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日常と少しの非日常(3)


 その日、筆写官作業室は常ならぬ緊張状態におかれていた。

 普段は実作業に携わることが少ない室長も、神妙な面持ちで筆者官たちの様子を見ては、小声で指示を出したりしている。

 なにせ、お出ましなのである。このようなことは、滅多にないという。

 この殺風景な作業室にお出ましになっているのは、恐れ多くも第二王女のオルキア姫だった。椅子に座ることもせずに立ったまま、後ろに年配の女官を一人だけ従えて、作業の様子を静かに見学なさっている。


 王城では、王女や一部有力貴族の令嬢が、形式的にいくつかの学芸分野の総裁を務める伝統があった。年若いうちなど、もちろん大したことはできないのだが、それでもまったく意味がないわけではない。

 文芸、絵画、工芸、薬草術等々・・・これらの諸活動には庇護や後ろ盾が不可欠で、将来的に彼女たちが中心になってその役割を果たすためだ。

 そして名目上、書庫や筆写といった書物に関する分野の総裁が、この第二王女なのだった。


 とはいえ、王女や令嬢が成果物ではなく途中経過、つまり現場の作業を見にいらっしゃるというようなことは、少なくともモンモパンは聞いたことがないという。

 そんなわけで、彼などは緊張のあまり、はっきりと挙動不審になっていた。しかし、それ以上に挙動不審であったのが、ティリアだった。

 なんとなれば。

 はじめて拝見するはずの王女のお顔に、見覚えがあったからである。

 忘れられるはずもない、東屋のところで会ったかぶり布の少女。その顔に、王女のお顔は瓜二つだった。


 あの少女、実は王女様だったりして――ティリアとて、そんな想像をしないわけではなかった。しかし、想像は想像に過ぎず、現実を目の前につきつけられれば、悔恨の念もまたひとしおである。

 見るからに高貴な少女に、なんであんなに年上ぶった態度をとってしまったのか。いやしかし、他人の空似という可能性がないわけでもないような――めまぐるしく考えながら、ティリアは幸運の糸が再び切れそうになっているのを感じないわけにはいかなかった。

 さらには次の瞬間、完全にその糸が途切れる音を聞いた。


 あろうことか王女の御前で、ティリアは予備の木炭が入った桶を足でひっかけ、その場に中身をぶちまけてしまったのである。

 周りの空気が完全に凍る。

「うわっ・・・! も、申しわけ・・・」

「どうか、お許しください。その者は、まだこちらに来て日が浅いのです。すべて、私の指導がいたらなかったせいで・・・」

 室長がティリアの謝罪にかぶせるように謝っている。かばってもらっているのを感じながら、この咎が室長や他の筆者官にまで及んでしまったら・・・と、胸がつぶれそうな思いがする。

「よいのですよ、室長。それほど気に病むようなことではありませんから。それにしても、このような粗忽者を教育するなど、あなたもさぞかし苦労が多いことでしょう」

 よく通る声で言った王女は、ここでうっとりするような微笑みを浮かべる。

「ところで、こちらの作業は日没までとか。実はわたくしの方でも、書物に関して手伝いが欲しいと思っていたのです。日没後にでも何回か、その者に手伝わせることにしましょう。それで、先ほどの粗相については不問に付します」

 なぜか後ろに立つ女官の目が泳いでいる。

「では、今後も我が国が誇る技術を盛りたてるべく、研鑽を積まれますよう・・・いいえ、見送りなど不要です。どうぞ、そのままお続けなさい」

 美しい王女は、光沢のあるドレスの裾をひるがえし、女官を従えて作業室を出ていった。



 はいつくばって木炭を拾い集めながら、ティリアは何をどう考えてよいのかわからなかった。

 木炭は暖をとるためというより、書いた文字のインクを乾かすために使うもの。補充や管理はティリアの役割だったが、今まで一度だってこんな粗相をしたことはなかった。それがなんだってこんなときに。それに、手伝いって、自分にできるようなことなのか・・・。

 日没後はティリアの貴重な勉強時間だったし、見習いの身分では用具の手入れもあった。しかし、そんなことを言っている場合ではない。王女様の慈悲のおかげで、首の皮一枚つながった状態だ。


 ティリアは手や顔を木炭で黒く汚したまま、室長や他の筆者官に謝って歩いた。気にするなと言ってくれるのがかえって辛かった。

「お美しいだけでなく、なんて慈悲深い方なんだろう!」

 感極まったようにつぶやくモンモパンの声を聞きながら、ティリアはどうにも何かがおかしいのでは、という気分をぬぐえないのだった。




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