日常と少しの非日常(11)
昔、ティリアがまだ幼くて、手の届く範囲の世界がもっと単純だった頃。世の中には黒い宝石というものが存在すると聞いて、それは変だと思ったものだった。光を通さない漆黒の石が、宝石であり得るのか、と。
しかし、今ならそれがどういうものか分かる気がする。
その石はきっと、まわりの光を吸い込むようにして輝くのだ。そしてじっくりと覗きこめば、奥底に微細な銀の斑点が散っているのが見えたかもしれない。
今、自分を見据えている一対の黒い宝石のように。
「ここで、何を?」
・・・と、そんな悠長なことを考えている場合ではなかった。
何をと問われて、どのように答えを返しても正解にはならないのだろう。
やはり、体を張って王女をお止めすべきだった。あの尊い方に、何かあってからでは遅いのだから。
もはや習慣のように、ティリアは頭を下げて謝罪のことばを述べようとした。だがそれは、やんわりと、しかし逆らえない程度の力で、ティリアの肩を指先で抑えたコルウスによって遮られた。
あたりはとても静かだった。春さきの虫たちさえ威圧的な空気におびえて逃げ去ったのか、かすかな羽音さえ聞こえない。
――ティリアには虫たちの気持ちがよく分かった。
「もし何かがあれば・・・このような場合、たとえ非が無くとも、責任を問われるのはあなたです」
「はい」
「オルキア様があなたの責任を否定したとしても、それに甘えてはいけない。私の言っていることが分かりますか」
「・・・はい」
王女と自分との、圧倒的な命の重みの差は、もちろん分かっていたはずだった。
でもそれを、目の前の彼に指摘されると、泣きたいような気持ちになるのはなぜだろう。
「いや、あなたは多分、分かっていない」
「いいえ、分かっているつもりです」
「違う、分かっていない。私は心配しているのです・・・あなたを」
最後に静かに付け足されたことばを聞いたとき、ティリアの中でくすぶっていたものが一気にはじけた。
ティリアはコルウスの目を睨むように見返す。
「心配? なぜわたしを心配するんですか。それは・・・、それは、わたしたちが兄妹だからですか?」
「・・・」
絶句したコルウスの、夜を映したような目。やはり彼は、こちらがそのことに気づくはずはないと思っていたのだろうと考えながら、こぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえた。
それは、誰にも確かめることができないまま、ティリアの心に長年トゲのように刺さっていた疑念だった。
あの雨の日、怒りの感情を露わに自分を睨んでいた少年のこと。武術方面の才能を受け継がなかった娘に苦笑するとき、決まって遠くの何かを思いやるような顔つきをする父のこと。その父と母が正式には結婚していないこと。そして何より、ふとした瞬間に、コルウスのことを意識してしまう自分のこと・・・
もしもそうであれば――つまりコルウスとティリアが腹違いの兄妹であるならば――、これらはすべて、辻褄があう。そして自分は、何も知らないふりをして、彼から父親を奪い、一人占めしていたことになる。
「兄妹って・・・。そう来るとは、思わなかったな」
そのとき、コルウスのつぶやくような声は、ぐるぐると激しく渦巻く感情になぎ倒されそうなティリアの耳に、不思議とはっきり届いた。
「え?」
「違いますよ。幸か不幸か、私たちの間には、一滴の血のつながりもありません」
あっさりと言ってのけたコルウスの表情は、事実をただ事実として伝える人のそれで、ティリアは一瞬にして自分の勘違いを悟った。
まわりの空気がパリンと音を立てて、砕けた気がした。膝の後ろから力が抜けて、目にうつる景色がずりあがる。
その場にへたり込んだティリアは、一瞬の安堵のあとで、猛烈な恥ずかしさに襲われた。自分はなんて、失礼なことを言ってしまったのだろう。そもそも、兄妹かもしれないという疑念にしても、後ろ向きな気分のときこそむくむくと湧きあがってくるが、自分でもあり得ないと打ち消すことが多かったのだ。
それをなぜ、当人の前で口にしてしまったのか・・・
「あなたは、私たちが兄妹であれば良かったと思いますか」
ティリアに合わせて姿勢を低くしたコルウスにそう問われて、首を大きく横に振った。
そうしてから、自分は兄妹の何がそんなに嫌なのかとふと思う。しかし、否定するティリアをみとめたコルウスも、表情を動さないまま頷いている。
「あそこまで、歩けますか」
そう言って彼が示したのは、その場から一番近い東屋だった。かがり火にぼんやりと浮かび上がるその東屋は、六角形の屋根を六本の柱が支えているだけの簡素なつくり。とはいえ、長椅子が置かれているので、地面に座らなくても済むのは確かだ。
しかし、その東屋がはるか遠くにあるように思えて、とてもそこまで歩ける気がしなかった。だからといってずっと座り込んでいるわけにもいかない。ティリアはなんとかよろよろと立ちあがった。
「それとも、私があなたを担いでいきましょうか」
こんなときにどんな冗談だとコルウスの方を振りあおぐと、彼の顔は至極まじめである。
とっさに頭に浮かんだのは、彼の肩口から粉袋のように二つ折れでぶら下がる自分の姿。この人ならそれを実際にやりかねないのだと、慌てて足を踏み出した。
「いいえ、大丈夫ですから。歩けます」
先ほどの失礼な発言についても謝りたかったが、それだけの余裕はまだない。一歩、また一歩と、足を進めるが、まるで泥濘を歩くときのように足元がおぼつかない。
その様子を見ていたコルウスが、ティリアに寄り沿い、片腕を背中から腰の方にまわして、支えてくれる。
途端に、ティリアの心拍数が嫌な感じに上がり始めた。
今度は別の意味で、たいへんに歩きずらい。
あり得ない勘違いをさらし、長い間刺さっていたトゲはあっけなく抜かれ、今はこんなふうに支えられて歩いている。自分はよくも死なずに済んでいるものだとティリアは思う。
いや、自分はもう、死んでいるのかもしれない。
ならばいっそと、まわされた腕と、自分の右側に沿わされた身体に、少し体重をあずけるようにした。すると格段に歩きやすくなって、同時に隣りから漂う鋼のように固い空気が、いくぶんか柔らいだ気がした。
身体が傾いだはずみに、ティリアの左の手首のあたりに、コルウスのまわされた腕の指先が触れた。その指先は思いのほか冷たくて、うわずっていた気持ちがしゃんとする。
――あんなに遠いと思った東屋は、もうすぐそこで、思ったよりずっと近かった。それは、少し残念に思えるほどに。
東屋に着くと、コルウスはティリアを長椅子に座らせて、自分は柱の一つに寄り掛かるようにして立っている。
長椅子に腰をおろした後もしばらく、離れてしまった半身を呼ぶような感覚が、ティリアの身体の右側にしんと留まったままだった。