出会い(3)
騎士様は、その後も時おり養育院に姿を見せた。しかし、特に少年に話しかけるようなこともなければ、少年の方もそれまで同様、遠巻きに姿を眺めるだけだった。
その日も養育院を訪れた騎士様を見送った後、一人の子どもが得意げに言った。
「騎士様には、娘が一人いるんだってよ」
別の子どもが反論する。
「うそつくなよ。騎士様は結婚してないって言ってたぞ」
「バカだなおまえ、結婚なんかしなくたって、子どもはできるんだよ。自分だってそうやって生まれたんだろ」
そんな会話を聞いていた少年は、心を何かでえぐられた気がした。その後で、そんな気持ちになった自分に驚いた。
騎士様に子どもの一人や二人いたって、全然不思議じゃないはずだ。騎士様を「父さん」と呼ぶ娘がいたって、それが何だというのか・・・。
自分が抱いた感情の名前も知らないまま、その夜、少年は少しだけ泣いた。
少年がはじめて抱いた感情、それは嫉妬というものだった。
ある日、少年は職員に声をかけられた。夢にまで見た面会の知らせだった。
急かされて一番良い服に着替えながら、もしかして・・・と、少年の胸は期待で押しつぶされそうだった。あの騎士様が、自分を気に入ってくださったんじゃないか。いや、そんなはずはない、そんな期待をしてはいけないと思うそばから、騎士様に伴われて院を出ていく自分の姿が目に浮かぶ。
職員に先導されて、院長室に入った。院長先生とともにそこにいたのは、見たこともない人だった。
やっぱり違った。
少年は呆然とその人を見ていた。立派な服を着ているが、ひどく冷たい雰囲気をまとった年配の男の人だった。
「なんだ、このみすぼらしい子どもは挨拶さえできないのか。院長、いったいどういう教育をしてきたんだね?」
かしこまって頭を下げる院長先生の姿を目にして、少年も悲鳴をあげる心を押さえつけて頭を下げた。
「三日後、おまえを引き取りに来る。それまでに準備をしておくように。準備といったって、ここで使っていたものを持って出る必要はない。挨拶ぐらいはできるようにしておけ」
それだけ言い放つと、その男の人は出て行ってしまった。見送りにいった院長先生が戻ってくるまで、少年はその場に立ち尽くしていた。
「あの方は、悪い方ではないんですよ。それに、ここにいるより、あなたのためになるはずです」
少年の顔をのぞきこんだ院長先生が言った。
院長先生がこんなふうに自分と目を合わせるのは初めてだ、そんなことを少年は考えていた。自分の進む道筋が大きく変わりそうだということ、それについて考えることはできなかった。
明日にはこの養育院を出て行くのか・・・まったく現実味を伴わないその事実をどうとらえてよいのか分からないまま、少年は庭で他の子どもたちが遊ぶのを眺めていた。
「雨が降って来たぞっ」
誰かがそう叫ぶのが聞こえて、他の子どもたちがいっせいに屋内にもどっていく。
人気の絶えた庭先で、少年はその靴音を正確に聞きわけた。もう遠慮することもなく、駆け出して入口の柵をのりこえると、歩いて来た騎士様の腰にしがみついた。
騎士様の体の向こう、道の曲がり角のところに、母娘らしき二人連れが寄り添うように立ってこちらを見ているのが少年の目にうつる。二人とも栗色の髪をしていたが、少年よりいくらか年下らしき娘の瞳は、騎士様と同じ湖の底の色で、その整った面ざしも騎士様にどことなく似ているようだった。
「会えてよかった。きみが引き取られると聞いて、今日はその予定はなかったんだが、こちらに寄ってみたんだ」
騎士様が穏やかな声で言った。少年はそのことばを聞き終わらないうちに叫んだ。
「おじさん! ぼくはおじさんのところに行くことはできないの? それができるなら、ぼくは辛いことだって何だって我慢するよっ。おじさん、おじさんは・・・、ねえ、あの女の子は誰? おじさんの何なの?」
興奮して二人連れの方を指さす少年を、騎士様は抱きしめた。
「悪かった。悪かったね。でも、ちょっと聞いて欲しい。炭焼き小屋に行った日に話した優秀な騎士の話は覚えているかい? 彼も木登りが得意で、茶目っけのある人だったよ。彼は、赤ん坊だったきみをコルウスと呼んでいた。コルウスってのは、カラスに因んだ名前なんだ。そう、私が尊敬してやまないその騎士が、きみの父親だ。多分きみは気付いているね、ご両親がもう亡くなっていることに」
騎士様は少年を抱きしめていた腕をゆるめると、今度は目を合わせてことばを続けた。
「きみを引き取るのは、彼の縁者だ。いろいろと事情があって、院長にしろ他の大人にしろ、きみへの対応は微妙にならざるを得なかったはずだ。余計に辛い思いをさせてしまったと思う。私もずっときみを探していたが、ここに預けられていると知らされたのが一年ほど前だった。彼の縁者からも、ときどき様子を見に行くようにと頼まれたんだ」
騎士様の手が雨で湿った少年の髪をかきあげる。
「きみとじっくり話してみたくて、院長に無理を言って二人きりになれる機会を作ってもらいもした。私には、きみがすばらしい子どもであることがすぐにわかったよ」
少年はただ呆然と聞いていた。たくさんのことばは、長い長い別れの挨拶としか思えなかった。
「あの女の子はね、私の娘だ。私があの子を愛しているように、きみの両親はきみを愛していた。そして、私に愛する女性がいるように、きみにもそのうち愛する人ができる。絶対、絶対できる」
本降りになってきた雨が、騎士様の目から流れる涙を洗い流していった。少年は一歩横に踏み出すと、もう一度、栗色の髪の少女の方を見た。はっきりと目があった。何も知らない、無垢な顔をしたその少女が、ただただ憎らしかった。
少女は惚けたように見ていた。雨に濡れてカラスの羽みたいに光る髪をして、燃えるような感情をたたえた黒い瞳の少年を。
――ああ、なんてきれいなんだろう、雨にうたれる少年の姿も、少年から放たれる憎しみの感情も・・・。
その光景は、少年と少女の双方にとって忘れがたいものとなった。これが二人の出会いだった。