結実(4)
一瞬、呆然としていたティリアは我にかえると、崖をのぞきこもうと足を前に進めた。そのティリアの耳に、低い声音が届く。
「ずいぶんとまあ、手間をとらせてくれたじゃねえか」
覚悟をきめて振り返ると、先ほど室長に打ちすえられた痩せぎすの男が、血走った目でティリアを見据えていた。最初の印象とは明らかに様子が違う。悪意と殺気が黒々と男をとりまいていた。
「売り飛ばすのはやめだ。今、この場で痛い目にあわせてやる」
男がわき腹のあたりに置いていた手をティリアに向かって突き出した。その掌が、赤く汚れている。
ここで命を落とすわけにはいかない――崖の下に消えた室長を思い起こすと、縮みあがる心に蓋をした。後ろは崖、ならば森に入って逃げるしかない。木々にまぎれて走り始めたティリアを、男があざけるような嗤い声をあげて追ってくる。
えぐっ、えぐっ、と聞き苦しい音がする。それが自分の嗚咽だと気づくと同時に、後ろに振った腕が何かをかすった。痛みは感じないのに、生温かいものが腕につたうのが分かる。足は止められない。肺がやける。
「おい、お遊びもいい加減にしろよ」
背後から袖を掴まれる。腕を強く振り抜くと、音を立てて肩から袖が引きちぎられた。
ちぎれたのが服でよかった――などと思っていられるほど、現実は甘くない。木の根に足をとられたティリアは、無様に転んだ。胸を地面に打ちつけて、咳き込みながら半身を起こす。その視線の先には、含み笑いでティリアを見下ろす男の姿があった。
ずいぶん走ったつもりだったが、その場所は崖からさほど離れていなかった。浅い息を繰り返しながら、ティリアは男の顔を見返した。男の目が、よどんだ愉悦の色に染まっている。
――結局、こうなるのか。
こんなことになってしまって、意地っ張りで優しいあの王女は、死ぬほどご自分をせめるだろう。そんな必要はまったくないのに。それに・・・父さん、母さん。ごめんなさい。せっかく王都に送り出してくれたのに、見習いのままで終わってしまうなんて。つくづく、情けない。
それから――それから、いま一番会いたい人の顔が目に浮かび、その顔は何の表情も見せないまま、霧散した。
いま起こりつつあることを受け止めきれていないのか、恐怖よりも奇妙な諦めと寂しさが心に広がるのを、どこか別の所から眺めるように、ティリアは感じていた。
男が、ゆっくりと近づいてきて、腰をかがめる。暗い目でティリアの顔を凝視しながら、手をのばそうとする。
クワァーッ、という鋭い鳴き声が突然に、あたりの空気を凍らせた。崖のきわから飛び立った黒い鳥の影が見える。かがみかけていた男が、それに驚いて尻もちをついた。
――駄目だ駄目だ駄目だ、諦めてる場合じゃない。
鳴き声に一喝され、ティリアは夢中で立ち上がると、陽が射しこむ方向に必死で重い足を進めた。ほどなくして、木々がまばらになり、開けた場所に出た。背中ごしの気配で、追いつかれたことを知る。
このままでは逃げきれないと、方向転換して、男に向きなおった。男は一瞬うごきを止めてから、馬鹿にしたように鼻をならし、ティリアに再び襲いかかる。
その動きを待って、ティリアは身をかがめた。前に突き出した肩に、相手の勢いと体重をのせると、男はティリアの背をすべって、あっけないほど簡単に地面に転がった。しかしそれは、相手の怒りを増幅させただけという最悪の事態を招き、しかもティリアの体力はそろそろ限界だった。
立ち上がった男が血の色の唾を吐き、獲物をなぶる獣のようにじりじりとティリアとの距離をつめる。男の頭越しに見える空が、残酷に青い。
ふと、男が戸惑ったような顔をして、あたりを見回した。
ティリアにも聞こえた。そう遠くない場所で、馬の蹄が地を蹴る音が。