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閑話 十年


 陽が傾いて、空の半分が朱の色に染まっていた。

 庭園の隅に一人の娘の後ろ姿をみとめて、コルウスはなんとはなしにそちらを見ていた。娘は腰をかがめて何かに一心に見入っている様子で、夕方の光に縁取られた背中はピクリとも動かない。

 それほど夢中になって見るような何があるのか。聞いてみたいような気持ちになったが、すぐにそんなことを考えた自分がおかしくなった。

 それでもそのまま、そのすんなりとした後ろ姿から視線を外すことができなかった。


 やがて娘は背中を伸ばして、静かに振り返った。湖の色の瞳がまっすぐに彼を見る。


 そうか、そこにいるのはあのときの彼女だと、それはひどく自然に腑に落ちた。

 養育院で過ごした最後の日。目を見開いてコルウスを見ていた小さな女の子。雨の中に取り残された草花のように立っていた。


 見つけた。それとも、自分が見つけられたのか。

 そんな脈絡のない考えが浮かんだ。その様子を見咎めたのか、隣りの男が話しかけてくる。

 それに答えを返してから視線を戻すと、彼女はすでに背を向けて歩きだしていた。





 コルウスが祖父に当たる人に引き取られて養育院を後にしたのは、彼女に初めて出会った次の日だった。

 血のつながった「おじいさん」であるはずのその人が、なぜ自分に辛くあたるのか、当時のコルウスは理解に苦しんだ。しかし少しずつ自らの出自が明らかになるにつれ、祖父の怒りと絶望の原因が見えてくる。平たく言ってしまえば、コルウス自身がその原因だった。

 コルウスの父は、異国からの流れ者であった黒い瞳の娘と恋に落ち、やがて娘は身ごもった。それ自体は珍しくもない話だったが、彼が公爵家の嫡男であり、その娘以外に妻を娶るつもりはないと宣言したことから、大きな騒動がもちあがった。

 当然、まわりの人間は猛反対する。一年近くも続いた騒動は、次期近衛騎士団の長と目されていた名誉も、公爵家の嫡男という身分も、それらに伴うあらゆる責任も、コルウスの父がすべて放棄することで決着をみた。彼は妻と乳飲み子だったコルウスを連れて、辺境の地に移り住んだという。

 争いや私刑が横行する辺境の地で、三人はつかのまの平穏な生活を享受することができたのかどうか。まだ幼いコルウスを残して、父も母もその地で命を落とすことになった。流行病が原因といわれているが、本当のところは分からない。

 やがて、祖父は公爵家当主の座を父の弟に受け渡す。コルウスの叔父にあたるこの男と祖父は、もともと折り合いが悪かった。祖父がコルウスを養育院から連れ出したのも、叔父の反対を押し切ってのことだった。



「騎士になりたい」

 あるときコルウスがただ一つの望みを祖父に伝えると、祖父は息をのむようにして、それからいつもと違う目でコルウスを見た。

 あれは愛しい者を見るまなざしだったと、後になってコルウスは思った。そのときに、あるいは少なくとも祖父が存命のうちに、それに気付けなかったことを残念に思う。

 祖父はコルウスを公には孫だと認めていなかったから、縁戚関係にあった伯爵家の養子となり、そこから騎士見習いに出ることになった。養子といっても名目上のこと、後継者争いに巻き込まれるような心配もない。当時のコルウスは知らなかったが、父と同じ近衛騎士になるには、原則として家格に爵位が必要であり、祖父はそれを強く望んでいたという。


 厩舎の掃除から始まった見習いの生活を、コルウスは人一倍の努力をもって乗り切っていった。そう間をおかずに頭角を現すにつれ、父が口にしたという箴言の重みが身にしみた。心を静めてよく観よと――しかし、頭の中で自分にそう語りかけるのは、顔も知らない実の父ではなく、そのことばを伝えてくれたあの方だった。

 養育院で息をひそめるように過ごしたコルウスの憧れの騎士様。その人を思い出すとき、胸の小さな痛みとともに、無垢な顔をした少女を思い出さずにいられなかった。

 少女にぶつけてしまった憎悪の幼さに気付いたのはいつごろだったか。

 誰かに対してあのときほど強い感情を抱いたことはなかった。その強い憎悪の感情は薄紙をはぐように消えていったが、少女の面影は胸に住みついたままだった。



 やがて騎士として叙任される日がやってくる。才能にも恵まれ、努力も惜しまず、一つの目標を達成した。

 しかし彼は、すぐに気付くことになった。騎士になるという目標を実現させても、養育院で誰かが自分の名前を呼んでくれるのを、誰かが自分を慈しんでくれるのを、待つばかりだったあの頃と何も変わっていないことに。

 騎士として仲間もでき、まわりからどれだけ賞賛を浴びても、うつろにあいた穴は塞がらないままだった。

 そんな自分の甘さを恥じて鍛錬や職務に打ち込めば、さらに賞賛を浴びることになり、それがひどく分不相応に、場違いに、思えるのだった。





 「わたしを恨んでいるんですか」

 刺すような、それでいて奇妙に揺れる口調で彼女がそう言ったとき、コルウスが何を思ったか、彼女は知らないだろう。

 コルウス自身も、水に沈んだ石英をよりわけるときのように、自分の感情を検分してようやく思い至る。

 自分が喜んでいると。

 彼女も自分の存在を確かに抱かえていたとわかったから。



 とっさに掴んだ細い腕の感触、白い手の甲から流れ出た赤い血の色、血の匂い。


 十年の月日がたって、小さな女の子は、別の生き物のような顔をして彼の目の前に現れた。そして再び、ぬけぬけと彼の胸に住みついた。


 遅まきながら、その頃になってコルウスは、自分の前に開かれた世界は存外に鮮やかなのかもしれないと気付き始めた。




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