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日常と少しの非日常(8)


 今日の王女はまったくの一人で、女官さえついていないようだった。

 警備の人は、どこかにいるのだろうか・・・そんなことを考えながら、ティリアは床の一点に視線を固定して、王女が通り過ぎるのをおとなしく待っていた。

 王女の気配が近づくにつれ、何ともいえない香りが鼻孔をくすぐる。

 さすが高貴なお方は香りからして違う、と内心で頷いたとき、ちょうど王女がティリアの前にさしかかった。

「相変わらず、ぽくぽくした娘ね」

 ぽ、ぽくぽく?

 あやうくまた、そのフレーズを脳内でリフレインさせそうになりながら、なんとか踏みとどまる。

「今さらかしこまっても遅いのよ。顔をあげてついていらっしゃい。別塔に戻るのでしょう?」

 今さら、ということは、庭園で会ったのはやはり王女本人で、そのときのティリアの無礼な発言も忘れてくれたわけじゃない、ということだろう。

 それはかえって、ティリアをすっきりした気分にさせた。

 とはいえ、ここで王女について歩くのは、なんとなく気が進まない。しかし、もちろん断るわけにもいかず、ティリアは歩く姿も絵になる王女様の後にもっさりと続いた。

「書物の読み合わせのときだって、いつまでも馬鹿丁寧なことば遣いで話しているんだもの、もうおかしいったらなかったわ」

 ゆっくりと前を歩く王女は、顔を横に向けるようにして、ティリアにだけ聞こえる程度の声で話している。

「わたくしは変に遠慮されるのが嫌いなの。毒虫をひねりつぶしたときみたいに、もっとちゃきちゃきしゃべりなさいな」

「ひねり・・・って、そういうわけには、まいりません」

「だから、そういうのを止めなさいって言ってるの。馬鹿丁寧の馬鹿をとるぐらいの加減で我慢してあげるから。ところでその、あなたのポケットからはみ出している、小汚い色のものは何かしら」

「小汚い、といいますと、この手袋のことでしょうか」

 言いつつティリアは手袋を取り出してみる。面倒ないただきもの、ぐらいに思っていたのが、小汚いなどと言われると、それはそれで複雑な心境だった。

「そう、それよ。新しいみたいね」

 一瞬立ち止まって手袋の方を見た王女は、すぐにまた歩き出す。

「それ、アルデアの趣味ではないわね」

 こころなしか機嫌の良さそうな王女のつぶやきを、ティリアはわずかに怪訝に思った。それでつい、思ったことが素直に口をついて出てしまった。

「アルデアさんのこと、よくご存じなんですね」

「何を無礼なこと・・・」

 足を止めて振り返った王女は、頬を薄紅色に染めている。それが王女をひどく可愛らしく、また、それまでよりも幼く見せていた。多分、だいたい年相応ぐらいな感じに。


 この反応って、つまりそういうことなんだろうか・・・自ら宮廷ゴシップに足を突っ込みそうになっていたティリアは、王女の小さな咳払いで我に返った。

「無礼と言ったのは、取り消してあげます。アルデアは昔、下の兄の剣術や勉学の相手をしていたの。その関係で、わたくしも何かのときに、同席することがよくあったわ」

「ということは、王子殿下のご学友だったのですか。では、かなりの家柄の・・・」

 王女の前で下世話なことを言ってしまった、と口をつぐんだティリアだったが、王女は別のことにあきれているようだった。

「何も知らないのね。あなた、コルウスとも知り合いなんですって? アルデアは近衛第一隊の隊長、コルウスは副隊長よ。第一隊っていうのは・・・なぜわたくしが説明しなきゃならないの。とにかく、このあたりの侍女たちなら、その二人のことは三日前の寝ぐせの向きまで噂話の種にするわね」

 ティリアの目をのぞきこむようにして、王女は再び紅いくちびるを開いた。

「それで、あなたはどう思うの、アルデアのこと」

「どう――と言われましても。二回しかお会いしたこともありませんし」

 ティリアはそこでことばを切ったが、きちんと答えるまで解放してくれるつもりはなさそうだった。仕方がないので、なんとか印象をことばに落としこもうとがんばってみる。

「なんというか、人の輪の中心にいて、まわりを居心地良くさせるような方、じゃないでしょうか。でも、少し食えないところもありそうで・・・」

 ティリアの答えを聞いた王女は、無言のまま、ぱちぱちと長いまつげでまばたきをして、それからまた前を向いて歩き出した。

「そう。そうね・・・それからもう一つ、アルデアは、姉様のお相手候補の一人なのよ」

 そう言った王女の顔は、まっすぐ前を向いていたので、後ろを歩くティリアには見えなかった。


 次に王女が足をとめたのは、王宮正面の出入り口だった。ティリアは書庫に来るときなど、通用口から出入りするのでこちらを使ったことはなかったし、気後れするので今も使いたくなかった。

 しかし、王女はここでティリアと別れるつもりのようである。

 まさか嫌がらせではないだろうけど・・・そんな被害妄想に悩まされていたとき、広間の飾り階段の上階を賑やかな一団が通りがかった。高価そうな衣装に身を包んだ七、八人の令嬢たちの中心に、淡い色のドレスを美しく着こなした、やさしげな若い女性が見える。

「姉様よ」

 ぽつり、と王女がつぶやいた。


 一瞬ののち、すっと背を伸ばした王女は、既にいたずらっぽい色を瞳にのせていた。

「そういえば、あなた、街で盗賊相手にやりあったんですって? 地方から王都に入った、騎士崩れの盗賊も出没しているそうよ。お転婆もほどほどにしなさいな」

 それはこちらのセリフだ、とか、王城情報網は速度より質を重視すべきだ、とか、思うことはいろいろあったが、ティリアはおとなしく礼をして、王宮の奥に戻っていく王女を見送った。




 その夜、宿舎ですっかり寝支度をととのえたティリアは、長いこと香油の小瓶と自分の手とを見比べていた。

 窓から入る月明かりが、荒れた手のひらを青白く照らしだす。


 香油などというものは使ったことがなかったし、使うことになるとも思わなかった。

 とうとう好奇心に負けて、小瓶からほんの少しの香油を手のひらに落とした。意外にも、素朴な甘い匂いが静かにただよう。

 ――これ、知ってる匂いだ。

 故郷でよく飲んでいた、林檎の皮のお茶。その香りによく似ているのだ、と思いあたったティリアは、懐かしさでひたひたと胸を温めながら、香油を慎重に手になじませた。

 そのうえにかぶせた手袋は、確かに大きすぎたが、とてもやさしい肌触りがした。


 重ねた両手に頬をつけるようにして、しごく穏やかな気分でティリアは寝付いた。

 それから朝までぐっすりと、安眠をむさぼった。近ごろずっと悩まされていた、ほの暗いような嫌な夢にうなされることもなく。





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