例行事の一つである。ちなみにイヅナに悪気がないのは言うまでもない。
「おはよー、リコ」
自分の教室に入ると、友人のミナセが手を振って迎えてくれた。ミナセは兎の獣人で、中学生の頃からの仲良しだ。わたしのイヅナへの気持ちを知っている一人でもある。
「今日も仲良く登校? 見てたよー」
にんまり笑ったミナセに窓の外を示されて口ごもる。ミナセの席は窓際だから登校してくる生徒がよく見える。今日もまたばっちり見られていたようだ。
異種族間結婚が珍しくなくなった昨今でも、人間が不死者と結ばれる事例は少ない。特に幽霊とのそれは極めて稀だ。まず第一に、彼らには実体がない。触れることすら出来ない相手と恋愛関係になるというのはなかなか難しい。ふれあいを重視する人間ならなおのこと。だから、わたしとイヅナの関係を恋愛のそれだと思っている人は学校にはまずいないし、わたしがイヅナに特別な感情を抱いていると言ったところで素直に認めてくれる人もなかなかいないだろう。現実を見ろと、そう言われるのが関の山か。
ミナセはそういう意味ではとても珍しい種類の人物だ。彼女はわたしの気持ちを早い段階で見破って「いいじゃん、応援する」と言い放ったのだから。
「そんな恋する乙女に朗報でーす」
不意にミナセが一枚の紙を差し出してくる。A4サイズのそれが目の前に……って、近い近い。見えないから。
ぐいぐいと紙を押しつけてくるミナセから一歩引いて改めて渡されたものをまじまじと見る。「大輪の花々が夜空を彩る!」とあおり文句が書かれた紙の中央に大きく描かれているのはーー。
「花火大会?」
「そ。今度の日曜。イヅナくん誘って、行ってみたら?」
ちなみに私も彼氏と行くから! とかなんとかミナセが横で騒いでいる。真っ白の兎耳がぴこぴこと嬉しそうだ。更に続く彼女ののろけを右から左に聞き流してチラシをまじまじと見つめる。花火大会、か。
ーーイヅナ、行ってくれるかな。
□□□
行きは殆ど一緒に行っているが、帰りは別々のことが多い。お互い帰りが何時になるか分からないし、わざわざ合わせる必要もないからというのが理由だ。
しかし今日はあらかじめ一緒に帰ろうとイヅナに伝えてあった。花火大会のことも話したかったしーーしかし。
(こっ、こんなに遅くなるなんて!)
まさか、臨時の委員会があるなんて! イヅナは待ってるよと言ってくれたが、まさかこんなに遅くなるとは思わなかった。すっかり薄暗くなってしまった廊下を早足で進む。イヅナ、まだ待っていてくれているだろうか。さすがに先に帰ってしまったかもしれない。
(あっ)
廊下の先、イヅナが待っているはずの教室から光が漏れていた。電気がついている。ということは、まだ待っていてくれているのかもしれない。
なんとなく気まずくて、そろそろと足を進める。そのせいだろうか。わたしの耳は室内から聞こえる声を正しく捉えてしまった。
「気味悪いんだよ、お前」
ーーえ。
どきりと、心臓が大きな音を立てた。
「暗いし、何考えてんのか分からねえし、ほんと、何でお前みたいなのがーー」
声は男性のものだった。もちろん、イヅナのそれではない。しかし、わたしにはそれが誰に向けられたものなのかすぐに解った。
「ーー薄気味悪ぃ」
最後は吐き捨てるように言って、直後に室内に人の動きを感じた。思わずびくりと身構えたが、声の主はわたしがいるところとは反対側の扉から出て、こちらに気づかずつかつかと歩いていってしまった。その足音には隠しきれない機嫌の悪さが滲んでいる。彼の後ろ姿には見覚えがある。確か、わたしと同じクラスの男子だ。
ほう、と細く息を吐いてそっと教室の中を覗く。そして、窓際に静かに佇むイヅナを見つけた。
肉付きの薄い背中。上背こそ伸びたが、彼は昔からとても華奢だ。うっすら透き通っている身体ーー外はすっかり真っ暗で、電気がついた室内では窓ガラスにはっきりと人の姿が映るはずなのに、イヅナの姿は映らない。イヅナの隣にある窓ガラスには、がらんとした教室内の風景が映っているだけだ。まるで、彼の存在など初めから無いとでもいうように。
