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閑話 第一王女の日常に異常


 その後ろ姿が視界の隅を横切ると、まばゆいものを見たときのように目をすがめて見送った。一人きりで、すっと背筋を伸ばした、妹の後ろ姿を。


 しかしそれも、一瞬のこと。

 すぐさま、自分を取り囲む令嬢たちに微笑む顔を向け、話し声に頷きを返す。

 二色に輝く宝石、流行の袖の形、北方で話題の菓子・・・移ろう話題は、頭を心を、ただ優しく通り過ぎて行く。

 それでも穏やかなその顔は、ふんわりと微笑むことを止めない。


 彼女――「微笑みの王女」の二つ名で呼ばれる第一王女は、知っていた。

 妹のような、強い心も、際立った賢さも、散らない花のような美しさも。

 自分には、何もない、と。

 あるのは、ただ、この笑顔だけ。


 だから、微笑むことを止めてはいけない。



 ――これが、第一王女の日常。




*****




 数人の令嬢と広間まで移動する途中、階段の踊り場から何となしに階下を眺めると、歩み去る妹の姿が目に入った。

 いつものように、一人きりで、凛として・・・いいえ、違う。一人ではなかった。珍しいことに、同年代の娘を連れている。

 その娘に心を許している様子が見てとれて、それは妹のために良かったとは思うけれど。


 何故なのか、少しだけ、胸の奥がちりり、ときしむ音を立てた。


「まあ、作業室の娘かしら。あのような者を連れて歩くなんて」

 私の視線の行先に気づいたのか、斜め後ろを歩く令嬢が小声で言うのが聞こえる。そちらを見やると、すぐさま別の令嬢が非難するように彼女の袖を引いた。

「あら、妹姫様のことをそんな風に言ってはいけないわ」

 それほどいけないと思っているようには、聞こえないけれど。

 私は特に答えを返すようなことはせず、二人に、そして他の数人の令嬢たちに――いずれもこの国で重役を担う高位の貴族の令嬢たちだった――、均等に笑顔を振り分けた。


 彼女たちとて生身の人間、私につき従って半日近くを過ごすのは、退屈で嫌になることも多いに違いない。もちろん、頼んで取り巻いてもらっているわけではなかったが、彼女たちが一度にいなくなってしまったら、きっと、私は寂しさを感じるだろう。


 だから、私はこの華やかな令嬢たちに感謝しなければならない。それは分かっている。

 でも、少しの間だけでいい、切実に一人になりたいと思ってしまった。


 だから思い切って、気分がすぐれない、部屋に下がって少し休みたいと、彼女たちの一人に伝えた。それは私たちの後ろに控えていた女官に、すぐさま伝達される。

 案の定、体調の悪さを訴えることなどほとんどなかった私のことばは、ちょっとした騒ぎと混乱を引き起こしたようだった。

 もしや、一緒にいた令嬢たちが咎められるようなことになったら・・・今更ながら、私は罪悪感を覚えた。こうなるくらいなら、休みたいなどと言わなければよかったのに。


 それでも、言わずにいられなかった。

 そうしないと、この顔を覆う微笑みに、深い亀裂が入りそうな気がした。






 私室の一つに引き下がって部屋着に着替えると、手伝ってくれていた二人の侍女が慌てたように部屋を出て行った。喉を潤す水も額を冷やす布も、何も用意していないことに気がついたのだろう。

 望みどおり一人になれたというのに沈み込んだ気持ちのまま、ふと続き部屋の方に視線を向けると、長椅子に侍女服がぽつんと置かれていた。

 たしか、侍女の一人が入れ替わると聞いていた。侍女とはいえ爵位を持つ家柄の子女がほとんどで、その役割には花嫁修業としての側面もあるらしい。したがって、実際に骨の折れる労働はさらに下働きの者が担うことになり、つまり私が咳を一つすれば、多くの人たちに迷惑がかかることになる。


 よく回らない頭でそんなことを考えながら続き部屋の方に足を進め、真新しい侍女服に手を伸ばした。

 ――そういえば、妹は変装して城を抜け出すことがあるらしい。

 そんな噂が頭をよぎった。


 後になって、なぜそんなことをしようと思ったのか自分でも不思議に思った。


 とにかく、楽な部屋着から侍女服に着替えるのは簡単で、慣れない事態に軽い混乱状態にあった部屋の外に出て速足で王宮を抜け出すのも、あっけないほど簡単だった。

 庭園に出るまでに、何人かの見知った顔とすれ違ったが、侍女服に身を包んだ私に気づく者は皆無だった。

 

