第99話 止血はできた、治療はまだ
外からの問い合わせをひとまずいなした翌朝、レインが最初にやったのは、絞っていた上層機能を一つずつ戻すことだった。
深層に緩衝を一枚挟んでから、第1層の警報は鳴り止んでいた。脈動の山が来ても、上へ届く前に角が丸められている。セレスの波形を見るかぎり、それは一晩の偶然ではなく、続いていた。
「順に戻す。いっぺんにじゃない」
レインは中枢核の盤の前で、指を止めた。
「第1層の自動誘導から。一区画ずつ点けて、半日様子を見て、異常が出なければ次へ」
異常の最中、レインは上層の便利な機能を片っ端から絞っていた。誘導灯、警報の感度、採集区画の自動仕分け。動かしておくと、深層の乱れがそこに乗って増幅したからだ。今は乗る波が小さい。だから、一つずつ点け直せる。
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最初に戻したのは、第1層の入口誘導だった。
リナが、点き直した光石の列を見上げて、息を吐いた。
「これ、ずっと消えてたやつですよね。採集の人、入口で迷っちゃって。札の確認列がぐちゃぐちゃで」
「戻った。しばらくは、いつもより気にして見ててくれ。点き方がおかしかったら、すぐ受付に言って」
リナはうなずいて、新しく入ってきた採集者の列のほうへ戻っていった。以前は「採れるか」だけを気にしていた彼女が、今は「ちゃんと点いてるか」を見るようになっている。レインには、その変化のほうが、光石が戻ったことよりも、たしかな手応えに思えた。
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半日ごとに一区画。三日かけて、上層の機能はおおむね元の形に戻った。
受付の卓で、ベルダが台帳を広げて、満足げではない顔をした。
「入場も採集も、前の数字に戻った。苦情も減った。客から見りゃ、もう元通りだ」
「客から見りゃ、な」
レインがそう返すと、ベルダは顔を上げた。
「あんたの顔は、元通りって顔じゃないね」
「戻ったのは、上だけだ。下は、止まってない」
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セレスが、中枢核の壁に並んだ表示の一つを指した。深層の状態を示す欄だ。少し前まで、そこは赤かった。
『現在、黄です。赤から一段、下がりました。ですが、緑ではありません。脈動は続いています。緩衝が、上へ伝わる分を抑えているだけです』
「消えたわけじゃない」
『はい。止めたのではなく、間に一枚、布を挟んだ状態です。布を外せば、また赤に戻ります』
レインは、その黄色を、しばらく見ていた。赤を黄にしたのは、たしかに成果だった。だが、黄は黄のまま、これから先もそこにあり続ける。消える見込みのない色だった。
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「止血は、できた。治療は、まだだ」
レインの言葉に、ノアが応じた。
『その区別は、台帳に反映すべきです。今回の処置は、出血を止めるための圧迫です。傷そのものは塞がっていない。圧迫を緩めれば、また出ます。これは一度きりの作業ではなく、押さえ続ける作業です』
「だから、毎日見にいく。深層の脈動を、決まった時刻に数えて、緩衝が効いてるか確かめる。エルメアの曝露時間を守って、ガルムの退避線を使って。一日でも抜けたら、布が薄くなったのに気づけない」
ベルダが、台帳の新しい行に目を落とした。そこには、入場でも採集でも補修でもない、見慣れない項目が一つ増えていた。
「『深層監視』。毎日。終わりの日付は、なし、か」
「なしだ」
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その監視を回すために、レインたちが手に入れたものもあった。深層の入口まで観測網を延ばし、緩衝の波形をセレスが読めるようになった過程で、AI精霊たちの機能の一部が、これまで届かなかった領域に届くようになっていた。
『上級の解析機能が、一部、使えるようになっています』
セレスの報告に、レインは盤を見上げた。
