結実(7)
窓の外の夜の色が、いつの間にか青みを帯びていた。まったくの闇が少しずつ群青の色に追いやられ、ほの蒼い曙に塗り替えられる。遠くの地平線が赤い色に染まった。
夜と朝の境目がどこにあったのか、ティリアにはよく分からなかった。それでも、昨日までと同じように、また今日も夜が明ける。
やがて、朝の最初の光が部屋に差し込んだ。やわらかな光が机の上に置かれた香油の小瓶を金色にふちどる。
暗い夜が終わり、王都に朝がやってきた。
もう少ししたら、朝露草の花が開き始める。故郷にはない朝露草の、花開く瞬間を見てみたいと思いながらも、見習いの朝は慌ただしく、ティリアはまだそれを見たことがなかった。
夜にあきらめた資料の見直しを少しだけしてから、庭園に朝露草の花を見に行こう。ちょうどいい気分転換にもなりそうだ。ティリアは少しだけ気分が軽くなるのを感じながら、机の上に資料をひろげはじめた。
・・・が、思いがけず資料の見直しに没頭してしまい、ティリアが庭園に足をはこんだころには、もう朝露草の花はしぼんでいた。
そのかわりに、淡い紫色の小さな花をつけた草が目にとまった。植えられた花ではなく、勝手に生えたものかもしれない。地味な存在だったが、その小さな葉はすっきりと伸びやかで、ひかえめな花はそよとふいた風にすなおに揺れる。
腰をかがめて見入っていると、後ろの方で、くきゅっ、という音がした。
地面を踏みしめる、靴の音。
また、呼ばれた気がした。
振り向くと、やはりそこにはその人がいた。音を立てるなんて珍しいと、どうでもいいことを考えていないと、相手の強い視線に圧倒されてしまいそうだった。
「あなたという人は、どうしていつも」
そんなところでことばを切らないで欲しい。そうではなくて、いやとんでもなく迷惑をかけてしまったのだから、そうではあるのだが――昨夜からの不安は見事に吹き飛んだものの、ティリアはどうやら今回も、怒られる、そして謝る、というパターンに陥りそうな気配をひしひしと感じて、どうにももどかしかった。
たしかに、怒らせるような状況に陥いった自分が悪い。どれだけ謝っても足りないとは思う。それに、あのときコルウスに救われなければ、自分の命はなかっただろう。
それでも、百の謝罪も、千の感謝も、口に出した途端に、自分の今の気持ちとは別ものになってしまうように思えるのだ。
考えるだけ考えて、仕方なくティリアは黙ったままでいた。
ティリアのそんな様子を見ていたコルウスは、気を取り直したように何かを差し出した。それは、ティリアの身長の半分ほどの長さのある、だらりとしおれた植物だった。
「遠征先で、珍しいツタを見つけました。いただいた手袋のお礼にと、あなたに持って帰りました」
花もなくしおれきったそれは、他の人にとってはただの雑草だったが――ティリアにとってもただの雑草だった。少なくとも今は。
ツタの茎が描くらせんに魅かれるという、ティリアの話を覚えてくれていたことは分かった。こんなときでなれば、宝石なんて目じゃないほどのうれしいみやげだったのだろうが、今はそれどころではないではないか。
「遠征に行ったあなたを、みんな、とても心配していたんです」
しおれたツタがあまりに呑気なものに思えて、口調がいくらかきつめになった。勝手だとは思いながらも、昨晩は不安で一睡もできなかったティリアは――ただし夜まではずっと眠っていたわけだが――逆切れしたようなものだった。
「心配? 皆とは、誰のことですか」
「誰ってつまり、わたしですけど」
勢いにまかせて言いきった。するとコルウスは、緩慢な動作で片手を持ちあげて、自分の口元のあたりを覆うようにした。視線はそらされて、何もない空の一点に向けられる。
その様子は、ティリアにはまるで、うろたえているように見えた。