ぐ、と胸の前で手を握る。猫背が、いつもよりちいさく感じた。まるで、そのまま空気にとけて居なくなってしまうようなーー。
「ーーイヅナ!」
思いがけず、大きな声が出てしまった。イヅナが驚いたように振り返り、あれ……リコ、ときょとんとした顔で瞬く。
わたしが何も言えずにいると、イヅナがああ、と呟いて、薄く笑った。
「もしかして、聞いてた?」
イヅナが他人からあんな風に言われるのは実は初めてではない。イヅナは昔からこういう性格だから、幽霊という種族も相俟って「気味が悪い」「得体が知れない」と遠巻きに見られることも多いのだ。
それも成長するにつれて周りも分別がつくようになり、徐々になくなっていたのだが。小学生の頃はもっとひどかった。イヅナの、どこか捕らえ所のない性格や透き通った身体は、同年代の子どもたちにしてみれば奇異の対象でしかなかったのだろう。学校に彼以外の不死者がいなかったというのも理由の一つかもしれないが、子どもというのは遠慮を知らない。陰口なども少なくはなかった。
イヅナは陰口を言われても仲間外れにされても決して怒りはしなかった。どうして怒らないのかと問うわたしに、彼はただ困ったように笑うだけだった。
ーーこんな風に。
「ごめん、変なとこ見せて」
最近はああいうの無かったんだけど、とイヅナが続ける。やはりそこに怒りや憤りといった感情が見えなくて唇を噛む。それよりも、こんな状況で居合わせてしまったわたしに対する申し訳なさをひしひしと感じるくらいだ。
きっと、本当にイヅナは何とも思っていないのだろう。自分が何かを言われることに関しては全く頓着しない。昔からそうだ。むしろ、イヅナが何か言われる度に猛烈に怒って泣いて騒ぎ立てたのはわたしの方だ。
「ひどい顔」
ふと、気づけばイヅナの透明な手が頬の辺りに置かれていた。驚いて瞬く。上げた視線の先の彼は、やはり苦笑していた。
盛大にどもりながら「ななな、なに」と声を出す。イヅナに触れられても特に感触はないけれど、なんとなく、触れられた箇所があたたかいような不思議な感覚が残る。今、わたしの両の頬が熱いのも、きっとそのせいだ。触れられているのは、片方だけだけれど。
「うん。泣いてるかと思って」
「えっ」
「こういうとき、いつも泣くから。リコ」
思い出したようにくつくつと笑うイヅナに慌てて「もう泣かないよ!」と返す。
だ、だいたい泣いていたのは小学生の頃であって、今はもうそんな簡単にわんわん泣いたりしないから! そう力説したらハイハイ、となんだか適当に返された。ぜったい信じていない。
「イ、イヅナは、嫌じゃないの? どうして怒らないの」
過去に何度もした質問だ。怒って騒いで泣き出す度にイヅナにぶつけた質問。
イヅナは怒っていいのだ。泣いたって良いはずだ。けれど、彼はそれをしない。少なくともわたしの前では、絶対に。幽霊だから悲しくないとか辛くないとか、そんなことはきっと無い。それなのに。
「俺が泣いたら、リコが泣けないでしょ」
「え?」
「俺よりずっと泣きたそうな顔してるのに、俺が先に泣いたり怒ったりしたらリコ、遠慮して泣けないでしょ」
な、なにそれと返した声はひどく情けないものだった。それではまるで、イヅナが怒ることが出来ないのはわたしのせいみたいだ。 ひとりでに眉がへにょりと下がる。それを見て、イヅナがまた薄く笑った。
「俺が怒らなくても、泣かなくても、全部リコが代わりにしてくれる。だから、平気。誰に何を言われても、リコが解ってくれてる」
そう言ってイヅナは照れたように、くしゃりとはにかんで笑った。その笑みに胸の奥がぎゅっと詰まる。
それは、ずるい。そんな風に言われたら何も言えなくなる。また、泣きたくなる。
イヅナのこんな笑みを見る度にああ、好きだなあ、とそんなことを馬鹿みたいに実感して、さっきまで確かにあった怒りも悲しみも、一瞬でどこかへ行ってしまうのだ。