『以前は踏査済みの範囲しか分析できませんでした。今は、緩衝を挟んだ深層第一区画までは、限定的に読めます』
「便利になったな。で、ノア。その分の請求書は」
『中枢魔力の恒常的な持ち出しです』
ノアの返答は、速かった。
『緩衝を一枚維持し、観測網を深層まで延ばし、上級解析を動かす。そのいずれもが、中枢核の魔力を毎日いくらか食います。一度きりの出費ではなく、固定費です』
「やっぱりな」
機能が一段、解放された。だが、それは何でも分かる万能の道具を手に入れたという話ではなかった。読めるようになったのは深層第一区画までで、その奥は相変わらず霧の向こうだ。しかも、読み続けるには、毎日魔力を払い続けなければならない。手に入れたのは力ではなく、力を借りるための、終わらない支払いだった。
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固定費は、魔力だけではなかった。毎日、決まった時刻に深層まで下りて脈動を数える者が要る。それも、誰でもいいわけではない。曝露の限度を守り、退避線の使い方を知り、波形のわずかな変化に気づける者だ。
「人を、回せるか」
レインが聞くと、ベルダは渋い顔をした。
「ぎりぎりだ。採集が前の数字に戻った分、受付も荷捌きも手が足りてない。そこへ毎日、下へ一人持っていかれる。誰かが一人、別の仕事を諦めることになる」
「分かってる。だから、誰か一人に背負わせない。当番にする。下りる日を回して、一人に毎日はやらせない。記録の付け方も、誰がやっても同じになるように決める。勘の鋭いやつ一人に頼ったら、そいつが倒れた日に砦ごと止まる」
便利になった機能の裏で、灰霧前砦は、人を一人分、恒久的に地下へ割く拠点になった。それは数字には表れにくい、だが確かな負担だった。深層を読めるようになった見返りは、毎日の魔力と、毎日の一人だった。
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その晩、ドルクが地下の見回りから戻ってきて、湯気の立つ椀を抱えたまま、レインの隣に腰を下ろした。
「上が元通りになったって、みんな喜んでるな」
「上だけだ」
「分かってるよ」
ドルクは椀をすすった。
「下は、これからずっと相手しなきゃならん。水番と同じだ。川は止まらん。止めようとすりゃ、別のところが溢れる。だから毎日、ちょっとずつ逃がしてやる。終わりはねえ。終わりがねえのが、当たり前なんだ」
レインは、その言葉を、台帳の「終わりの日付なし」の行に重ねた。地下と付き合うというのは、たぶん、こういうことだった。直して終わりにできない相手を、毎日、少しずつ世話する。
ガルムは、深層の手前に引いた退避線を、仮設から恒久のものに張り替えていた。
「その都度引き直すんじゃ、手間でかなわん。毎日入るなら、毎日使える線にしておく」
エルメアは、深層に入る者の魔力曝露の時間を、決まった鈴の数で区切る運用を、正式な手順に組み込んだ。怪我や病を見るのと同じ帳面に、「曝露管理」という新しい列が加わった。守るものが、また一つ増えていた。
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戻った日常の裏で、灰霧前砦は、一つ重いものを抱え込んでいた。
上層は元通りに動いている。客はそう見ているし、それは嘘ではない。だが管理する側の帳面には、消えない黄色と、終わりの日付のない監視と、毎日出ていく魔力の固定費が、静かに書き加えられていた。
「閉じ直せたら、楽だったんだけどな」
『深層の機構は、もう閉じられません』
セレスの声は、いつもどおり淡々としていた。
『劣化が進みすぎています。閉じようとすれば、緩衝ごと崩れます』
「だろうな。開けたものは、閉じない。なら、抱えたまま回すしかない」
止血はできた。だが治療は、いつできるのか、そもそもできるのかも、まだ分からなかった。分かっているのは、これから灰霧前砦が、古いものを一つ抱えたまま、毎日を回していくということだけだった。
その重さに、まだ誰も慣れていない。慣れるより先に、抱えたものの大きさを、外がもう一度、別の形で測りにくるかもしれなかった。