珍しい反応を目の当たりにして、視線がそらされているのをいいことに、ティリアはその表情をしっかりと存分に観察し――それから置かれている状況を思い出した。
「大丈夫ですか。遠征で疲れているのでしょう? 早く身体を休めてください」
「いや、疲れてはいません。ただ、心配されることに慣れていないので」
「それは・・・、近衛の副隊長をつとめるような方なら、恐いもの知らずなのでしょうけど。余計なお世話でも、心配なものは心配です」
コルウスは少し首を傾げるように姿勢を変え、口元にやった手をおろした。再びこちらに向けられた黒い瞳に、映り込む自分の顔がかすかに見えた。
「恐いもの知らず、だったのでしょう。たしかに、少し前まで何かを恐いと思うことはありませんでした」
「はあ、そうですか」
断言されてしまって、ここでまさかの自慢なのかと、ティリアはあいまいにうなづいた。
「しかし最近になって、少しは分かったつもりです。大切なものを失うかもしれないということが、どんなに恐ろしいものなのか」
それは確かに、恐いものがないというのは潔い。でも、大切なものであるほど、失うことが恐いと思うのは、恥ずかしいことではないだろう。
それに恐いもの知らずも度が過ぎてしまえば、自らの命が消えてなくなることさえ、恐れずにあっさりと受けいれてしまいそうな気がする。特にコルウスの場合は。
「かえって良かったのではないですか? 少しぐらい恐いと思った方が、用心深くなるでしょうし」
「・・・あなたがそれを言いますか」
すっと目をほそめたコルウスのことばに、ため息がまじった。
ぷきっ、かさっ、という小さな音が足元でする。下を見ると、無情にも先ほどのツタが地面に落ちていた。コルウスが一歩踏み出して、そのツタが踏まれていたのだが――そしてそのツタは副隊長の二度目の贈り物も突き返されたという噂のもとになるのだが――
まったくそれに頓着するようすはなく、コルウスがティリアとの距離を少し縮める。
ふいに、ティリアの左の頬に手がのばされた。
そのあたりには、森での闘争の名残りのかすり傷があるはずだった。痛みもなく、そのうちに忘れさられる、小さな傷。
コルウスの手の、触れるか触れないかの指先が、傷のあたりをゆらりとたどった。
ティリアは思わず息をつめる。と、少し固いてのひらが、花びらをすくいあげるときの手つきで、ティリアの左頬をつつみこむ。
――わずかに触れたてのひらから、生きた人間の温かさが、ティリアに確かに伝わってくる。
「よかった。ちゃんと帰ってきてくれて、よかった。今ここにいてくれて、こんなにうれしいことは、ないから」
ティリアが口走ったことばは三歳児なみの文章力だったが、言ってみればなんだこんな単純なことだったのかと思うほどの、それは正直な気持ちだった。
頬におかれた手の存在が非常に意識はされるものの、ティリアは言いたいことが言えて、すっきり満足だった。
だから、自分のことばを聞いていたコルウスの眼差しに、小さな驚きがまじるのを、不思議な気持ちで見ていた。
そして、それから――コルウスの口元が徐々にほころんだ。
それは、暗い闇に陽が差し込んだような微笑みだった。
初めて会った日からずっと、自分は彼のこんな顔が見たかったのだと分かった。
「帰ってきました。生まれて初めて、帰ってきたいと思う理由ができたので」
そう言ったコルウスの指先が一瞬、ティリアの頬から顎の線をなぞると、離れていった。
なんだかもったいないとティリアは思い――後になってもったいないとはどういうことかと反省したが――とっさにその離れて行く指先をつかんでしまって、それから慌てて手を離した。
このうえなく焦りながら指先の持ち主を見ると、微笑みの気配を残した顔の、艶めくような視線と出会う。
次に微笑むときは、予告してもらいたいものだとティリアは思った。
でないと、心臓に悪すぎる。