日常と少しの非日常(5)
「ティリア君、大丈夫か?!」
「は、はい。なんとか・・・」
実際、男の力はそれほど強いものではなかった。それよりも、王城からそう遠くない場所で襲われたという事実の方が、じわじわとティリアの心に押し寄せる。
やっぱり王都って怖いところかもしれない、と改めてティリアは思う。
「助けにならなくて、申し訳ない」
「いいえ、わたしの方こそボケッとしていて、すいませんでした」
「いや、そもそもね、物盗り自体はそう珍しくもないんだが。女性の一人歩きでもないのに狙われてしまったのは、私のこの脚をなめられたんだろうね」
室長が右足を指して自嘲気味に言う。しかしティリアは、室長のあの必死の形相を見たから頑張れたのだと思う。
「でも、助けてくれようとしましたよ。心強かったです」
「しかしね・・・。そういえば、君は何か武術の心得でもあるのかい? ずいぶん見事にかわしていたように見えたが」
そう聞かれて、ティリアは答えにつまる。あまり人聞きのよい話ではないのだった。
「実は、故郷で修道院に通うことになったときに、父に護身術をたたきこまれて」
故郷の領主様直属の騎士団に所属するティリアの父は、反射で一通りの動作が出るようになるまで通わせない、とまで言っていた。筆写の勉強のために通った修道院までは、薄暗い刻限にそこそこの距離を一人で歩く必要があったのだ。
先ほどの男には、いわば定石どおりの襲われ方をしたようなものだった。比較的冷静でいられたのは訓練のおかげだろう。
「でも、わたしはそっち方面の才能はないらしいです。中途半端は一番危ないからと、最低限のことだけ教えられました。あとはとにかく危険に近づくな、でした」
幸いなことに、実際に護身術を使う羽目になったことは、これまでは一度もなかった。しかし、女とはいえ、武術方面の才能がかけらも受け継がれず、父は内心がっかりしていたのだろうと思っている。
「いや、あれだけできれば十分だ。ところで、男の顔は見たのかい?」
「そうか。なんとかして確認すればよかった。フードに隠れていたし、まったく見えませんでした」
「おいおい、危険に近づくなと言われたんだろう。あの状況じゃ、確認できなくてもしようがないだろう」
再び室長が目じりに笑いじわをつくった。
少しだけ重苦しい空気が取り払われ、ティリアたちはまた歩き出した。
城壁が見える位置まで戻って来ると、ティリアはやはりほっとした。夕方の光を浴びた城壁が、とても懐かしいもののように見える。
なにげなく別塔のてっぺんのあたりを見上げたとき――いきなり右腕を強く引かれた。
「!」
声にならない悲鳴をあげて、腕を引き抜きにかかる。今度はそれができない。
自分の腕をつかんでいる男の顔を見ると、ティリアは思わず叫んだ。
「わたしを恨んでいるんですか!?」
腕がぱっと離された。
続いて、慌てた様子の室長が割って入った。
「ティリア君、こちらは近衛の方のようだが・・・」
ティリアと男が同時にうなづく。
そこに至って、ティリアはようやく自分の失敗を悟った。
ティリアの腕をつかんだ男、つまり現在、眉間に縦じわをよせてティリアを見下ろしている男は、コルウスという名前の近衛騎士だった。
「それは血のように見えますが」
言われて、ついさっき引かれた方の手を見てみると、確かに紅い筋が見えた。
襲われたときに、塀か何かで擦ったのかもしれない。手の甲に傷ができていて、中指の先まで血が伝わっていた。
それまでまったく痛みを感じなかったのに、現金なもので、とたんに痛いような気がしてくる。それでも、見た目ほどにはたいした怪我ではないだろう。もしも刃物で襲われていたら、こんなものでは済まなかったはずだ。もしも・・・
「あ」
先ほどの出来事にそろりと心をふさがれそうになっていたティリアは、再び手を取られて小さく声をあげた。
血に汚れたティリアの手を、コルウスがその掌にのせるようにして持ち上げる。
だらりと力の抜けた手はやすやすと運ばれて、傷の具合を見極める視線にさらされている。
静かなのに有無を云わせない動作のせいなのか、手首の内側を支える掌の固さのせいなのか――ティリアはどうしてか、心持ちがしんとなっていた。
道具の仕入れの帰りに物盗りにあったこと、物盗りの顔や特徴については、フード付きの黒っぽい服を着た男ということぐらいしか分からないこと――室長がこれまでのいきさつをコルウスに告げている。
護身術でかわしたことまで話し始めて、目顔でやめてくれと合図したが通じない。その間にコルウスの端正な顔はいっそう険しさを増していく。
「そういう状況だったもので、ティリア君も普通の精神状態ではなかったから、先ほどは何か勘違いしたのでしょう」
そんな室長のことばが耳に入って、片手を預けたままのティリアも慌てて謝る。
「そのとおりです。訳の分からないことを言ってしまって、申し訳ありません」
なんとか納得してくれたようで、施療室へ行くようにということばとともに、傷ついた手もようやく解放された。が、城門に向かうティリアと室長の後を、護衛あるいは監視のつもりなのか、彼がついて歩いてくる。
途中でふと背後の威圧感のようなものが薄れて、恐る恐る振り返ってみる。と、コルウスが数人の華やかな感じの娘たちに囲まれて、困惑顔で立ち往生していた。
これ幸いと、ティリアは足を速めた。
王宮の書庫で用事を済ませるという室長と別れてから、ティリアはとりあえず、手を伝った血を洗い流した。思ったとおり、もう出血は止まっていて、傷も浅いようだった。作業にも支障はないだろう。施療室に行けと言われたのは確か二回目だと思い出しながら、結局今回も施療室の世話になることはなく、作業室に戻った。
遅い遅いとぶうたれた顔で文句を言うモンモパンにブラシを渡すと、まあ、とか、ふむ、とか言いながらティリアに掃除を言いつける。
しばらくすると、再びモンモパンがやってきて、ティリアに先ほどのブラシをつきだした。
怪訝に思いながらも受け取ってみると、柄のところに優美な飾り文字でティリアの名前が刻みつけられている。
「見習いが入ってひと月ほど経つと、自分専用のブラシを持つことになってるんだよ。やさしい先輩が名前を入れてね」
室長が言っていたのはこのことか・・・モンモパンの桃色に上気した顔を見ながら、先ほどまでの緊張感も相まって、不覚にも胸がいっぱいになってしまう。そのふっくらした体に抱きつきたいような思いをおさえて、礼を言った。
「ありがとうございます。これからまた頑張りますから」
「ふ、ふん。僕なんか、ひと月たつ頃には、もう筆写作業も手伝っていたけどねっ」
そんな嫌味も耳に入らず、これで今日は一勝一敗な感じになったかな、などと一日を総括するティリアだった。