第56話 セドリックは水から泥へ手を伸ばす
灰霧前砦の正門前に、見覚えのある、しかし以前よりも遥かに豪奢な装飾が施された数台の馬車が停まった。
馬車の側面には、王都でも指折りの規模を誇る『ヴェイン水運商会』の紋章が刻まれている。
かつて、この拠点が深刻な水不足に喘いでいた際、足元を見るような高値で水を売りつけようとし、レイン・ヴァルトの策によって撤退を余儀なくされた男――セドリック・ヴェイン。
彼が再びこの地に現れたという報せは、瞬く間に砦内を駆け巡った。
「……またあのハイエナが来たのかい。今度は何を企んでいるんだか」
一階の受付で、運用管理長のベルダが忌々しそうに外を睨んだ。
だが、馬車から降りてきたセドリックは、以前のような傲慢な笑みではなく、洗練された「一流のビジネスマン」としての柔和な微笑を浮かべていた。
その後ろに続く荷馬車には、かつての水樽ではなく、厳重に梱包された巨大な魔導装置や、整然とした身なりの専門家たちが控えている。
「やあ、レイン殿。以前は少々無作法な真似をしたが、君の経営手腕には心から敬意を表しているよ。今日は『協力者』として、素晴らしい提案を持ってきた」
応接室に現れたセドリックは、優雅な所作でレインの前に数枚の羊皮紙――緻密に練られた契約書を広げた。
◆
「提案、ですか」
レインは銀縁眼鏡を押し上げ、表情を変えずにその契約書に目を通した。
隣に座る商工会のバロスは、セドリックを食い殺さんばかりに睨みつけているが、セドリックは意に介さず、朗々とプレゼンテーションを始めた。
「今のこの拠点は、第2層の資源によって驚異的な成長を遂げている。だが、君たちの『加工能力』は限界に来ているはずだ。……そこで提案だ。我が商会が持つ『最新型の大型魔導乾燥炉』を三基、無償で提供しよう。これがあれば、鉱泥の精製効率は五倍に跳ね上がる」
バロスが鼻を鳴らすが、セドリックはさらに言葉を重ねる。
「それだけではない。我が商会が王都に持つ広大な販路を優先的に開放する。さらに、君たちが頭を悩ませているであろう結晶の鑑定、その専門家を三名派遣しよう。輸送中の品質劣化や盗難に対する『魔導保険』も、我が商会が引き受け、一定期間の買取価格も市場価格の一・五倍で保証する……どうかな? 君たちにとって、デメリットはないはずだ」
その提案は、驚くほど「有用」だった。
レインが昨日まで頭を抱えていた「加工工程のスケールアップ」と「信頼できる鑑定士の不足」という課題を、外部資本の力で一気に解決する内容である。
だが、レインは契約書の最下部、小さな文字で書かれた『特約事項』を見逃さなかった。
「……見返りとして要求されているのは、鉱泥および結晶の『優先買付権』。そして、提供される加工設備の『運用・管理権』の委託、ですか」
「ああ。効率を最大化するには、我が商会の熟練した技術者が現場を仕切るのが一番だからね」
セドリックは、獲物を追い詰めた確信を持って微笑んだ。
◆
『管理者様。……短期的な収支シミュレーションを実行しました』
レインの思考の海に、青い光の玉、分析精霊セレスの声が響く。
『セドリック氏の提案を受け入れた場合、向こう三ヶ月の拠点収益は三五〇パーセント増加。加工工程のボトルネックは解消され、キャッシュフローは劇的に改善します。……経済的合理性は極めて高いと判断します』
『ヒヒッ! ええじゃねえか、その乾燥炉!』
黄色い光のルカが、興味津々で窓の外の装置を覗き込む。
『設計図を見たけど、王都の最新式だ。これがあれば、俺が手動で調整してた乾燥工程を全部自動化できるぜ! 設備だけ借りて、運用権を渡さないような「契約の裏口」を作れねえかな?』
『……不合格です。ルカの考えは甘すぎます』
緑の光の玉、監査精霊ノアが冷徹に警告を発した。
『加工設備の管理権を譲渡するということは、拠点の心臓部を外部に晒す行為に等しい。一度主導権を握られれば、彼らはいつでも「設備の故障」を理由に拠点の物流を人質に取ることが可能です。……長期的リスクは想定不能です』
『それに、あの乾燥炉の見た目! あんな無骨な鉄の塊を、私が整えた第2層の入り口に置くなんて耐えられないわ!』
赤い光のミストが、自分勝手な理由で憤慨する。
『外部の規格に合わせた炉なんて、この灰霧の湿気や魔力濃度に合わないわよ! 絶対に不具合が起きて、景観が汚れるわ!』
四者四様の意見。
だが、レインの出した結論は、そのどれとも少しずつ重なり、かつ決定的に異なるものだった。
◆
