日常と少しの非日常(4)
さすが、王都。
立ち止まって店の奥の光景を眺めるティリアのすぐ横を、馬車が勢いよく走りぬけていった。車輪がはねた小石がいくつか、感心しきりのティリアの足元に降ってくる。
店の中では、職人が柄の長いシャベルで窯からパンを取り出すところで、ティリアの目は湯気をあげるパンの見慣れない形に釘付けになった。香ばしい匂いが通りにまで漂っていた。
王都に来る前にティリアが住んでいた家は、地方の城下町にあった。そこが田舎だという意識はなかったが、こうして王都の街を歩いてみると、やはり規模の違いは明らかだった。
今歩いているあたりは、パンや菓子をはじめとする食料品を扱う店が軒を連ね、見たことのない食べ物が店先に多数ならんでいた。この少し前には、細工物ばかりを扱う店がならぶ通りがあった。そこでも見事な細工に感心しながら、ついつい見物に時間を費やしてしまった。
急がないとまたモンモパンに嫌味を言われる、と思い出してティリアは足を速めた。
あの王女様慈悲事件からしばらく、ティリアは女官に呼ばれて二回ほど王女の下に出頭していた。及び腰のティリアがさせられたのは、書物の読み合わせのお相手にすぎなかった。
場所は王宮内の、いくつかある王女の私室の一つ。煌びやかさとは無縁の部屋ではあったが、軽やかな色合いの調度品や、材質こそ高価でなくとも、思わず手にとってみたくなる凝った細工の置物などが配されていて、不思議な居心地のよさがある場所だった。
他に侍女をかしずかせることもなく、年若い王女と、例の年配の女官と、ティリアの三人だけのその部屋では、王女自身もくつろいでいるように見えた。
本来はティリアのような身分の者がすることではない、という一点を除けば、まともすぎて肩すかしをくらった気分だった。それに、たった二回の機会は王女の利発さを感じとるのに十分すぎるほどで、二つ年下だという美しい王女に畏敬の念を感じずにいられなかった。
その間、東屋近くでの邂逅については、まったく触れられることがなかった。だから、いつか爆弾が落とされるに違いないと、戦々恐々の構えは続行中なのだった。
一方で、作業室でのモンモパンによるティリアの粗忽者扱いは、完全に定着してしまっていた。いまだ準備作業と雑用の日々だったが、モンモパンから作業に関して注意を受けると、基本的にはティリアも納得し、その指摘をありがたいと思うことがほとんどだった。
そして現在、ティリアはモンモパンに初めてのお使いに出されていた。ティリアのブラシの手入れが悪いせいで一本ダメになったから、すぐに買いに行って来いというのである。
お使い自体は嫌ではなかったのだが、手入れにはかなりの注意を払っていたので、どこが悪いのかまったく思い当るふしがない。しかし、モンモパンには分かって自分では感知できない何かがあるのだろうと自分を納得させ、やや方向音痴の気があるティリアは店の場所を必死で頭にたたきこみ、王都の街に出てきたのだった。
食料品の店がならぶ通りを過ぎて少しすると、一転して人気のない、入り組んだ路地があらわれた。目指す場所はもうそう遠くないはずだ。
しかし。
やはりというか何というか、ティリアは自分が道に迷ったのを認めざるをえなかった。まあ、大きく外れた場所にいるわけではないはずだ、と辺りをうろうろし始めたときに、前方に見覚えのある背中を発見した。
「室長!」
ティリアが呼びかけて駆け寄ると、室長が驚いたような顔をして振り返った。
「ティリア君じゃないか。こんなところで・・・ああ、そうか。タルパ君に、ブラシを買いに出されたんだろう」
目じりに笑いじわを刻む室長の顔を見ながら、モンモパンの名前ってタルパだったかと思い出す。
「ええ、そうですけど。どうして分かったんですか?」
「まあ、そのうちタルパ君が教えてくれるさ」
羊皮紙の表面を整えるといった筆写の準備作業では、軽石やブラシ、定木などの様々な道具を使う。室長の話では、普段は業者が品物を城まで納入に来るため、特別な場合以外は買い出しの必要はないという。
もちろん例外はあって、たとえば見習いの筆写官が初めてペンを持つことが決まると、街の工房にあつらえに出向くのだとか。それを聞いたティリアは、早く自分もそうなりたいものだと小さくため息をついた。ちなみに故郷では、ペンは買うものではなく、作るものだった。
結局、ティリアが目指す店に室長も用事があるとかで、迷子から脱出できたティリアはほくほくとついて行った。
室長が店の人と話をしている間に、どうにか納得のいくブラシを選ぶことができた。そのまま室長と城まで戻ることになり、迷子の心配から解放されたティリアはひそかに喜んだ。
帰る道すがら、生い立ちや作業室に来るまでの経緯などを尋ねられ、モンモパンに話したときよりは大分丁寧に説明しながら歩く。そうこうするうち、往路に時間をかけすぎたせいか、だいぶ陽が傾いてきていた。
狭い通りには他に人影もなく、来る時には気づかなかった寂れた気配が漂っていた。にぎやかな大通りまではもうすぐのはずだが、日が暮れてから一人で歩くのは遠慮したい場所のようだった。
後ろからタタッと走ってくるような足音が近づいてきて、一瞬、道をゆずろうかと逡巡した。
「えっ!」「おいっ!」
直後、ティリアと室長の叫び声が重なり、顔をよじったティリアの額を荒い息がかすめる。
――見知らぬ男がティリアを背後から押さえ込んでいた。
必死の形相で男の腕に手を伸ばす室長の姿が目に入る。
「おとなしく・・・」
男が言い終わらぬうち、ティリアは腰を落として片足を男の後方に引いた。同時に身をかがめると、男の腕から斜め後ろに頭を引き抜く。そのままの勢いで飛び退き、男から距離をとった。
「なっ・・・」
男は一瞬立ちすくんでから、室長を押しのけ、入り組んだ路地の方へ走り去った。