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氷の世界

作者: 京介

 朝、目覚めた涼子が目にしたのは窓の外一面に広がる雪景色だった。

 涼子は驚き、急いで布団から出た。ついさっきまで感じていた眠気は一瞬で吹き飛んでしまった。

 彼女の住んでいる地域では雪が積もることは珍しかった。冬になれば雪は降るが、すぐに止んでしまったり、雨に変わってしまったりしていた。

 しかし今回は違っていた。着替えもそこそこに外に飛び出した涼子は思わず歓声を上げた。

 庭は一面真っ白で、地面が全然見えなかった。一歩踏み出すと足がくるぶしの辺りまで沈み込んだ。こんなことは初めての体験だった。

 雪はまだ降り続けていた。このまま降り続けば、昼までには膝くらいまで積もるんじゃないかと涼子は想像し、嬉しくなった。

 その時、家の中から怒鳴り声がした。それにかぶせるようにしてヒステリックな声が響き渡る。また両親が喧嘩しているな、と涼子は思った。

 両親は仲がとても悪かった。些細なことで爆発した。きっかけは父親の時もあり、母親の時もあった。一昨日は飯がまずいと言って父親が爆発した。昨日は便座が上がっていると言って母親が爆発した。今日は何が原因だったのだろうか。あまりに小さなことで喧嘩が始まるので、涼子はもはや何が原因なのか想像もできなかった。

 涼子は近くの公園に行くことにした。慣れてはいたが、やはり両親の怒鳴り声を聞くのはつらかったからだ。それに、公園に行けばもっと雪が積もっているかもしれない。

 涼子には友達は一人もいなかった。だから公園にも一人で行くつもりだった。そもそも、他人とどこかに出かけようという発想が、彼女にはなかった。

 彼女はまだ六歳で、小学校に通っていた。それでも友達は出来なかった。学校の先生も涼子にあまり関心を持たなかった。それでは両親はといえば、毎日あの調子だった。

 涼子は世界で一人ぼっちだった。

 誰も彼女のことなど、気にもしていなかった。

 だから、公園に行くことは誰にも言わなかった。

 家には入らずに、表から玄関に回り込んだ。今は両親の顔を見たくはなかった。玄関で傘を手にする。雪なので傘など必要ないかとも考えたのだが、降雪の勢いが増していたため、念のためさしていくことにした。

 傘を広げて雪の中を歩き出した。お気に入りの傘にマフラーを身に着け、大切な長靴を履いて。

 とても嬉しくて、顔が自然にほころんだ。



 涼子は降り続ける雪の中を一人で歩いていた。

 雪は止む気配を見せなかった。それどころか強風も吹き始め、もはや吹雪のようだった。

 涼子は不安を感じはじめていた。傘に雪が積もって重かった。傘の角度を変えて雪を落とすが、またすぐに積もり始めた。積雪は既にくるぶしどころではなく、膝に届きそうだった。歩くためには、雪の中からいちいち足を引き抜かなければならなかった。

 おかしい。

 こんなことは、今までに一度もなかった。

 歩き続けながら涼子は考えた。

 小学一年生だった彼女には、気候についての知識や理解はほとんどなかった。

 しかしこの大雪は、この地域では異常な積雪であることは何となくわかった。

 引き返そうか、と涼子は思った。

 まだ両親は喧嘩をしているかもしれなかった。家に帰るのは気が進まなかった。

 しかし彼女はすでに体力をかなり消費してしまっていた。このままでは公園に着く前に倒れてしまう可能性もあった。

 涼子は家に帰ることにした。身体が疲労で重たくなっていた。手足も冷たい。暖かい家が恋しかった。体感的にはかなりの時間が経っている。もしかしたら両親の喧嘩も収まっているかもしれない、と彼女は思った。