 人気のなさそうな所を目指して速足で歩くと、池のほとりにたどりついた。しゃがみ込んでほっと一息つくと、あり得ないほどの解放感に目がくらんだ。


 でも――

 その解放感は、そう長く持たずに、いつもの罪悪感と不安とにとってかわられた。

 きっと皆、心配しているはず。特に、あの二人の侍女は、私を一人にした責任を問われるかもしれない・・・

 ここまでしておいて、ようやく気づいてしまった。変装して王宮を抜け出そうと思うなら、自分の身の面倒を見られる程度の行動力と、侍女や取り巻きを断るぐらいの潔さが必要なのだと。

 なんと愚かな、私。


 頭に浮かんだ妹の姿が、とても遠かった。


 ガサガサっと、そのとき唐突に、後ろの茂みが音をたてた。

 走って逃げるべきか、隠れるべきか。とっさに判断できず、そういう場合の常として、私はその場に固まった。すると目の前に、必要以上に鮮やかな色合いのものが飛び出した。

「ユケ、カケヌケロ! ユケ、カケヌケロ!」

 その色鮮やかなものがバタバタと羽ばたきながら、わめいている。

「そんな・・・トリが、しゃべるなんて。私、おかしくなったのかしら」

「すいません、驚かせてしまいましたね」

 トリに続いて姿を現わしたのは、私と同じ年頃と思われる青年だった。わずかに褐色がかった肌に、何色なのか判断がつきかねる、濃い色の瞳。

「・・・」

「その・・・大丈夫ですか」

 かすかに異国の、たぶん南方の訛りがあった。そういえば、トリがしゃべったことばまで、どことなく異国風のアクセントがあったような。


 腰を抜かしてへたりこんだ私に、静かに手が差し伸べられた。

 あらためてその人の顔を見ると、彼は少し顔を赤くした。

 ・・・同じ年頃の男性と二人きり。慣れない状況に急な羞恥におそわれて、私まで顔があつくなる。


 しかたなく二人でじっと、赤くなった顔を見合せることになってしまった。

「ヤダヤダヤダ、モォー、ハズカスィ!」

 絶妙なタイミングでトリがそんなことをわめき、彼の顔がさらに赤くなった。ちらりと横に視線を逃した彼の様子は少年めいたところがあって、最初の印象よりは年若いのかもしれなかった。

「おい、うるさいだろう」

 手を差し伸べたままの彼の左肩にトリがとまった。私がその手をとらないかぎり、彼はずっとその姿勢のままでいるのだろうと思われて、差し出された手におずおずとつかまった。

 それは、温かい手だった。


 立ち上がって礼を言おうとすると、だいぶ顔色の戻った彼が、まじまじと私の顔を見ていた。

 慌てて、私は反射的にいつもの微笑みを顔にのせた。

「失礼ですが、何か悲しいことでもあったのですか?」

「悲しいこと?」

「あなたが今、とても悲しそうに見えるので」

 今? 私は微笑んでいるはずでは・・・?

「ああ、そうか」

 彼は私の土で汚れた侍女服の裾に目をとめて口ごもる。でも、遠慮して黙る気もなさそうだった。

「第二王女様はなかなか思い切った方らしいですね。あなたはその方の侍女ですか。たとえば・・・王女様にいじめられた、とか?」

 いいえそれは違います。

「たしかに、い、お、王女様は行動力のある方ですが、弱い者をいじめたりすることは、ないはずです」

「おや・・・ずいぶん第二王女びいきですね。それなら、あなたをいじめたのは第一王女の方ですか? いや、あの方もお仕えする者をいじめるような真似はしないでしょうね」

 誰かに反論したのは、とても久しぶりだった。でもそれだけで、心臓がこんなにも速い動悸を刻むものだろうか。

「ご存じなのですか、第一王女さ、さまのこと」

「ええ。だいぶ前になりますが、何というか・・・、お見かけしたことがあります。不器用そうな、でもとても一所懸命な方でした」

 俯きぎみの彼の顔に前髪が影をつくっている。口元は何かを思い出すように、優しい笑みの形をとっていた。

 その表情を目にした途端、不思議な感情が胸に湧きおこる。


 そうだ、私は知っている、こんな気持ちを――楽しい時間が過ぎ去った後の、甘く寂しく焦がれるような、名づけようのないこの感情。

 最後にこんな気持ちになったのは、いつだっただろう。


「キタキタキタッ!」

 けたたましいトリのわめき声に、ふわふわとした夢想がやぶられた。それにどうやら、まずい状況がせまっているよう――ざわざわとした人の気配が近づいてきて、そこに聞き覚えのある侍女の声も混じっている。

