閑話 見習い騎士のつぶやき(前)
遠巻きに見守るおれたちを気にするでもなく、副隊長はただひたすら、腕の中の娘に視線を注いでいる。
ひざまずくように腰を落とした膝の上、抱きかかえられた娘はピクリとも動かない。片方の袖はちぎれて手首のあたりにぶらさがり、のけぞらせた細いくびにつづいて、目に痛いほどの白い肩がさらされている。ほどけた髪は彼女を抱く人の腕に流れかかり、くたりと力を失った剥き出しの腕には、赤い血が散らされた花びらのような模様をつけていた。
ことばをかけることも躊躇われるような二人の様子は、絵画のようにも見えないこともなかったが、それ以上に、どこか煽情的にも感じられた。不謹慎を承知で言うならば、密会直後の恋人達に出くわしてしまったような、落ち着かない気分にさせられた。
そう感じているのはおれだけではないようで、隣りでごくりと唾を飲み込んだ同僚が、そのまた隣りにいた隊長にぽしっと頭をはたかれていた。近くでのんびりと草を食んでいる副隊長の馬までが、馬鹿にしたようにぶるぶるっと尾を揺らした。
副隊長は、娘の怪我の具合を確認しているらしかった。精密で脆弱な細工ものを扱うような抑制された手つきだが、近寄れば切れそうな空気を放出していて、油断がならない。命に危険でもあればこんなものでは済まないだろうから、彼女は気を失ってはいるが、さほどひどい怪我はしていないのだろうと思われた。
と、副隊長が静かに立ち上がった。その立ち姿は細身ながらそびえるようで、腕に横抱きにされた頼りなげな娘の身体が、壊れやすい人形のように見えた。
端的にいって、恐い。
そう感じたのもおれだけではないようで、隣りでひっと息をのんだ同僚が、隊長に足を踏みつけられていた。
副隊長はそのまま、傍らにあった巨木の後ろにまわり込み、おれたちの視界から完全に姿を隠した。それきり、何の音も聞こえず、何の気配もない。時間だけが過ぎていく。
しんとした沈黙が、耳に痛い。
「何を、しているんでしょうか」
その沈黙に耐えかねたのか、踏みつけられていた足を解放された同僚が、隊長に小声で問うた。
「さあな。おまえ、様子を見に行ってみるか」
「そ、それは遠慮させていただきます」
「まあ、その方が賢明だろうな。おそらく、しばしの別れを惜しんでいる、といったところだろう」
「しばしの別れ、ですか?」
こんなときなのにどことなく嬉しげな隊長は、それ以上、語ろうとはしない。そうするうちに、副隊長が木の陰から姿をあらわして、周囲から安堵のため息のようなものがもれた。腕の中の娘は相変わらず気を失ったままのようだが、ちぎれた袖のかわりに肩から腕にかけては麻布がかけられ、手の甲にまで散っていた血の色は、清められているようだった。
この娘を初めて見かけたときには、まさかこんなことになるとは思わなかった。
筆写官見習いだというその娘をおれが初めて意識したのは、おそらく彼女が王城にやってきて間もない頃だったのだろう。その頃は当然、ティリアという娘の名前も知りはせず、ましてや今のような呼び名もついていなかった。
呼び名。隊長がおもしろがって広めたものと推察されるが、見習い騎士の間では、畏怖の念とともに口にされている。
――あの副隊長からの贈り物を突き返した女。
それが我々仲間うちでの彼女の呼び名であり、認識だった。
副隊長が贈り物をするというのがまずもって想定外だが、それを突き返すとは、あまりにも恐れを知らぬ所業ではなかろうか。
詳細は不明だが、噂では贈り物とは手袋だったらしい。
あれは春の初めの、まだ肌寒い日のことだった。休憩中だったおれはなんとなく王城の裏庭あたりをぶらついていた。そのとき、妙なものに気づいたのだ。一匹の猫と、その猫の前にしゃがみ込んだ娘。厚手で可愛げのないエプロンをしているところから、作業室の者だろうと予想はついた。
猫の方は、日向ぼっこをしながらヒゲをつくろうというような、よくある姿を見せているのだが、問題は女の方だった。ニヤニヤとうすら笑いをうかべながら、嬉しそうに猫のヒゲのあたりを凝視している。
