日常と少しの非日常(7)
「お嬢さん。そこの勇敢なお嬢さん」
資料を戻し終わって王宮書庫を出たティリアに、後方から聞き覚えのある声がかかった。
とりあえず勇敢と形容される理由もまったく無いし、ここは振り返らない方が無難だろうとティリアは足を進めた。ところが、あの華やかな容貌の近衛騎士が、いつのまにかティリアの前方に回り込んでいる。
ここの近衛騎士は皆――といっても二人しか知らないが――、こんなに気配を感じさせないのだろうか。ティリアは小さくため息をついた。
「ため息っていうのは、なかなか新鮮な反応だね。ところで君、王女をおそった凶暴な獣をやっつけたんだって? 噂になってるよ」
「獣、ですか?」
王都では、毒虫は獣に分類される。はずもないだろうから、王城名物誇大広告だろうか。否定しようとしたティリアは、アルデアの笑いをこらえるような顔を見て、からかわれているのに気がついた。
「そのデタラメな噂はどこから出たんでしょう」
「デタラメってことは、まったく根拠のない噂だって言いきるつもりかな?」
意外とこの人が全部知っていて、なおかつ噂の元凶になっているのではないか。そんな疑いをもちつつも、なんとなく憎めない感じの人だ、とティリアは思った。あのコルウスの友人だと言っていたが、二人はどんな会話を交わすのだろう。
「まあ、それはそれとして。今日は渡したいものがあって」
そう言ってアルデアが取り出したのは、黒っぽい手袋と、小瓶に入った液体のようなものだった。
「これは、何に使う道具ですか?」
「・・・道具、と言えないこともないな」
アルデアは、また笑いをこらえるような顔をして、手袋を振ってみせた。
「だいたいこれはね、君には大きすぎるだろうし、質は良さそうだが趣味がなってないね。普通はもう少し、可愛らしいのを選ぶだろう。リボンもかけずにむき出しっていうのも、まずあり得ないな」
アルデアは愉快そうであったが、ティリアにはさっぱり意味がわからなかった。しかも先ほどから、仕立ての良さそうなお仕着せを着た若い娘が数人、ティリアたちの様子をうかがっている。正直言って、その視線が痛かった。
早く解放されたい。
「それで結局、これをどうすればよいのでしょうか」
「どうすれば? ふははっ、ただ受け取ってくれればいいんだよ。受け取った後では捨てようが何しようが勝手だし、それはそれで面白いけど。うん、そうだね、捨てるっていうのも面白いな。だが、いったんは受け取ってくれないと俺が困る」
「受け取るって、何のためにですか?」
「何のためって・・・ふははっ、ああごめん、言うのを忘れてた。小瓶の香油を手に擦り込んで、この手袋をしてから就寝すると、手荒れに効くそうだ。手袋の方は、嫌じゃなければ防寒用にも使えるだろう?」
「つまり・・・わたし個人がそれをいただけるということですか? タダで?」
警戒心をあらわにしたティリアに対し、アルデアは笑ってうなづいている。
ティリアの故郷では、知らない人からモノをもらっちゃいけないことぐらい、子どもでも知っている。だいたい、タダより高いものなどないのだ。
王都では違うのだろうか。
「あの、いただく理由がありませんので・・・」
「理由か。おもしろいことを言うね。この際、理由があるかどうかは君の決めることじゃないってことで・・・おっと、そろそろ行かなくては。じゃあ、王女と仲良くね」
最後のほとんど不敬罪に相当するようなことばだけ小声で言うと、アルデアは笑顔を残してさっさと歩み去っていった。渡された手袋と小瓶を慌ててポケットに突っ込んであたりを見回すと、こちらをうかがっていた娘たちの姿は消えていた。かわりに、ティリアが背を向けていた方向から歩いてくる人影が見える。
第二王女だった。
王宮内で「鉢合わせ」は初めてだ、とティリアは慌てて壁にへばりつくように道をあけ、膝を折って頭をさげた。