 バタバタっと鮮やかな残像だけを置いてトリが飛びたった。少し離れた場所から賑やかな歓声があがり、騒がしい空気もトリを追いかけて遠のいていく。

 あたりが再びしんとなった。

「オウムというんです」

「オウムさん、とおっしゃるんですか」

「・・・。いえ、私の方の名前はファイサー、オウムは先ほどのうるさいトリの種類ですよ」

 トリのことだった。てっきり名前を名乗られたものと勘違いをしてしまった。

「あたかも自分の意志で話しているように見えますが、誰かがしゃべったことばを真似しているだけなんです。もっとも、すべて分かって言っているとしか思えないこともありますけどね。彼が――あのオウムはああみえて雄なんです――手元にやってきたときには、すでにいくつかことばを覚え込んでいたのですが、実はけっこう過酷な環境で育ったことがしのばれるフレーズも多くて」

 慌てたように饒舌になったのは、私の勘違いをとりなそうとしてくれているのだろう。その気持ちが嬉しくて、胸の内にひたひたとあたたかいものが満ちてくる。


 ふと気づくと、彼がまた黙ってこちらを見ていた。

「その顔・・・」

「!・・・」

 いったい自分は今、どんな表情をしていたのだろう。恥ずかしいよりも自分の無防備さが恐ろしくなって、思わず両手で顔を覆った。

 身の丈に合わないことをするから、こんなことになってしまうのだ――急にすべてが混乱の中に陥って、私はくるりと身をひるがえした。はずみで低木をかすった右手の指先につっと痛みがはしったが、そのまま逃げるようにその場を後にした。


 駆けだした私の足元を、陽の光を反射しながら何かが光って追いかける。

 それは侍女服にはまったく不似合いな、豪華な室内履きに施されたビーズ細工だった。

 ――やっぱり、愚かな私。それに、どれだけ失礼な人間だと思われたことか。

 ほとんど泣きたい気持ちで、それでも私の足は自然と王宮を目指して駆けていた。







 それから、どうやって咎められずに王宮内に戻れたのか、自分でも覚えてはいない。私は自分が抜け出した部屋のそばで、ほんものの侍女に見つかって連れ戻された。情けないことに、見つかって私は確かにほっとした。

 そして、とりあえず私の不祥事については、なかったことにされたようだった。


 変わり映えのない日々に戻っても、ふと気がつくと、オウムと一緒にいた彼のことを考えている。

 異国から招待された楽師かもしれないと、それらしい催し物を心待ちにしたりした。


 もう一度会いたい。

 会ってあの日の失礼を詫びたかった。

 

 ファイサーという名前と特徴を伝えて探し出してくれと頼めば、きっとそれは叶えられるだろう。

 でも、ただ詫びるだけでなく、できればもう少しだけお話してみたい。それが無理なら、ただ傍でその存在を感じるだけでもいい――自分の中のそんな欲求に気づかずにいられず、誰にも平等に接することを自分に課してきた、平等に接することしかできなくなっていた私は、息苦しいほどの罪悪感にとらわれて、とても誰かに頼むどころではなかった。




 そんな調査など頼まなくてよかったと、残酷な知らせとともに思い知らされたのは、それからすぐのことだった。

 母、つまり王妃様――私はいつもこう呼んでいる――から、南に接する国の王子が遊学にいらしていると知らされた。

 その王子は、色鮮やかなしゃべるトリを連れている、とも。


 肥沃な土地に恵まれた南の国は、先代王の時代に鎖国に近い政策をとったのが裏目に出て、一時は国力を落としたと聞いている。現在は各国との交流を復活させており、この国とは悪くはないが良くもない関係にあるはずだった。