非常に怪しい。が、よく見ると愛らしいといえないこともなさそうな顔立ちをしているし、それ以上に、なんとなく目を離せず、不思議と見ていたいような気にさせられた。
やがて、娘はそっと、猫のヒゲの方に手を伸ばした。猫は威嚇するように毛を逆立てた。当然だろう。娘は残念そうに手を引っ込めると、優雅な足取りで立ち去る猫を見送ってから、立ち上がって別塔の方に歩きだした。
おれは何となく娘の後ろ姿を目で追っていた。そのときだった。背後に凍りつくような冷気を感じて振り返った。そこで目にしたのは副隊長の姿だった。
なぜか、睨まれているような気がした。いつもどちらかといえば無表情で、そのときも無表情な副隊長だったが、おれには分かった。不機嫌マックス。
おれは何かいけないことをしただろうか。休憩時間に、猫と怪しげな娘を眺めていただけなのだが。
何か言われるかと思ったが、特にどうということもなく、彼もまた姿を消した・・・。
近衛第一隊のアルデア隊長、コルウス副隊長と言えば、城外はもちろん、下手すると隣国にまで名を知られた騎士隊の二本柱であり、我々見習いにとっては目標とすべき指導者だ。正直なところ、おれも実際に見習いとして入るまで、近衛隊なんてボンボンの集まりだろうと高をくくっていた。それは見当違いも甚だしいと教えてくれたのも、まずはこの二人の存在によってだった。
いってみれば光と影のように対照的な性格の二人だが、不思議な信頼関係で結ばれているのが見て取れる。それは少しうらやましいほどの。
隊長は、少なくとも表面的には非常に人当たりがよく、また華やかというような表現がよく似合う方だ。対して副隊長の方は、冷静沈着、指導をあおげば他の先輩方よりよほど丁寧に手ほどきしてはくれるのだが、どことなく近寄りがたい。何と言うべきか――自分自身に対して投げやりというか、生きることに無頓着というような態度が透けて見えてしまうのだ。そんなところが、副隊長イコール恐いという印象を与えてしまう、一番の理由ではなかろうか。
しかし最近になって、そんな副隊長の印象に、少しずつ変化が感じられるようになっていたのも事実。その変化と前後して起こったのが、手袋突き返され事件であり、また誘拐未遂事件――彼女を倉庫で最初に発見したのはおれで、そのとき彼女はおびえる若い男に馬乗りになっていた――であった。
そして、今回。
先日の王女誘拐をくわだてたのは、どうやら失脚した某貴族らしいということが判明した。さらには、だいぶ前から城内に内通者の存在があったと考えられること、筆写官作業室長のアンセルが盗賊騎士として手配された人物と会っていたらしいこと、さらには、その内通者がアンセルと思われること。
詳細までは知らされていないが、そうした状況が明らかになり、作業室長を拘束しに行ったところ、すでに朝方、城を出ていたことが門番によって証言された。しかも、例のティリアという娘をともなって。
普通に考えれば、ティリアという娘もアンセルの仲間と思われても仕方がない。しかしその考えは、隊長と、さらには第二王女によって、完全に否定された。
そのうえ第一隊の内部では、どうやら彼女はあの副隊長にとって、かなり特殊な位置を占める存在であるという認識が共有されていた。だから、その点を疑う者はいなかったはずだ。
それまでに集められた情報に加え、出入りの業者や帰城途中の別隊の騎士によって怪しい馬車の目撃情報がもたらされたこともあり、アンセルが向かった場所はいくつかに絞れそうだった。
地理的には近衛ではなく正騎士団の管轄になりそうだったが、もともとが王族がらみの事件であり、当の第二王女じきじきのおことばもあって、近衛第一隊が捜索にあたることになったのだ。
この捜索を足掛かりとして、某貴族が手を染めたという人身売買や刀剣類密造の摘発および根絶につなげるのが最終的な目標となる。
しかし、まずは――あの娘が再び猫のヒゲとたわむれることができるよう、彼女の無事を心から祈った。