日常と少しの非日常(10)
ティリアの前を行く王女は、宿舎と物置の間の狭い隙間を器用に走り抜け、庭園の端に出ると足運びをゆるめた。
追いついたティリアが少し咎めるような顔をして見せる。しかし、高い位置で揺れるかがり火に照らし出された王女の横顔は、まったく悪びれる様子がなかった。
「むろん、城の外に出ようなどと思ってはいないわよ」
そんなこと当たり前だとティリアは思う。しかし、王女の様子があまりに楽しげで、その楽しげな様子が咲いたばかりの花のように可憐で、王宮にお戻りくださいということばを口に出すことができなかった。
「あなた、王城に来てからというもの、仕事をしているか、それでなければ食べているか寝ているか、ではなくて? 今日はわたくしが、常識に欠けるあなたに色々なことを教えてあげるわよ」
ここは礼を言うべきかと内心で首をひねりながら、なんとなくあたりを見回すと、すっかり陽が落ちた時間だというのにどことなく華やいだ雰囲気が感じられる。
そういえば、今日は王宮で非公式の夜会があるはずだとモンモパンが言っていた。なるほどそれが、そこかしこで多めに焚かれたかがり火と、ひときわ明るい王宮の方向から漂う浮き立つような空気の理由なのだろう。
ティリアたちのいる場所からは、ちょうど王宮の入口付近が視界に入った。招待客なのか、ドレスの背中が大きくあいた艶やかな女性の後ろ姿が見えて、ティリアは思わず自分の薄汚れたエプロン――作業室のエプロンをしたままだった――を見下ろし、狭い通路を通りぬける時についたと思われるクモの巣らしきものを手ではらった。
エプロンの粗い生地を通して、ポケットの不格好な膨らみに手が触れた。中に入っているのは、例の手袋。
勿体ない気がしてほとんど使っていなかったが、部屋に戻ってぼうっと考え事をするときなど、手袋を取り出してなんとなく眺めたりするのが習慣のようになっていた。
女官の突然の訪問を受けて、無意識にポケットに入れたのだろう――ポケットを軽く押さえて、その存在をもう一度たしかめると、ティリアの口元が自然にゆるんだ。
そうこうするうち、王女が王宮とは反対の方向へ歩きだす。ティリアもすぐにその後を追った。
王女の弾むように歩く後ろ姿を見ながらふと、この方は夜会に出席しなくてよかったのかという疑問が頭をかすめて、めまいがした。
「ぶっ」
「しっ!」
「申しわけありま」
「お黙りなさいな」
王女が急に立ちどまったため、ティリアはその背中にぶつかりそうになって謝った。が、王女は気にする様子もなく、立木のかげに隠れるようにして前方をうかがっている。
ティリアもそちらを見やると、二人の男が何やら立ち話をしているところのようだった。
暗いのではっきりとは見えないが、一人は時おり見かける料理長のようで、もう一人の男から籠に入った何かを受け取ると、のんびりとした足取りで歩み去った。
「さて、今あなたが目にしたのは何だったのかしら」
王女がティリアの方を振り向くと、楽しげにそう問うた。
「何って・・・料理長が食材を受け取っていたのではないでしょうか。今度の料理長は、腕も良く人望もある方だと、厨房係の友人から聞いたことがあります」
「そうね。料理長は優秀な料理人だし、人柄もいいらしいわ。まあ、彼がさっき受け取ったのは、食材ではなく賄賂だけれど」
「賄賂? 賄賂って、ええっ?・・・国王様に、報告なさるのですか?」
途中から声をひそめてそう聞いてみると、王城一の間抜けを見る目に迎えられた。
「あなた、国王がどれだけ暇だと思っているのよ。だいたい、報告が必要なほど悪質なものなら、こんな場所でどうどうとやり取りされるわけがないでしょう」
「な、なるほど・・・」
「食材の納入業者から受け取った賄賂の使い道は、斬新かつ面妖な調理法の開発や、新入りが黒焦げにする焼き菓子の補充が主なようよ。賄賂のせいで他の優秀な業者の参入が阻止されているわけでなし、必要悪といったところかしら。これぐらいなら、可愛いものだわ」
その突き放すような語調に少しの居心地悪さを感じていると、今度はうきうきとした笑い声とまくしたてるような話声が聞こえて、三人ほどの若い娘がこちらに歩いてくる。
「首位が第一隊のアルデア隊長、次点がコルウス副隊長、ここまではまあ予想通りだけど、三位に赤丸急上昇中の見習い騎士が入ったのはもうびっくりよ」
「そう? あたしの予想じゃ・・・」
そんな会話が耳に入り、娘たちが二人のすぐ横を通り過ぎていく。しかし、かぶり布姿の王女に気づく様子はまったくなかった。
彼女たちの姿が見えなくなると、もう他に人影はなく、あたりの静けさが急に増したように感じられた。
「あなたは誰に投票したの?」
「投票、と申しますと、何の投票でしょうか?」
またしても王城一の愚か者を見る目に射抜かれて、ティリアはこっそりとため息をついた。
「近衛騎士人気投票。こんなことわたくしに説明させないで欲しいわ。あなたの同僚たちはほとんどが投票に参加しているようだし、賭けの対象にもなっているようだけれど?」
人気投票などという下世話なことばが王女の口からもれたので、あやうく吹きだしそうになったティリアだったが、そういえば、と思い出して目を空にさまよわせた。
厨房係の娘に、アルデアの名前を言ったら焼き菓子をやると言われて、素直に従ったことがあったような――あれがそうだったんだろうか。
と、王女がいきなりそっぽを向いて、つんと顎をそらせた。これはまたどういう反応かと面くらったティリアだったが、ちょうどそのとき、誰もいなかったはずの背後に人の気配を感じた。
「そこのお二人さん。夜の庭園で仲良く情報収集ですか? お邪魔するのはたいへん心苦しいが、そろそろお開きにしていただけませんか」
心苦しさなどみじんも感じさせない声の主は、アルデアだった。彼はすっと王女の斜め後ろへと移動したが、王女は相変わらずそっぽを向いたままだった。
ティリアには、王女を見るアルデアの目がとてもやさしいように思えた。そのまましばらく二人の様子を見較べてしまっていたが、はっとして居住まいを正した。
「申し訳ありませんでした。わたしが」
「おやめなさい。なぜあなたが謝るの」
「まあまあ、こんなところでけんかしないで」
アルデアがそう言ってから、ティリアの方に向きなおった。
「さて、と。この方を王宮までお送りしなければならないが、君のほうは・・・おっと、担当者が捕獲に来ちゃったな。うん、なかなかいい具合に怒っているぞ」
アルデアは庭園の奥の方にちらりと目を向け、機嫌よさそうに笑みをこぼしたが、ティリアはそちらの方向を見る気になれなかった。
「じゃ、幸運を祈っているよ。後で経過を詳しく報告してくれ」
あくまでそっぽを向き続けるつもりらしい王女を伴い、アルデアが歩きだした。ティリアは膝を折って頭を下げ、二人を見送る。
そして、姿勢を戻したティリアの目の前に、壁。
「それで?」
そう、この威圧的な壁はしゃべるのだった。
どうせしゃべるなら、単語ではなく文章でしゃべって欲しいものだと思いつつ、少し首を傾げるようにして自分を見ている彼の黒い瞳を見上げた。