 私自身も昔、たった一月ほどではあったが、かの国に滞在したことがあった。何となく、あの彼のことばのアクセントが懐かしいような気がしたのは、そのせいだろう。

 微妙な関係にある各国は、このように王族を相手国に遊学させ、友好関係を確かめる。つまりは安全な人質のやり取りをするような習慣ができていた。


 しかし今回の王子の来訪は、遊学とは名ばかりで、つまりは妹のオルキア姫との婚約が目的だという。

 王妃いわく、煩いしきたりも少なく伸びやかな南の国に、奔放で自立心の旺盛な妹は誂え向きだろうと。

 ときとして無鉄砲に見える行動をとったり、不正を働いた貴族に横恋慕されたりと、身辺の騒がしい妹を心配しての考えでもあるのだろう。

 まずは歓迎の式典が開かれ、後ほど王妃主催の小規模な夜会も予定されているという。この非公式な夜会の目的が、二人の親交を深めることにあるのは自明の理だった。


 何かきらきらしたものは、いつでも妹のもとに集うのだ。妹が望むと望まないとに関わらず。


 王妃は、妹の婚約が先に整うことが嫌ではないかと気遣ってくださった。私は曖昧な微笑みをかえすしかなかった。






 歓迎の式典に現れたのは、やはり先日の彼だった。

 王子は、まず父、つまりこの国の王に挨拶のことばを述べ、王は彼に歓迎のことばを返した。

 それから王妃と兄王たち一人ひとりの前に立ち、挨拶のことばが交わされた。


 次は、私の番だった。しなやかな身のこなしで目の前に立った南国の王子、ファイサーは、やはり何色か判別のつかない瞳で私の顔をちらと見ると、型どおりの挨拶を述べはじめた。

 心臓が胸をつきやぶりそうな私とは対照的に、ひどく落ち着いた様子だった。いきなり逃げ出した怪しい侍女のことなど、まったく記憶にないように。


 私は何を期待していたのだろう。

 大きな失望とともに現実が胸に落ち、型どおりの挨拶にただ頷きかえすのが精いっぱいだった。

 俯いた視線の先に、あのとき低木の茂みで傷ついた自分の指先があった。治りかけの傷が汚いしみのように見える。


 そのとき、礼の姿勢をとって差し出されたファイサーの指が、すいとその傷をなぞった。

 あっと思って顔を上げると、ファイサーはすでに妹の前に立って挨拶のことばを述べはじめていた。

 誰も、何も気づいていない。気のせい?

 あらためて妹の方をうかがうと、珍しいことに、妹が楽しげな笑顔を浮かべて王子とことばを交わしていた。


 妹は、気に入らない人に笑いかけたりしないはず。私とは違って。


 そのとき感じたのは、諦めと、奇妙な誇らしさ――ほら、気難しい妹が微笑みかけるほど、彼はすてきな人でしょう? それに私の妹は、一目で異国の王子を夢中にさせるほど、魅力的でしょう?