 涼子は身体を反転させ家の方角を向いた。そのまま自分の家に向かって歩き出そうとした。

 そのとき彼女は違和感を覚えた。いつもと何かが違った。

 違和感の正体に気付いた瞬間、涼子は自分の心臓が跳ね上がるのを感じた。寒さにも関わらず汗が吹き出し、呼吸が荒くなった。

 涼子は自分の知らない場所に立っていた。

 傘で視界が塞がれていたので気がつかなかった。彼女の記憶に、こんな場所は存在しなかった。

 周囲を見渡した。家や電柱など、彼女の生活空間に当たり前に存在していたものが、一つもなかった。そこには何もなかった。ただ雪だけがあった。

 涼子はひどく混乱した。近所にこんなところはない。すべてがおかしかった。

 彼女は泣きそうだったが、やがて歩き始めた。雪はまだ吹雪いていた。状況が呑み込めないままだったが、このままでは死んでしまうことは確実だった。それは嫌だった。

 しかし方角も自分がいる場所も分からない。涼子は闇雲に進んでいった。自分の進む方向に家があると言い聞かせた。

 雪は勢いを増し続けた。

 あれから長い時間、涼子は歩き続けた。歩き続けても歩き続けても、何も見えなかった。方向が正しければすでに家についているはずだった。

 涼子は自分の選んだ方角が間違っているようだと思った。

 だんだん足の感覚が無くなっていった。

 雪は腰のあたりまで積もっていた。

 もう、動けなかった。

 涼子は意識を失い、雪の中に倒れ込んだ。



 意識を取り戻した涼子は、自分が奇妙な場所にいることに気づいた。

 雪は止んでいた。それどころか積もっていたはずの雪がすべて無くなっていた。代わりに地面がつるつるしていて涼子が歩いていたアスファルトの地面とは全然違っていた。

 涼子は地面に触れてみた。透き通っていてとてもきれいだった。どうやら氷のようだったが、不思議と冷たさを感じなかった。ガラスみたいだ、と思った。

 涼子は歩き出した。もう寒くはなかった。

 あたりは暗くなっていた。どうも自分が寝ている間に夜になったらしい。

 意識を失う前と同様、周囲にはなにも無かった。雪すらなくなっていた。

 ガラスのような氷のような地面の上で、涼子は茫然とたたずんでいた。

 自分がどこにいるのか、どうしてしまったのか、涼子にはまったくわからなかった。

 私は雪の中で意識を失ってしまったはずだ。

 もしかしてここはあの世なのではないか。そう思った。

 涼子はもちろんあの世がどうなっているかなどは知らないし、そもそも存在しているのかも分からなかった。

 何もなかった。

 木も一本も生えていないし、空も真っ暗で、星も月も出ていなかった。音も全然しなかった。

 涼子は再び歩き出した。なにか考えがあるわけではなかった。ただ焦燥感だけがあった。このままここにいてもどうしようもないと思った。自分の家がどちらの方角になるのか分からなかったが、たとえ方向を間違えて反対に進んでしまったとしても、こんなところにとどまっていることは我慢ができなかった。

 涼子は歩き続けた。

 ただひたすら歩き続けた。

 この世に生まれてこれまで歩いてきた距離を遥かに超えるのではないかと思うほどだった。

 やがて、家が見えてきた。しかしそれは自分の家ではなかった。

 周囲の様子は全く変わっていなかった。相変わらず地面はつるつるとした氷のようなもので覆われていたし、星も月も出てはいなかった。

 そんな何もない世界に、小さな家がぽつりと、ただあった。

 家もつるつるとした氷のようなものでできていた。家の中が透けて見えるのではないかと思い涼子は顔を近づけてみたが、中を確認することはできなかった。

 家には扉はついていた。小さな扉で、小学一年生である涼子の背とほぼ同じ高さだった。

 涼子は扉を開けて中に入った。

 家の中には机と椅子が一つずつあるだけだった。他には何もなかった。

 机には何かが置いてあった。それの正体を知ったとき、涼子は驚いて声を上げた。

 それは涼子が三年前に大事にしていた、大きな熊のぬいぐるみだった。

 とても大事にしていたものだったが、なくしてしまっていた。

 家の中をあちこち探したが見つからなかった。涼子は悲しんだし、泣きもした。しかし、そのうち忘れてしまった。

 その大きな熊のぬいぐるみが、椅子に置いてあった。

 しかしもっと驚くことが起きた。涼子の声に、びくりとぬいぐるみが反応したのだ。

 熊のぬいぐるみはこちらを向くと「驚いた」といった表情をした。まるで人間のような自然な表情だった。

「なんと、涼子じゃないか」

 熊のぬいぐるみは低い声で言った。涼子は驚いていたが、熊のぬいぐるみも同じように驚いていたようだった。

「本当にユウなの?」

 涼子はぬいぐるみに向かって言った。ユウとは、彼女がこのぬいぐるみにつけていた名前だった。大人しく引っ込み思案だった涼子は勇気という言葉に強いあこがれがあった。ユウと名づけたのは、自分を常に「勇」のそばに置いておくためだった。

