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結実(1)


 まだ夜が明けきらぬうちから起き出したティリアは、いつもより早めに作業室にたどりつき、入口の扉に手をかけた。少しささくれ立った木の扉の手触りは、事件からたった数日作業を休んだだけだというのに、ひどく懐かしく感じられた。

 重い扉をあけて中に入ると、朝の弱い光が斜めに差し込む作業室に、一人だけ先客がいた。窓のそばに立って外を眺めていたのはアンセル室長で、ゆっくりと振り向くと、ティリアをみとめて笑顔を見せた。

 こんな早くに室長がこの場にいるのは珍しいが、ティリアはなんとなくそんなような気がしていた。

「今日から復帰だね。もうすっかり元気なようで、よかったよ」

「はい。ご迷惑おかけしてばかりで、すいません」

 いつものように、目じりに笑いじわをつくって声をかけてくれた室長に、ティリアは頭をさげて丁寧に復帰のあいさつ兼お詫びのことばをのべた。

「うん。実は、ティリア君を待っていたんだ。さっそく街まで、君専用のペンをあつらえに行こうと思ってね」

「ペンをあつらえに? ということは・・・」

「そういうことだ。おめでとう、ティリア君。ペンが手に入り次第、筆写の実作業を初めてもらうよ。ただし今までどおり、雑用や下準備の作業もしてもらわなければならんがね」

「はい、もちろんです。ありがとうございます! 精いっぱい、がんばります」


 見習いの筆写官がいよいよ本来の筆写の仕事を始めるときに、街の工房に自分のペンをあつらえに行くのが作業室の伝統なのだという。これはいわば儀式のようなもので、ようやく雑用だけの日々を半分卒業することを意味している。

 感慨深げなティリアに頷き返してから、室長はついてくるようにと身振りで示し、雑のうを肩にひっかけると、先に立って歩き出した。今すぐあつらえに出向くのかと意表をつかれたティリアだったが、それは嬉しい驚きで、そのまま室長を追って作業室を出た。


 霧が降りた城内はまだ目覚めきる前の時刻で、ひっそりとしていた。城門にさしかかると、室長が眠たげな守衛と親しげに挨拶を交わす。ティリアも軽く頭を下げて挨拶すると、久しぶりに城の外へと足を踏み出した。

 城外もまださすがに人気がなかったが、水を汲むようにでも言いつけられたのか、まだ年端のいかぬ子どもが一人、空の桶をかかえて裸足で歩いてくる。

 すれ違う前に、その子どもが歩くことになる路上から、室長がさりげなく尖った小石を蹴飛ばしてどかした。


 しばらく歩くと、小型の馬車がとまっているのが見えた。ここまで無言だった室長が後ろを歩くティリアを振り返る。

「そういえば、まだ完全には体力が回復していないんだろう? 少しぜいたくをして、馬車に乗って行こうか」

「いえ、もう全然問題ありませんから。街まで歩くぐらい、平気です」

「ははは、そうかい。実は、いつもより早く起きたせいか、こっちの方が少し具合が悪くてね。便乗させてもらおうかと思ったんだが」

 そう言って、室長は自分の右足を軽くたたいてみせた。いつもひきずるようにして歩いている方の脚だった。

「・・・いえ、わたしも急に馬車に乗りたくなってきました」

「では、おことばに甘えて、ぜいたくをさせてもらおう」

 御者と短く値段の交渉を済ませた室長とティリアは、どちらが先に乗るかで譲り合ってから、結局ティリアが先に乗り込み、他に客のない座席の斜め向かいに室長が腰を下ろして、ぱたん、と扉が閉められた。

 

 馬車が走り出すと、室長は雑のうから小さなポットとカップを取りだした。ポットの栓を抜くと、中身をカップに注ぐ。

「前に街で、偶然会ったことがあっただろう? ほら、帰り道で物盗りに遭遇して、君に助けてもらったときのことだよ」

「いいえ、助けていただいたのはわたしの方です」

 未熟な護身術でなんとか切り抜けたあのときのことは、忘れたくても忘れられなかったが、ティリアとしてはできればあまり思い出したくないできごとだった。

「そんなに謙遜しなくてもいいだろうに。まあ、いずれにしても、だ。あの後で君の身の上話を色々と聞かせてもらったときに、故郷のお茶の話をしていただろう? それを思い出して、今日は私の故郷のお茶を用意してきたんだ。これはこれで、なかなかうまいんだよ」

「ええ? わざわざ、用意してくださったんですか?」

 差し出されたカップを押しいただくように受け取った。

「さっそく、いただきますね」

 ティリアがお茶を味わう様子を、室長が満足そうに見守っている。

 ――お茶は正直言って、おいしくはなかった。独特の香りと、ピリッと舌をさすような刺激がある。慣れればそれなりにクセになるのかもしれないが。

 味はさておき、故郷の話を覚えていてくれて、お茶まで用意してくれた室長に、ティリアは心からのお礼を言おうとした。

 が、言えなかった。それは、決してまずかったからではなかった。


「さて、と。ようやく君と、じっくり話せるときがきたようだ。待ちわびたよ」

 室長が、今度も目じりに小じわをつくってティリアに笑いかける。しかし、その目の奥にちらつく冷たい光は、柔和な笑顔を余裕で裏切っていた。

「何から聞こうか、迷ってしまうな。まずは、そう・・・君は、間諜ではないよね」

「・・・」

「おやおや、驚きすぎてことばが出ないのかい? いや、それほど意外でもないはずだね。では少し、お茶に入れた薬が効きすぎてしまったかな?」

 ティリアの手からカップが床に落ちた。ちりちりとした痺れが全身にひろがって、目に映る世界がゆっくりと反転する。それから自分の上半身が座席にあたる音が、ひどく遠くからのように聞こえた。

 遅れてようやく、姿勢を保てず座席に横倒しにたおれたのだと理解した。自分がまたしても、やってしまった、と、いうことも。




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