 笑顔を見せる妹はほころんだ花のように美しく、その前に立つファイサーもまったく見劣りしていない。要するに、二人はとても似合いだった。

 事情を知っているらしい兄たちの方からも、安堵した空気が流れてくる。

 と、ファイサーが礼の姿勢をとって手を差し出して、妹がそこへ指先を預けた。


 その瞬間、諦めも誇らしさも、どこかへいってしまった。

 圧倒的な寂しさに胸を焼かれて、たとえ指先だけでも触れないでほしいと、それだけを思った。






 夜会も、それに先立つ晩餐の会も、何とか理由をつけて欠席しようと思っていた。

 しかし結局、華やいだ空気を壊すのが恐くて、断りのことばを口にすることができないままに始まりの時刻が迫っていた。


 あろうことか、欠席したのは私ではなく、影の主役である妹の方だった。私室で支度をしているはずが、どこぞへ身を隠してしまったという。

 この国の王族としては王妃と私、妹だけ、あとは数人の貴族の子息や令嬢が出席する予定のこじんまりとした会だった。

 王妃は大仰なことが嫌いな妹を気遣って、このような会にしたはずだ。

 それに、妹の欠席を知ったら、ファイサーはどんなにがっかりするだろう・・・


 彼の落胆を想像すると、いつもは羨ましくさえあった妹の思い切った行動が、とても腹立たしい。

 いずれにしろ、この会の本来の目的は伏せられたままだったから、直前になって取りやめることもできず、結局は定刻に開会が告げられた。


 晩餐の席に妹の姿がないのを認めたはずだが、異国の王子は特に変わった様子もなく、王妃と自国の食文化などについて会話を楽しんでいるようだった。


「そういえば、覚えておいでかしら。昔、たった一月ほどでしたが、この王女を遊学させたときにお会いしているはずだから、あなた方は初対面ではないのだけれど」

 王妃がファイサーと私の顔を見較べながら言った。

「ええ、覚えています」

 ファイサーが答えた。しごく当然なことのように。

「残念ながら王女様の方では、完全に忘却のかなたのようですが」

 あの判別のつきずらい色の目が、笑みをたたえている。

 私は思わず、

 「いいえ、もちろん、私も覚えていました」

 ・・・嘘をついてしまった。嘘をついたはずだった。でも、覚えていたという自分のことばが、胸の奥底で縮こまっていた記憶を容赦なく引き揚げる。

 それは確かに、消えることなくしまいこまれて、そこにあった。

 

 ――南国の白い王宮。熟した果物と異国の花の香り。じっとりとした空気をまとわりつかせながら、一緒に過ごした、もの静かな王子。人見知りで、いつも長い前髪で顔を隠すように俯いていた。

 まるで南国の自由な空気が、彼にだけ息苦しさを与えているかのようだった。

 私はフィー――女の子のような呼び名だが、身近な人たちから彼はそう呼ばれていた――に、なぜか周囲の人が不思議がるほど懐かれた。

 私自身はといえば、その地の風習が開放的に過ぎるように感じられて、絶えず緊張していた。だからおとなしいフィーと過ごす静かな時間は、木陰のように心地よかったことを覚えている。

 会話がはずむことはあまりなかった。でも、なんとなく似た者どうし、一緒にいるだけでどこか確かに通じ合うものがあったと思う。


 国に帰る日、絶対また会いに来てと、王子は私に泣いてすがった。

 それに対して、私はなんと答えたのだったか。再び会えることもないと思いながら、そう断言するのは嫌で、そうはいっても適当に煙に巻くのはもっと嫌だった。たとえ子ども相手とはいえ。

 子ども相手――そう、当時十一歳だった私にとって、八歳の王子は庇護すべき子どもだった。実際、周りの大人から見れば私は体のいい子守役だったのかもしれない。


 だから、こんなに育ってしまった彼など、ほとんど詐欺みたいなもの・・・


 ぼんやりと昔の記憶に浸っている私を見て、王妃が上品に首を傾げて不思議そうにしている。気を取り直すと、私はいつものように彼女に微笑みかけた。王妃はやや怪訝な面持ながらも頷いて、晩餐のお開きが告げられた。

 この後は場所を移して、楽師による器楽の演奏や、歓談を楽しむ時間がとられている。

 旧交を温めてはどうかという王妃のやや強引な勧めもあり、私はファイサーと二人で、テラスへと移動した。

 ファイサーの方に顔を向けるのがためらわれて、自然、ぽつぽつとかがり火の灯りが浮かぶ外を眺めることになる。


 晩餐で口にした、温めた葡萄酒の余韻が胸のあたりに残っていた。視界を埋める夜からは、そよとした風が流れ込んでくる。残念ながら、その風の心地よさを感じる余裕はまったくなかったけれど。

「オウムと名前の区別がつかないくらい、すっぱり、忘れ去られていましたね」

 楽しかったことを記憶しておくのは、苦手だ。後の喪失感が大きすぎるから。それもきっと、忘れてしまっていた理由。

「ごめんなさい。私、記憶力が良くないのです。でも、侍女の格好をしていたのが私だって、気づいていらしたということですね」

「ええ、まあ。正直言って、変装して脱走したりするのは第二王女の方だと聞いていたので、最初は妹姫様の方かと思いました。面影があるのは、姉妹だからなのかと」

「妹と私は、それほど似ていないのです」

「少なくとも、見た目はそのようですね。ただ、それを知らなくても、あなただと分かりました。こちらはあいにく記憶力が良い方なので、あなたがどんなときにどんな表情をするのか、すべて覚えていましたから」