「なつかしいな、その名前。確かに私はユウだ」

 ユウは答えた。

「ユウはどうしてこんなところに?」

「涼子こそどうしてこんなところにいるんだ」

「分からない。……ここはどこ?」

「ここは忘れ去られてしまったものがたどり着く場所だ。私は勝手に氷の世界と呼んでいるがね」

「氷の世界……」

「なに、別に深い意味があるわけじゃない。ただ……」

 言いながらユウは、その布でできた手で、つるつるした氷のような壁を撫でた。

「この世界は氷のようなガラスのような、よく分からないものでできている。だからそう呼んでいるだけなんだ」

 涼子もまねをして壁を撫でてみた。冷たくはないし溶ける様子もなかったが、やはり氷のような気がした。

「それで、忘れられてしまったものがたどり着くというのは」

「私の場合は君だ、涼子。涼子に忘れられてしまったから、ここに来ることになった」

「私のせいなの?」

「なに、気にしちゃいない。おもちゃの人生なんてそんなものだ。買われてしばらく遊ばれてそのままポイ。みんな一緒だ」

 気にしていないと言われても、涼子はなんだか自分がひどいことをしてしまったような気になった。

「ごめんなさい」

「謝る必要はない」

 ユウは優しくいたわるように言った。その声には涼子を見守る保護者のような響きがあった。

「それより、ユウ。君こそなんでこんなところに来たんだ。ここは氷の世界。忘れ去られてしまったものだけがたどり着く最果ての地だ。そんなところに、どうして君がいる」

 涼子は考えた。しかし実のところは考えたふりをしただけだった。どうしてここに来ることになったのか、涼子は誰よりも知っていた。

「それはきっと、私がどうでもいい、いなくてもいいような子供だから」

 ユウは何も言わなかった。ただ優しく涼子を見つめていた。その瞳は深くて吸い込まれそうだった。その瞳で見つめられた涼子は、自然に話し出していた。

「お父さんもお母さんも喧嘩ばっかりして、私のことなんて見ていないもの。学校で何があったかなんて全然聞かないし、私に何の興味も持っていないのよ。学校でも同じ。誰も私のことなんて気にしていない。誰一人として私を必要とはしていないし、学校の先生も私をどうでもいいと思ってる。みんな口には出さないけれど、私には分かる。なにより……」

 なによりこの世界に足を踏み入れてしまったのが一番の証拠だ。ここは忘れられたものしか入れない、氷の世界。そんな場所に自分は迷い込んだ。改めて考えると悲しくなった。現実を思い知らされたような気持ちになった。涼子は泣いてしまった。

 柔らかい感触がした。ユウが涼子の隣に来て、顔の涙をぬぐったのだった。衝動的に涼子はユウを抱きしめて、大声を上げて泣いていた。

 静寂のみが支配するこの世界で、ただ泣き声だけが響き続けた。

 しばらくして涼子は泣き止んだ。

「落ち着いたか」

「うん」

 ユウは涼子の方を叩いた。

「さあ、もう行きなさい。涼子はここにいてはいけない」

「どうして?」

「長くこの世界にいると、帰れなくなる。涼子は現実の世界に帰らなければいけない。現実と闘わなければいけない」

「嫌だよ、そんなの」

 現実世界は、涼子にはつらすぎる。

「私もここで、ユウと一緒に暮らす。ずっと一緒だよ」

「駄目だ」

「どうして? ユウは私のことが嫌いになった?」

「ユウのことは大好きだ。だからこそ、ユウはここにいてはいけない」

 ユウはきっぱりと言った。

「この世界には何もない。生も死も無い。全てのものからはみ出てしまった世界なんだ。この世界で生きるということは、死んでいるのと同じだ」

「でも……」

「君は現実を生きなくちゃいけないんだ」

「でも嫌なの! つらいし、苦しいの! 絶対に戻りたくない!」

「何度も言わせるな、涼子。君は現実世界に戻り、現実世界を戦いながら生きるんだ。つらいこともある。苦しいこともある。死にたくなるようなことだってたくさんある。でも君は強くならなくちゃならない。生きていかなければならない。進むべき道が見つからないこともあるだろう。でも道が見つからないなら探せばいい。きっと道はある。どうしても見てからなければ、自分で道を作ってしまえ。生き続けることは、成長し続けるということだ。成長し続ける限り、君は不幸にはならない。絶対にだ」

 涼子はまた泣きそうになったが、我慢した。

 ユウはそんな涼子を見て、微笑んだ。

「えらいぞ。涼子、君は強い子だ。心配いらないさ。もしくじけそうになったら、またこの世界に来なさい。なに、きっと来れるさ」

 軽い調子でユウは言った。

「さあ、帰るんだ。扉を開けて外を出て、そのまままっすぐ進みなさい。絶対に振り返ったらいけないよ」

 涼子は立ち上がった。

 迷いがないと言えば嘘になる。でももう決めていた。涼子は現実の世界に帰ることにした。

 家を出て、ユウと別れた。行く先は何もない。本当にこの先に現実世界があるのかも分からない。

 でも涼子はためらわなかった。ユウがそう言った。ただそれだけで信じられた。もしユウが間違えていて、この先に何もなかったとしても、それでもかまわなかった。

 道が見つからなければ探せばいい。

 どうしても見つからなければ、自分で道を作ればいい。

 涼子はまた長い時間を歩き続けた。

 歩いて歩いて、足が棒のようになっても歩き続けた。身体中が悲鳴を上げていたが、それでも歩くのをやめなかった。

 涼子の人生を戦えるのは、涼子本人だけだ。

 これは涼子の戦い。諦めるつもりは毛頭なかった。

 やがて光が見えた。

 光はだんだん大きくなっていった。

 涼子は光に包まれた。



 涼子は、自分が雪の中に倒れていることに気づいた。

 公園の目の前だった。雪はまだたくさん積もっていたが、すでに降雪は無かった。

 涼子は立ち上がると、自分の家に向かって歩き出した。

 強い自信が自分の中にあった。

 もう負けない。何もしないで負けるなんて、そんな馬鹿なことは、もうおしまいだ。

 私はユウから、戦うことを教わった。

 まずは、両親からだ。

 両親を恐れるあまり、今までは何も言えなかった。

 でも、それじゃ伝わらない。

 言葉に出さなくちゃいけないのだ。

 人間は言葉を使うことができる。

 それはきっと、とても幸せなことなのだ。

 涼子は強く、次の一歩を踏み出した。


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