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日常と少しの非日常(9)


 宿舎の自分の部屋にたどりつくと、ティリアはベッドにぼすっと腰かけて、小さく息を吐いた。

 この部屋は本来、三人ほどが寝起きできる広さがある。しかし、ティリアのベッドがある一画を除いて、厨房の金物類やらクロス、食器などが積み上げられていて、ほとんど物置部屋のようになっていた。

 そのせいで、ティリア以外にこの部屋で寝起きする者はいない。

 仕事中は意識せずとも緊張しているのだろう、一人きりでほっとできる場所があるのは、ティリアにとってありがたいことだった。


 今日は日没間際に雑用を言いつけられて、ろうそくのとぼしい光の下で一人、どうにか作業を終わらせてきた。

 作業室に入った当初こそモンモパン専属の召使のような有り様になっていたが、今では他の筆写官からも直接用事を頼まれるようになっている。

 それはつまり、多少なりとも信頼されるようになってきたということ。はやく雑用を卒業して筆写の仕事をしたいという思いは相変わらずだったが、筆写官の仕事を知れば知るほど、自分ごときがまっさらな羊皮紙にインクを載せてよいものかと、畏れのような気持ちも抱くようになっていた。だから、雑用が増えること自体は決して嫌ではなかったし、雑用の仕事には作業室全体を見渡せるという思わぬ利点もあった。


 ティリアの目から見ても、王城の筆写官たちは、さすがにみな優秀だった。

 一人で十数種類の書体を操る筆写官もいるが、ティリアはすでに、書かれた文字を一瞥して、それが誰の手によるものか分かるようになっていた。その点についてだけはモンモパンもうっかり感心していたが、当のモンモパンは、ティリアの見るところ、筆写官の中でもかなり優秀な部類に入った。

 しかも彼は、ああ見えて努力家だった。朝など、準備作業をかかえた見習いのティリアよりも先に作業室に来ていて、何やら熱心に端切れに書き込んでいたりする。


 つくづく、あの嫌味な性格が惜しい・・・ティリアがそんなことを考えながら頭の中でモンモパンの独特の筆跡をなぞっていると、ほとほとと、部屋の扉を叩く音がした。

 厨房係の娘が備品でも取りに来たのだろうと、よく確かめもせずに扉をあけると、すべり込むように中に入って来たのは、第二王女つきの女官だった。


「オルキア様がお呼びです」

 そう言った女官は、思わず眉をひそめてしまったティリアに大股で近付き、ベッドに座ったままの彼女の肩をぐいっと掴んだ。なかなかの迫力である。

「そんな顔をなさらぬよう。オルキア様は、王族の間でいくらか変わり者と言われてもいますし、警備泣かせで、気難しいところがないとは申しません。でも本当は、お優しくて、とても良い方なのですよ」

「そうですね」

「いえ、本当に良い方なんです・・・え、今なんと?」

「はい、わたしもそう思います。それに、施療室に行けと言う人に悪い人はいませんし」

「施療室?」

 女官は一瞬とまどったような顔をしたが、すぐに満面の笑みを顔に浮かべ、ティリアの手をとって立ちあがらせた。

「とにかく、分かってくれているのなら良いのです。あのとおりのお方なので、貴族の令嬢を侍らせるのは面倒だと仰るし、何かと比較される姉姫さまとは水と油のようにご性質が違っていらして、お互い遠慮しあっているようで。もちろん私は、オルキア様のためなら真冬の池の氷もかち割る所存ですが、なにぶん、年齢の近しい話し相手の役割を努めるには無理がありますから」

 地味な外見に関わらず、握りこぶしをつくって力説する女官は実は熱血の人らしく、ティリアはこんな人が王女の傍にいることがなんとなしに嬉しかった。


 その後もティリアに抱きつかんばかりの勢いの女官が話したところによると、彼女自身、低からぬ身分の夫を亡くして後ろ盾を失い、まじめで融通がきかない性格が災いして路頭に迷う寸前だったところを、王女が自身の女官として採用したのだという。

 また、王女は「あのお美しさと難しいご性格」ゆえに厄介事に巻き込まれることも多いのだという。先日も爵位を金で買ったような貴族に懸想されて一悶着あり、結局彼は自身の不正が明らかになって失脚したものの、心配した王妃様らによって、王女のもとに望まぬ婚姻話がいくつも持ち込まれているのだとか。

「ですから、決して口に出して不満を並べたりはなさいませんが、いつも鬱屈を溜めこんでいらっしゃるようなものなのです。そんなオルキア様が、なぜか随分あなたを気に入ったご様子。ぜひ、よいお話相手になってくださいませ。大丈夫ですよ、オルキア様は、あなたの身分の低さを気になさるような方ではありません」

 そっちが気にしなくてもこっちは気にするし、微妙に失礼なことを言われている気がしないでもない。それに第一、ティリアには自分に王女の話相手などという大それた役割がつとまるとは思えなかった。

「お話相手になれるとは思えませんが。でももし、わたしで何か役に立つなら、嬉しいと思います。わたしはあの方が、好きですから」


 扉がきしむ音がして、そちらを見やると、質素な服をまとったかぶり布姿の娘が立っている。むくれているようにも見える、何とも言えない表情をした彼女は、ティリアと目が合うと口元をひっそりとほころばせた。

 その紅いくちびるの描く曲線のなんて鮮やかなこと・・・ああ、王女のほほ笑みは凶器だと、ティリアは思わずにいられない。

 その凶器はおもむろに窓のそばへ近寄ると、たてつけの悪いその窓を照れ隠しのように乱暴にひき開けた。

「ずいぶんと無駄に大きな窓だこと。これでは外の人間が簡単に侵入できるわね。侵入しやすい部屋というのはつまり、脱出しやすい部屋というのと同義だけれど」

 そう言うなり、あっと思う間もなく、王女は身軽な動作で窓の外へと姿を消した。宿舎は平屋建てだから怪我はしないだろうが、あまりのできごとにティリアは一瞬あっけにとられた。

 そんなティリアに向けて、女官が窓の外へと追い払うしぐさをする。

 はいはいそういうことですか――仕方なくティリアも王女を追って、すっかり陽の落ちた窓の外に飛び降りた。




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