 そういう彼の顔に朱がさしたが、私の顔も赤くなったに違いなかった。

 確かに、頭のよい子だと思った覚えはある。優しい子だと思った覚えも。でも、とても恥ずかしがりやで、今のようにたとえば王妃と普通に会話する姿など、とても想像できなかった。

 私も自分のことを棚に上げて、王子たる彼の将来を心配したほど。


 持てる能力を開花させた今のファイサーなら、美しく賢い伴侶を得て、正しく領土を治めていくのだろう。

「ずいぶん立派になられたのですね」

「そうですか? 本質的なところは変わっていませんが・・・相変わらず、王子のくせに臆病ですよ。ただあのときの自分に、あなたを引きとめるだけの資質がないことが痛いほど分かりましたから、少しは頑張ってみました」

「あのとき?」

「別れの日のこと、思い出してくれましたか」

「・・・ええ」

 自分の顔がほころぶのが分かった。いつもの張り付いた微笑みを押しのけて。

 ――あれは、思い出したくないほど、嬉しくて、でも胸の痛い時間だった。


 ねえ、お願い、帰らないで。

 もう少しだけ、ぼくのそばにいて。

 どうしても、どうしても帰ってしまうなら、またこの国に来ると約束して。

 来てくれなかったら、迎えに行くよ? そして嫌がっても何しても、連れて帰るよ?


 それまでの十倍のことばをしゃべる勢いで、慣れない我が儘をいってすがりついてきた三つ年下の王子。

 そのときまで私を、そんなに必要としてくれた人はいなかった。


「あなたも自分と同じように駄々をこねてくれればいいのに、と思っていました。帰国したくないとゴネて騒ぐとかね。でもあなたは、困ったように微笑んだだけだった。それが本心を見せたくないときの表情だということぐらい、八歳の子どもでも分かっていましたよ。あなたを少し恨んだとしても、仕方がないでしょう?」

 人から恨まれるのは仕方がない。だから素直に頷いた。

「こういうときだけ、頷かないでください」

 苦笑した彼がごく自然に私の手をとった。式典のときのように、低木がつけた指の傷をなぞったかと思うと、そのまま彼の顔の方に手を引かれ――傷のある指先に、そっと唇が落とされた。


 驚いて手を引くと、彼が心外だという顔をする。

「あのころ私が擦り傷をつくると、あなたはもっとしっかり舐めて消毒してくれましたけど?」

「そ・・・それは。まだ子どもだったから」

 子どもとはいえ、そんなことをしたなんて信じられない。私よりよほどしっかりした妹には吹かせられない、お姉さん風を吹かせたかったのかもしれないけれど。

「ウソォ、モォ、ウソォ、ヒャクパーウソッ、ギエェーッ!」

 バタバタッという騒々しい羽ばたきとともに、騒々しい色合いのオウムが飛び入ってわめいた。ファイサーの肩にとまると、おしゃべりをやめて羽を整えはじめた。

「チッ」

 何か今、彼の方から妹顔負けの舌打ちが聞こえたような。

「カエッテキテ、カエッテキテ、キット、キット、グェェーッ、スンマソンッ!」

 ファイサーがオウムの口ばしをおさえにかかった。オウムは嫌がってワタワタと再び飛びたった。


「あなたは、今、幸せなんですか?」

 突然問いかけられて、答えにつまる。そんなこと、考えたこともなかった。

「少なくとも、不幸ではないと、思います」

「それは・・・あなたらしいお答えですね。あまり幸せそうには見えないことを、はたしてご自分で気づいていらっしゃるのかどうか」

 ことばを選びながらのファイサーの話し方は、決して非難する口調ではなかった。それでもなんとなく、ことばの行きつく先は、私の見たくないものを指している気がする。

「こんな話、聞いたことはないですか――特に自分たちのような立場の者は、まず自分が心から笑えて幸せを感じられなければ、結局は周りの人を幸せにすることはできない、と。実はこれ、対照的な性格の従兄からの受け売りなんですが、案外、真実かもしれないと思うのですよ。たとえば義務感から感謝したり、笑顔を向けたりしても、意外とそれは相手に分かってしまうものです」

