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結実(8)~ エピローグ


 筆写官作業室の新しい室長は、いまだ決まっていなかった。それでも作業室の面々は、今まで以上に張り切って作業にあたっている。


 アンセルのいない作業室にティリアが復帰してから、半月ほどがたっていた。

 捜索を尽くしてもアンセルは見つからず、生死すら不明。いっしょに崖に飛び込んだ形の男の方は、遺体となって見つかったという。

 騎士隊が賊の本拠地を制圧したのち、人身売買や武器密造の末端組織もじりじりと摘発が進み、事態はほぼ収束にむかっている。

 そこへ、第二王女の姉姫様、つまり第一王女と南国の王子との婚約が発表された。おめでたい知らせに、城内もわきたった。しかも、南国に輿入れのさいには、この国の文化を伝えるものとして、また貴重な工芸品として、作業室の手による書物が多数、持参されることになる。

 アンセルが内通者であったという事実は、筆写官たちに大きな衝撃を与えたが、いつまでも下を向いている暇はないのだった。


 ティリアがペンを誂えに行く――つまり、見習いを半分卒業して、筆写の実作業にたずさわる――のは、少なくとも新しい室長が決まるまで、おあずけとなった。

 そのかわり、ティリアはインクの調合作業を手伝うようになった。作業室内の仕事はある程度まで分業化されており、インクの調合は本来なら筆写官見習いの仕事ではない。事件の余波なのか、若い調合師の一人が城を去ってしまったので、あくまで臨時の仕事だ。これがティリアには思いのほかおもしろく、のめり込みつつあるのだった。

 もちろん、多岐にわたる雑用にくわえて、新しい書体をつくるための勉強にも余念がない。

 余計なことを考える時間がないほどの忙しさが、ティリアには逆にありがたかった。


 そして、顔にまでインクのしみをとばしたティリアは現在、遅い昼食をそそくさと済ませて、裏庭のすみの気に入りの場所で休憩中だった。

 その場所では、一本の林檎の木が白い花を咲かせている。木の根元に腰をおろしてしまえば、周囲の植え込みが死角をつくり、多少ぎょうぎの悪い格好をしていても誰かに見られる心配はほとんどない。緑に守られ、一人で静かに過ごすには、うってつけの場所だった。

 さらなる居心地の良さをもとめて、わざわざ持参した小さなクッションに腰をおちつけ足を投げ出せば、解放感もひとしおだ。

 朝早くから根を詰めて作業していたティリアは、背中を林檎の木にもたせかけると、あくびをかみころした。


 まぶたが、重い。ほんの少し、ほんの少しだけ昼寝しておけば、午後の作業がぐっとはかどるはず――春の終わり、居眠りの誘惑に打ち勝つのは、たいへんに難しかった。



*****



「こんなところで居眠りとは、どこまで不用心な・・・」

 いかにも窮屈な角度に首をかしげ、後ろの木にもたれて午睡中のティリアの姿は、コルウスの毛細血管をぶち切るのに十分だった。

 ティリアを隠すように守る植え込みの緑など、もちろん彼にとっては何の意味もない。

 今すぐ安眠の世界から引きずり出そうと、コルウスは彼女のそばに近寄った。


 しかしまどろみを強制終了させるかわりに、コルウスはそのまましばらく、彼女の平和な寝顔をただ見ていた。

 それから小さくため息をつくと、ティリアの隣りにしずかに腰をおろした。

 窮屈そうにかしげられたティリアの頭に手をそえて、そっと引き寄せると、自分の肩にもたせかける。ティリアの頬は、コルウスの肩にすなおに重みをあずけた。


 舞い落ちた林檎の花びらがひとひら、重ねられた指先をかすめて、陽の光の淡い熱をつたえた。



 コルウスは思い起こしていた。

 遠い少年の日、憧れの人が心をつくして伝えてくれた、予言のようなことば。


――きみにもそのうち愛する人ができる。絶対、絶対できる・・・


 彼の人が教えてくれたのは、おもう人のいることのしあわせ、と――

 寝こけたままのティリアが、ひとつの名前をつぶやくのが聞こえた。

 つづいて、肩の上で彼女がほほえむ、幸福な気配がした。



*****



 ティリアは初めて出会ったあの日の、少年の夢を見ていた。

 夢の中では雨がやんで、まっさらな陽が射し、林檎の花がいっせいに咲き始めている。小さなつぼみは赤いのに咲く花はまっ白で、あたりはあっというまに、ほの甘いかおりで満たされる。


 林檎の木の下に、アッシュグレイの髪をした少年の、後ろ姿が見える。

 ぽつんと、たった一人で、うなだれるようにして立っている。

 幼いティリアはその子に話しかけたくて、でも拒絶されるのがこわくて、だまってさびしい後ろ姿を見ている。


 そのとき、銀色の鳥が少年のすぐそばから勢いよく飛び立った。その鳥の羽ばたきを祝福するように、林檎の花びらがひらりひらりと空を舞いはじめる。

 ティリアはなぜか、銀色の鳥がまた林檎の木のところに戻ってくることを知っていた。

 少年の頭が、銀色の鳥の軌跡を追う。高く飛ぶその鳥にむかって、大きく手を振っている。

 ああ、もう大丈夫なんだ、きっと、仲良くなれる――唐突にそう気づいたティリアは、少年の背中に一歩一歩、ちかづく。


 それから、少年の名前を呼ぶ。


 ふりむいてティリアをみとめた少年の顔に、ゆっくりと笑みがひろがる。

 ティリアがおずおずと手を差し出すと、少年がそれをしっかりとつかむ。ティリアも思わずほほえんで、つながれた手をのぞきこむ。

 嬉しくなって二人は、そのまま駆けだす。


 しっかりとつないだ手、舞い落ちる林檎の花びら、晴れやかに高く響く二人の歓声。


 二人の前に、王都の春の終わりの、まぶしい世界が開けていた。






おわり





読んでくださってありがとうございました。

ずいぶんと時間がかかってしまいましたが、なんとかここまでたどりつきました。

やっぱりもういちどありがとう!!!


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