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日常と少しの非日常(15)


  はるか遠くで、声がする。


  手、荒れた、捨てる・・・って。


  なんだそれ。捨てられたのは、わたし?


  そうか・・・わたし、捨てられて、ここは深い深い、湖の底。


  だからこんなに、冷たくて、暗くて、淋しい、わけだ・・・



 湖の底に立ってティリアは、暗い湖面をぼうっと見上げていた。

 やがて仄暗い水面に、透明な陽の光がゆらゆらと差し込んできた。

 そのとき、一人の少年が、湖の縁にかがんで水底をのぞきこむ。

 少年の髪はアッシュグレイ、一対の瞳は黒曜石の色。


 あの男の子だ、と気づいて下から、必死で手を振った。

 なのに、ゆらり揺れる冷たい水の向こう、少年は完璧にゆるぎなく無表情。

 水底の石を見るようにこちらを一瞥すると、立ち上がり、くるりと背をむける。

 ティリアは焦って、待って、と声をかけた。

 彼は振り返ることすらなく、立ち去りぎわに、なぜ、と冷たく問いかけた。


 なんで、とティリアも考える。

 なぜ自分は、待って、と言ったのだろう。行ってほしくないと思うのだろう。

 なぜ。

 どうしてか。

 ・・・

 ・・・なんだ。うん。

 分かって見れば簡単なこと。


 好きだから。

 ただ、それだけのこと。

 たぶん、初めて出会ったときから、ずっと。


 答えを得たティリアの身体は、そのせつなに軽くなる。

 湖の底をただ一蹴りすると、ぽっかりと湖面に浮上した――



「痛っ」

 ここは湖の冷たい水の中、なんてことはあるはずもなく、伸ばした足先を何か固いものにぶつけたティリアは、ようやく奇妙な夢から目を覚ました。同時に自分の身に起こったことを否応なしに思い出し、パニックに陥りそうな心を必死になだめすかした。


 まず間違いなく、王女と間違われてさらわれたのだろう。それは分かるが、自分が現在おかれている状況が把握できない。どころか、どちらが上でどちらが下かすら分からなかった。

 どうやら麻袋のようなものに入れられて、横向きの体勢で転がされているらしいと判断した頃には、寒さのせいか恐怖のせいか、身体が細かく震えだしていた。麻袋の下の床は固い石なのか、震える踝がぶつかるたびにカタカタとくぐもった音をたてる。

 麻袋の頭の方は閉じられておらず、うっすらと淡い光が入ってくる。よっぽど気候の違う地方に連れて来られたのでもない限り、気温と空気の感じから、時刻は早朝、場所は屋内だと思われた。屋内だろうと何だろうと、火の気のない春先の朝方に袋だけをかぶって震えているこの状況、決して芳しいものとはいえないが。

 人の気配は・・・ない、と思う。深呼吸して、震える手足を慎重に動かしてみた。みぞおちに鈍い痛みがあり、軽い吐き気もする。恐る恐るさわった額にも擦り傷らしきものがあったが、大きな怪我はなさそうだった。


 さあ、どうしようか。

 何とか落ち着きを取り戻したティリアは、麻袋の中で逡巡した。手足を拘束されているわけでなし、袋から芋虫のように這い出すのは簡単だ。しかし、うかつに這い出した先に待つのは地獄か天国か―― 考えた末、とりあえず顔を出してみて、まわりの様子を確かめるという妥当な線に心を決めた。


 そもそも、自分がさらわれるという事態など、避けたかったのはもちろんである。が、本物の王女がさらわれるよりは、ずっとマシなのだ。

 麻袋が似合うのは、断じてあの美しい人ではなく、自分の方なのだから。

 つまり、これは不幸中の幸いであって、運は多分、自分に味方してくれているはず・・・そう自分を励まし、思い切って姿勢を変えようとしたとき。

 ギィッと扉が開けられる音がして、冷たい風が吹き込んだ。


 思わず身をすくめたティリアの耳に届いたのは、のんびりとした鐘の音――それは、その耳にあまりにも馴染んだ、朝を告げる王城の鐘だった。

「ちっ、何だよ、でかい芋虫みたいな荷物を放り出したままって。だいたい、カギもかけ忘れてるし、怠慢だな」

 鐘の音にかぶさるように聞こえた声は、またしても懐かしすぎるものだった。

 ティリアは夢中で麻袋から這い出したが、いきなりうごめき出した麻袋を見て驚いたのは声の主である。

「ひっ!」

「モンモパ~ンっ! うぬいわおえっ!」

 遅れてやってきた安堵と恐怖がごっちゃになって、ティリアは腰を抜かしてへたり込んだ作業室の先輩に雄叫びとともに飛びつき、のしかかった。

「へっ? モンモっ? ていうかおまえ、こんな所で袋かぶって何やってんだよっ」

「よ、よかった、よかった! ところで、どこですか、ここ? 王城内のどこかですよね、ぬぇっ?」

「おいっ、やめっ、やめろぉ、離してっ、かかか返せよっ、僕の貞操っ!」

 しがみつかれてすっかり蒸し上がった彼の答えを待つまでもなく、自分が放置されていた場所の見当はついていた。何のことはない、王城の裏庭に面した倉庫の一つだ。ティリア自身も何度か入ったことがあったし、こう見えて仕事熱心なモンモパンも、朝の作業開始前に道具類を調達に来たのだろう。


 そのときになって、戸口の方から視線を感じ、モンモパンに馬乗りになった形のティリアが顔をあげると、見習い騎士らしき若い男が目を瞠っている。

「隊長っ、こちらにっ!」

 彼が外に向かって声を張り上げて、今度は蜂蜜色の髪の男が戸口からひょいと入ってくる。

「おっと、お取り込み中に邪魔をしてしまったね。まあ、元気そうでなによりだ。結局、奴の推測どおり、案外近くにいたってわけだ・・・。しかし今ごろ、血を吐く勢いで探しているだろうに、ははは、可哀そうな奴だな、おいしいところを持っていかれたか」

 機嫌よさげにティリアたちを眺めるのはアルデアで、可哀そうなどと言ってはいても、いつもどおりの飄々とした様子である。

「すいません、申し訳ありません、あの、わたし・・・それで王女は?」

「うん? まあ、十数える間に怒ったり泣いたり反省したりと・・・珍しいだろう? つまりは、心配なさってるってことだ。ふふ、ちょっと羨ましくないこともないかな。

さて、君には事の次第を話してもらわなくてはならないが、まずは王女に、俺の方から無事だったことを報告しておこう」

 さらりと言うと、アルデアは次に見習い騎士の方に目を向けて、頷いてみせた。

「副隊長への連絡の方を頼む。だが、一休みしてからでいいぞ。たまにのことだ、もうしばらく血を吐かせておくのもいいだろう。連絡の内容は・・・倉庫にて無事発見、ただし貞操の危機だった、とでもしておくか」

「そんな・・・殺されますよ・・・」

 気の毒なほど青くなった見習い騎士が、ぼやくように答えた。




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