 春の野に顔を出す新芽の数ほど、思いあたることばかり。

「でも・・・どうしたら・・・」

「そう、我々のような性格の者には、簡単なことではありませんね」

 そう言うファイサーが、老成した大人のように見えた。


 あのころは、私の方が背も高かった。不安げに見上げる上目づかいをするのは、彼の方だったのに。

 私も本当は、帰りたくないと駄々をこねたかった。小さな手をいっぱいに私の方に伸ばしてくれる、真摯なフィーともっと一緒にいたいと言いたかった。


 今ならそれを、言えるだろうか。

 思い切って、言ってしまおうか。

 私はすっと小さく息を吸い込んでから、口を開いた。


「それなら、私と一緒に、幸せになっていただけませんか」

 ――だからって、私の口はなんということを言ってしまったのか。これではまるで、求婚のことばのよう。ほら、ファイサーが驚いて固まっている。

「ああ・・・あなたはいつも、自分の一歩先にいるんだ」

「え?」

「今のことば、聞かなかったことにさせてもらいましょう」

 もちろん、そうでしょうとも。

「ええ、どうぞお気になさらずに。深い意味は・・・」

「だってそれは、こちらからあなたに、言おうと思っていたことばですから」

「・・・」

 一歩近づいた彼が少しかがむと、耳元で、先ほど私が言ったことばを繰り返した。こんどは私の方が固まって、とっさにことばを返せない。

 それでも、彼は肯定の意を悟っただろう。私の崩壊しきった表情は、今度こそ無防備に、雄弁に、本心を告げていただろうから。


「これは、夢なのかな」

 ぽつりと、ファイサーがつぶやいた。

 ことばどおり夢見るような顔つきのまま、彼が私のすぐ隣に並んで立った。ゆるやかなしぐさでその腕が伸ばされて、私の身体が横からそっと引き寄せられる。


 南国の王宮で過ごしたときにも、こんなふうにただくっついて、遠くで小動物が鳴きかわす声に聞きいったことを思い出す。でも今、守るようにまわされた腕の思いがけない力強さも、見下ろす視線の奥底の光も、すでに私の知らないものだった。


 気がつくとまた、少し怪訝そうな表情で見られていた。自然と、心に浮かんだことがことばになる。

「大きくなってしまわれたんだな、と思っていました」

「まるで残念だというように聞こえますよ」

「いいえ、でも・・・そうですね、少しさびしいような気もします」

「さびしい? しかし、年を重ねたおかげで智恵もつきましたから。自分のような立場では、決められたままの地位について、決められたままの伴侶をめとって・・・その枠の中でやっていくしかないと、以前はなんとなく諦めていました。それが、今回の縁談の相手が他ならぬこの国の王女の一人で、しかもあなたはまだ婚約もされていないと聞いた。変えられる運命と変えられない運命があるのなら、これは前者だろうと。今度こそ、泣いてすがるのではなく、正攻法で行こうと思ったのですが・・・先を越されました」


 言いながら、彼はまた、顔を赤らめるのだ。


 あのころの長い前髪は、今よりも頻繁に変わる顔色を隠してもいたのだろう。でもそれ以上に、ファイサーのもっと色々な側面を隠すのにも役立っていたに違いない。実は意外にしたたかなところ、とか。


 それらをこれから少しずつ知っていけるのは、それだけでもう、とても幸せなことだと思えた。






*****






 妹には、私の口から伝えたかった。私が――好きになった人のことについて。

 もしも妹が式典のときにファイサーに好意を抱いていたのだとしたら、跪いて許しを請うこともいとわないつもりだった。

 しかし、これまでに何度か機会があったにもかかわらず、いまだ妹に声をかけることができないでいた。


 今、いつものように一人で歩いてくる妹の姿を認めて、今度こそと気持ちを奮い立たせた。私も意識して一人でいる時間をつくるようにしていたため、今は少なくとも声の届く範囲に他の者はいない。