レインはゆっくりと契約書を閉じ、セドリックの目を見据えた。
「……素晴らしい提案です。特に王都への販路確保と、鑑定士の派遣については、喉から手が出るほど欲しいリソースだ」
「ならば、今すぐ署名を――」
「ですが」
レインの声が、冷たく、そして重く室内に響いた。
「独占的な買付権、および拠点の加工設備の管理権。……これについては、いかなる条件を積まれても、受け入れることはできません」
セドリックの笑みが、わずかに引きつった。
「……何故かな? 管理の手間を肩代わりしてやると言っているんだ。君は管理業務に忙殺されているだろう? 専門家に任せるのが合理性というものじゃないか」
「『合理的』と『他律的』は違います」
レインは眼鏡を外し、布で丁寧に拭いながら続けた。
「資源の流通は、外部と組むべき領域です。ですが、その資源に付加価値をつける『工場』の鍵を他人に渡すのは、ただの自殺行為だ」
レインは再び眼鏡をかけ、鋭い視線をセドリックへ向けた。
「あなたが乾燥炉を止めるだけで、この拠点の黒字は一瞬で赤字に転じ、冒険者たちは路頭に迷う。……資源流通は協力できます。ですが、この拠点の首にかかる『縄』を、他人の手に渡すつもりはありません」
「……フン。相変わらず可愛げのない男だ」
セドリックは表情を消し、冷淡なビジネスマンの顔に戻った。
「だが、この好条件を蹴れば、王都の他商会が黙っていないぞ? 君たちはいつまでも辺境の小さな砦のままだ」
「いいえ。条件を『再定義』しましょう」
レインは端末を操作し、その場で契約書の修正案を出力した。
「乾燥炉はレンタルではなく、我々が『購入』します。代金は分割で、今後の利益から支払う。鑑定士の派遣も、雇用形態を『出向(技術指導)』に変更し、最終的な判定責任は当拠点のエルメアに置く。……そして王都への販路については、独占ではなく『優先交渉権』に留める。……これが、私の提示する最終的なデッドラインです」
セドリックは修正案を手に取り、数分間、無言でそれを精査した。
やがて、彼は小さく肩をすくめ、愉快そうに笑い出した。
「……ハハハ! 参ったな。こちらのマージンを最小限まで削りつつ、インフラの独立性だけは死守する。……君は、本当の意味で商売人を信用していないのだな」
「信用ではなく、システムを信じているだけです。……利益さえあれば、あなたは首を縦に振る。そうでしょう?」
「……ああ。修正後の契約でも、我が商会には十分な『将来の利』がある。……よかろう。今の条件で、正式に契約を結ぼうじゃないか」
セドリックが差し出した右手を、レインは静かに握り返した。
水利権の時のように力で追い返すのではなく、外部の力を利用しつつ、その「牙」だけを抜く。
それは、管理者が一歩上のステージに上がったことを意味していた。
◆
セドリックが馬車へと戻っていく姿を、バルコニーから眺めていたベルダが、感心したように溜息を吐いた。
「……驚いたよ、レイン。水利権の時のあんたなら、あんなハイエナ、玄関先で追い返してたと思ってたけどね」
「今の拠点は、もう一人で抱え込める規模ではありませんから。……適切なアウトソーシング(外部委託)は、システムの拡張に必須です。ただし、制御権(ルート権限)さえ渡さなければいい」
隣で苦虫を噛み潰したような顔をしていたバロスも、ようやく表情を和らげた。
「……癪だが、セドリックの持ってきた鑑定士と乾燥炉は本物だ。これで、鉱泥の外販価格はさらに安定する。……商売としては、あんたの勝ちだ、レイン」
拠点は、外部の資本と技術を取り込み、さらなる加速を始めた。
だが、豊かさと評判が広がるということは、別の「バグ」を引き寄せることでもあった。
『……管理者様。拠点内の「採集ログ」に、不審な不整合を検知しました』
監査精霊ノアの声が、警告音と共に響く。
「……不審なログ?」
『はい。本日、第2層の【青線:水脈保護区】付近で、計測された資源量と、実際に受付に持ち込まれた量に、僅かな「乖離」が発生しています。……何者かが、ルールを破り、記録に残らない形で資源を持ち出そうとした形跡があります』
レインの瞳が、再び鋭く光った。
「……外からの侵略の前に、中からの『腐敗』が始まったか」
価値が上がれば、人はルールよりも欲を優先する。
最強の導線も、厳格な札制度も、それを破ろうとする意志の前ではただのペンキの跡に過ぎない。
次なる課題は、物理的な壁ではない。
人間の「欲望」という、最も予測困難な変数に対する、内側からの防犯の構築だった。




