日常と少しの非日常(2)
東屋に向かうティリアを離れた場所から眺めていたアルデアは、どこからか湧いて出たような銀の髪の男に話しかけた。呆れた表情で。
「おまえは・・・。俺に近づくときは、気配を消すなと言ってあるだろう。気持ち悪いんだよ、まったく。ところでおまえの名前、あの娘に教えておいてやったぞ。俺に感謝しろよ」
気持ち悪いと言われたコルウスは、特に表情を変えることもなかった。
「頼んでいない。それに、教えたのは私の名前だけじゃなかった」
「聞いてたのか。それで拗ねてるのか? なんだそのかわいらしい反応は」
「それより」
相手の顔を一瞥して受け流し、コルウスはそう言ってことばを切った。
「それより?」
アルデアが平板な口調を真似て問い返す。
「放っておいていいのか」
言いながら、目顔で東屋の方を指している。
「一応警備に声はかけたし、まあ、大丈夫だろ。今までが過保護すぎたのかもしれない。たまには放っておいてやるさ」
「・・・」
「なんだよ、不満そうだな。いつからそんなに心配症になったんだ。ひょっとして、あの娘の方を心配してんのか? ・・・そっちも大丈夫だろうよ、多分。さあ、もう戻らないとな」
アルデアはコルウスの肩をこづくと、歩き出した。
「アルデア」
「ああ?」
「・・・どういう意味だ、むきたまごって?」
「気になっちゃうか。それとも、俺の言語センスを馬鹿にしてんのか?」
並んで歩く二人の頭上に、どこかのんびりとした日没前の鐘の音が響いた。
一方、恐る恐る東屋の裏手にまわったティリアは、やはりそこに「動くもの」を見つけた。
それは、しゃがんだ人間の後ろ姿だった。この季節にしては薄手の、粗末な服に包まれた体は華奢で、ティリアより一つか二つ年下の少女であろうと思われた。
白いかぶり布をしているところを見ると、厨房か施療室あたりで働いているのだろう。そう見当をつけ、話しかけた。
「どうしたの? 何か落し物でもした? 一緒に探そうか」
背を向けたまま、少女が立ちあがる。そうしてみると、少女の背丈はティリアとあまり変わらなかった。彼女が黙ってティリアに向きなおった。
「・・・!」
その瞬間、ティリアはことばを奪われて、少女の顔を食い入るように見つめていた。
金茶の髪に縁どられた白い肌は、細かな光の粒を振りまくよう。すべらかな紅いくちびるは、薔薇のつぼみの形容もかすむほど。そして大きな紫紺の瞳は、まっすぐにティリアに視線を投げている。
見目形の美しさだけでなく、少女の放つ凛とした空気に、ティリアは完全にのまれてしまった。
「・・・ほ・・・ら」
少女が何かをつぶやいたが、抜け殻状態のティリアはそれを聞き逃した。
「え? ごめんね。もう一度、言ってく」
「ア・ホ・づ・ら」
アホ面?
アホ面?
アホ面?
頭の中で三回ほどリフレインされてから、ようやくことばの意味を認めたティリアは、もう一度抜け殻になりそうだった。しかし、幸か不幸か親指大の黒い虫が飛んでくるのが目の端にうつって、それをまぬがれる。
毒虫。この季節なら大した毒は持っていないだろうが、刺されればそれなりに痛いし腫れる。毒虫であっても美しいものが好きなのか、それはティリアには目もくれず、少女の方に飛んでいく。
少女の方では毒虫を知らないのか、よけるようなそぶりも見せない。
もうすぐ少女の右肩のところに到達してしまう、というときに、ティリアは左手を伸ばした。そして掴んだ、毒虫を。
「あっ」
少女が澄んだ声をあげた。ティリアは背中の後ろに虫入りの左手を隠すが、その手の中では毒虫による必死の抵抗が始まっていた。
「今のは、刺されてはダメな種類の虫だから。覚えておこうね」
ティリアは、どうにか年上としての威厳を保てたか、と思いながら、考えもなしに掴んでしまった毒虫の処遇に頭を悩ませる。ところが、
「あなた、ほんとに馬鹿なのね。ちゃんと施療室に行くのよ」
少女はそう言い捨てると、機敏な動作で走り去ってしまった。
つぶしてしまう度胸はなく、ティリアは左手を振りかぶると、毒虫を放った。
てのひらを見てみるまでもなく、やはり刺されていた。刺されたところにくちびるをあて、気休め程度に毒かもしれない何かを吸い出すと、たいしたことにはならないはずだと結論付ける。
今日もなんだか仕事以外のことでどんより疲れた、とティリアは思い、結局施療室には行かなかった。