 私が話しかける前に、妹がすっと立ち止った。

「姉様。お一人でいるなんて、珍しいわね。何かご用?」

 妹は首をかしげるようにしてそう問うた。私はよほどもの言いたげな様子をしていたらしい。

「いえ、別に用事ということではなく・・・きょ、今日はいいお天気ね」

 今日も美しい妹は、窓の方に不審げな視線を投げた――窓の外は、暗くよどんだ曇天の空。いいえ私は泣きませんから。

「そうかしら。それほどよい天気には見えないけれど」

「そ、そうね、ごめんなさい。私、間違えたようだわ」

「・・・。今日の姉様は、少し変ね」

 妹はますます訝しげな顔をして、私の決心をにぶらせる。

 でも。今日こそは、この妹に、きちんと私の気持ちを伝えなければ。


 さあ、ユケ。カケヌケロ、私。


「私、あなたに宣戦布告するわ」

「・・・」


 駆け抜けた私が見たものは、驚きに目を瞠った妹の顔だった。それはそうでしょう、言った自分だって驚いているのだから。自分で言っておきながら、意味不明。

 ところが、妹の顔からはすぐに洗い流したように驚きが引いて、今度はなぜかとても嬉しそうに見えるのだった。

「ねえ私、何かあなたが喜ぶようなことを言ったかしら」

「だって、いつもいつも遠慮ばかりなさって、まるで腫れものにさわるように・・・姉様がわたくしにかけることばといったら、挨拶か、気遣いのことばかか、当たり障りのない話題か・・・。本心から思ったことを初めて打ち明けられて――意味はよく分からなかったけど――嬉しくないわけがないでしょう?」

「そんなふうに、思っていたのね」

「だって、そうでしょう? 例えば、あくまで例えば、だけれど。もしもわたくしが姉様の・・・姉様に属するものを、欲しいと思ったり、その、好きになったりしたら、本心を隠して、黙ってそれをわたくしに譲ろうとするでしょう?」

 やたらと的確な「例えば」なのは、なぜ?

「それは・・・、今まではそうかもしれないけれど、これからは違うと思うわ、多分」

「そうなの。その宣戦布告、ぜひとも受けて立つわ。だから姉様、おしえて。何があったの?」


 私はぽつぽつとファイサーのことを話した。そして誰かに本心を打ち明けるだけで、こんなにも気持ちが楽になることを知った。そのうえ、どうやら妹と私は利害が一致するらしい。


「式典でわたくしに挨拶を述べられたとき、王子は小声でおっしゃったの、この婚約話にはお互い乗り気ではないようですね、って。何をご存知なのかしらないけれど、あまりにも率直すぎて、思わず笑ってしまったわ」

「それであんなに、楽しそうだったのね」

 目の前で生きいきと表情を変える妹が、いつもより少し幼く見える。私は、この妹に負担をかける恐れがあることを、はっきり言っておかねばならない。

「私が南国へ、その・・・もしもだけれど、嫁ぐことになれば。逆にあなたには、この国の有力貴族の子息との縁談が持ち込まれるようになると思うの」

「え? そ、そうかもしれないわね。それは、仕方がないというか・・・べ、べつにかまわないわ、そうなったとしても」

 珍しく妹がうろたえている。案外、妹もこういったことに関しては不器用なのかもしれない。

「私たち、やっぱり血を分けた姉妹ね。少しばかり、似たところがあるのかもしれない」

「似ている? わたくしと、しとやかで優しくて、皆に慕われる姉様が?」

 妹が、本気で不思議そうな顔をする。似たところ、二つめ・・・二人とも、妙な劣等感に縛られているところ。

「そういえば、姉様。わたくし最近、おもしろい娘と知り合いましたの」

「そう。お友達が、できたのね」

 妹が微笑む。いつだったか連れだって歩いていた、ちょうど同じような背格好の娘のことだろう。

「こんど三人で、一緒にお茶でもいただきましょうよ。林檎の皮のお茶というのがあるのよ。きっと姉様も好きになると思うわ・・・お茶も、彼女のことも」

「ええ、是非。楽しみだわ」






 そのお友達が妹のかわりに連れ去られる事件が起きたのは、それから数日後のことだった。

 妹の私室には、何者かが窓から押し入ったような形跡が残されていたという。いなくなった娘も賊の仲間で、金目の物を持ち去ったのではないかという声すら聞かれる中、私は憔悴しきった妹とともに彼女の無事を祈った。その彼女と、妹自身のために。

 ティリアという筆写官見習いが城内で無事に発見されたという報告を受けると、妹は自ら見舞の花を摘みにいった。

 それまでの憔悴と動揺は、一見すると、凛としたたたずまいの下に見事に隠されていた。私は王女に似つかわしい妹のその資質を、以前のようにただ羨ましいと思うのではなく(かといって羨ましいと思わないわけではないけれど)なんだかずいぶん可愛くていとおしい、と思ったのだった。




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