再会(2)
しばしの完全な静寂。
その後、サラサラ、カリカリという音とともに、各々の作業が再開された。まるで何事もなかったかのように。
ここは、王城内の筆写官作業室である。簡素なつくりの作業室には、大きな平台の他、斜めの傾斜がついた作業机が並んでいて、二十人近い筆写官が書物の筆写作業をしていた。数人程度だが、女性の姿もまじっている。
この人数が多いのか少ないのか、ティリアにはよく分からなかった。ただ、ここで筆写される書物の分野はある程度限定されているというから、こんなものかもしれない。
それはそれとして――。当面の問題は、さて、これからどうするか、ということだった。
ティリアは、先ほど初めてこの作業室に足を踏み入れ、緊張のうちに、挨拶と簡単な自己紹介を済ませたところだった。その反応が、先ほどの見事なスルー。
自分をこの場に運んできた幸運の細い糸が、今にも途切れそうになっているのを、ティリアは感じざるをえなかった・・・
故郷の修道院に通って筆写の基本的な技術を習得したティリアは、伯父の依頼で伯爵家の庇護下にあった詩人の詩をいくつか、独特の飾り書体で筆写した。
その出来栄えに気をよくした伯父は、それを職人に表装させ、領主である侯爵家への献上品の一角に加えた。それがたまたま領主夫人の目にとまり、王城で各種の書体を適用して書物の筆写を行う筆写官――実際には見習いだが――への推薦につながったのだ。
伯父の家に出入りしていなければ、修道院に通うことができなければ、伯父と領主様との折り合いが悪ければ、たまたま目にとまらなければ、あるいはティリアが生粋の令嬢であれば・・・幸運な偶然が重ならなければ、ティリアは今この場にいなかったはずである。
様々な書物が集まる王城で働けるかもしれないとわかったときは、夢かと思ったティリアであったが、自分の過去をふりかえってみても、そうすんなり事が運ぶ方が珍しいのだ。
最初にこういう歓迎のされ方をしておけば、これ以上悪くなることもないだろう、とティリアは自分に言い聞かせた。こうした場合、たいていはより悪くなるのがいつものパターンなのだが・・・どうやら今回はそれをまぬがれたようだった。
先ほどティリアが入ってきた入口のドアが開き、大柄な中年男性が入ってきた。右足を少しひきずるようにして歩いてくる。
「やあ、もう来てたのか。たしか、ティリア君だったね。私がここの室長、アンセルだ。といっても、私が実際にここで作業することはあまり多くないのだがね。優秀な先輩がたくさんいるから、どんどん技を盗んでくれ」
ティリアに向かって微笑む室長の目じりには、柔和な笑いじわが浮かんでいた。それを見たティリアは、ほっと安堵の息をつく。
室長は身振りでティリアについてくるよう促すと、端の方にある作業机に向かう。
「承知のこととは思うが、最初にやってもらうのは雑務や準備作業ばかりだ。それに、実際の作業だって誰も手取り足取り教えたりはしないから、今のうちに勉強しておくといい・・・こちらはタルパ君、ここでの経験は長くはないが、優秀な若者だ。具体的なことは、彼から聞いてくれ」
ここで再び、室長は目じりに笑いじわをつくった。
「もちろん、何かあったら遠慮なく私の方にも言ってくれたまえ。じゃあ、頑張ってくれよ」
そう言いおいて、室長は別の誰かの方に向かった。
「ふふん。どうせすぐ根をあげるんだろ」
馬鹿にしたような表情でつぶやいたタルパは、ティリアと同じくらいの年齢の、色白でぽっちゃりした若者だった。その頬のふっくらもっちり具合は、故郷で祭りのときに蒸しあげられるモンモパンによく似ていて、ティリアは早くも郷愁に駆られた。
「おい。聞いてんのか」
この分かりやすい嫌味をいう人は、どんなすごい字を書くのかと作業机を覗き込んでみれば・・・実際にすごかった。
それは非常に優美で、なおかつティリア好みの手跡だった。好みかどうかはもう相性のようなものだから、ティリアは再び幸運の糸が太くよりあわさったのを感じると同時に、モンモパンに対して一気に尊敬の念が湧きあがった。
モンモパンの方では、そんなティリアの表情の変化に気付いたのか、白い頬を桃色に上気させ、鼻の穴をふくらませている。
「ま、まあね。僕が得意なのは詰め込み書体の方だから、こ、これなんかは全然大したことないんだけどねっ」
多少いけすかない性格でも、このモンモパンにしっかり食らいついていこうと思うティリアであった。