出会い(1)
コツ、コツ、コツ・・・と、規則正しい靴音がかすかに響く。
この靴音にいつも最初に気付くのは、その少年だった。しかし彼は、今にも出迎えに飛び出したい気持ちを抑えて、その人の姿に気付いた他の子どもたちが走り出すのを横目で眺める。
大半の子どもたちが駆けつけてその騎士様を取り囲んだころ、にぎやかな人の輪に後ろからおずおずと近付く。
そして憧れをのせた黒い瞳で、その姿を熱心に眺めるのだ。
*****
少年はシューと呼ばれていた。この養育院にあずけられたとき、一番最初に発したことばに満たない音が「シュー」だったからだという。
しかし、実際にシューという音のつらなりが聞かれる機会はほとんどなかった。院長先生にも他の職員にも、自分の姿は目に見えていないのではないかと少年が思うほど、その名前のようなものが呼ばれることはなかったからだ。そこにいるのにいないのと同じように扱われる、それが養育院での少年の日常だった。
大人たちのそういった態度はごく自然に、子どもたちにも波及していた。黒い瞳という少年の珍しい特徴は、からかわれるのに十分な特質である。しかし、ほとんどの場合、子どもたちはからかうよりも、少年をとるに足らない存在として扱う方を選んだ。少年のパンが消えたり、割らなければならない薪の量が倍に増えたりといったことはよくあったが、彼はそんな状況をただ黙って受け入れていた。
そんなわけで、少年はぽつんと一人でいることが多かった。一人でいても、大きな声で自慢話をする他の子どもの声は自然と耳に入ってくる。
養育院での一番の自慢話といえば、面会に関わる話と決まっている。自分を名指しで面会にくる人がいるということ・・・それ以上に羨まれる話はなかった。
面会の機会があったということは、その子どもを養育院の外の世界に連れ出そうと考えている見知らぬ誰かがいるか、それでなければ身内が存在するということだ。
誰かにもらわれて養育院を出ていったとしても、その先にあるのが天国とはかぎらない・・・それは子どもたちのうちでも暗黙の了解だった。それでも面会を申し込まれることは喜び以外の何物でもなかったし、ましてや身内が面会に来るなどということは、大半の子どもにとって夢のような出来事だった。
ただの一度も、少年は面会というものを経験したことはなかった。漏れ聞こえてくる自慢話によれば、「母さん」というものは、自分の家族だけのためにおいしいスープを作ってくれたり、子どもを抱きしめてくれたりするらしい。「父さん」というものは、酒を飲むと子どもを殴るが、普段はたのもしく、肩車をしてくれたり、石投げを教えてくれたりするらしい。
自分に「母さん」や「父さん」がいるということ、その人たちにとって自分が確実に目に見える存在であること。それってどういう気分がするんだろう、と少年は想像してみる。
しかしその想像はいつも、甘く幸せな像を結びそうになる直前で、かき消えてしまうのだった。
「シュー」
誰かの声がそう言ったとき、少年はすぐには自分が呼ばれたのだと気付かなかった。あまりに久しぶりだったから。
その声には叱責の口調が感じられたが、自分が呼ばれたということが嬉しくて、彼はあやうく微笑んでしまうところだった。しかし、どうやら自分を呼んだのは院長先生で、呼ばれたのは今まさにスープをこぼしたためらしかった。
スープは隣りに座っていた子どもの肘があたってこぼれたもので、少年が悪いわけではない。しかし、もちろんそんなことを説明するつもりはなかった。
普段目立たない少年が叱責されそうだという期待が、他の子どもたちの顔を輝かせている。
「そのスープは、特別に寄付された材料を使って作られたものです。ですからあなたは、罰を受けなければなりません。もちろん、それほど厳しい罰ではありませんが。とにかく、食事が済んだら院長室に来るように」
自分におばあさんというものがいたら、あんな感じだろうか。少年がそういう印象を抱いていた院長先生は静かにそう言うと、何事もなかったかのように、背を向けて立ち去った。
少なくとも少年の記憶にある限りでは、院長室に入るのはそれが初めてだった。
少年が院長室に入って緊張した面持ちで扉をしめると、窓のそばに立って外を眺めていた院長先生がゆっくりと振り向いた。しかし少年の顔を見ることはせず、少年が背にしている扉に向かって話しかけるように口を開いた。
「罰として、あなたには重い荷物を運ぶ手伝いをしてもらいます。実際には、ある方の指示に従って作業することになります。ただし他の子どもたちには、罰として手伝いをするということ以外、何も言ってはなりません。わかりましたか」
「はい」
「その作業は、あさっての朝食後になる予定です。私がその方の元へあなたを連れていきますから、身支度は特に清潔に整えておくように」
そう言ってから一瞬だけ少年の様子を目にとめた院長先生は、少しだけ口元をゆるめて付け足した。
「難しい仕事でも危険な仕事でもないはずですから、心配する必要はありません。でも、もしも何かを期待しているとしたら・・・これはただの罰だということを忘れてはなりません」
院長室を出た少年の胸のうちは、今までにないほど波立っていた。
特別な材料だとかなんとか院長先生は言っていたが、スープをこぼすなんて珍しくもないことだ。それに対する罰の中身がこんなことっていうのは、妙な話じゃないだろうか。もしかして、これは面会のようなものでなないのか・・・そんな淡い期待が少年の心に浮かんだ途端の、まるでそれを見透かしたかのような院長先生のことばだった。
いずれにしろ、自分だけが特別な仕事をさせられるというのは、少年にとって初めてのこと。作業当日までの二晩を少年がよく眠れないままに過ごしたのも、無理のない話だった。
作業当日の朝、緊張のあまり少年は、満足に朝食をとることもできなかった。前日の夜に何度も形を整え直してから寝押ししておいたシャツとズボンを身につけ、アッシュグレイの髪の毛もブラシで梳かしつけた。
いよいよ院長先生について養育院を出発する。院長先生は歩いている間、ずっと無言だった。しばらく歩いて人気のない道に入ったとき、少年の目は、道の向こうの木の下にたたずむ人影をとらえた。
その人影がまだ小さいうちから、少年は気付いていた。あの騎士様だ、と。
この一年ほど、ときどき養育院を訪れては、外の風を運んできてくれる人。ときには子ども二人を肩にのせ、あるいは泣いてる子どもをなぐさめ、穏やかな声で物語を聞かせてくれる、皆の憧れの金の髪の騎士様。
生来のものか、環境がそうさせたのか、少年の眼は、人がつい見落としてしまうようなことまで拾ってしまう。だから、立派な騎士服が見かけ倒しでないことも、ふと見え隠れする鋭い視線や身のこなしから、子ども心になんとなく分かっていた。
その騎士様が道の先に立ってこちらを見ていた。自分が手伝う予定の「ある方」っていうのはもしかして・・・神様どうか、お願いです! 少年は心の中で祈った。
院長先生と騎士様が無言で礼をし合ってから、院長先生が少年の肩を騎士様の方に押し出した。少年は自分の願いがかなえられたことを知った。