第54話 受付がまた詰まる
灰霧前砦の広場は、今やかつての絶望的な静寂が嘘のような、別の意味での「戦場」と化していた。
迷宮管理者レイン・ヴァルトが主導した第2層《地下水脈層》の資源化。五色の導線と採集札制度によって安全が担保された結果、地上へと運び込まれる素材の量は、当初の予測を遥かに上回る爆発的なペースで増大していた。
水脈薬草、補修や錬金素材となる鉱泥、そして運良く発見された薄光結晶の欠片。
それらが高値で売れると知った冒険者たちは、目の色を変えて迷宮へ潜り、両手いっぱいの荷物を抱えて地上へと帰還してくる。
拠点に利益がもたらされる。それは本来、喜ばしいことのはずだった。
だが、その莫大な富の流入を「処理する側」の人間にとって、それは終わりのない地獄の始まりを意味していた。
「ちょっとあんた! その泥だらけの袋を、そのままカウンターに置かないでおくれよ! 染み出した泥水で、台帳が真っ黒になっちまうじゃないか!」
一階の受付カウンターの奥で、運用管理長のベルダが悲鳴に近い怒声を上げた。
彼女の目の前には、第2層から引き揚げられたばかりの『鉱泥』が詰まった重い麻袋が、所狭しと山積みにされている。袋の隙間から滴り落ちる黒い泥水が床を汚し、受付ロビー全体に地下特有の湿ったカビと土の匂いが立ち込めていた。
「おい、こっちは命がけで掘ってきたんだぞ! さっさと重さを量って、金を払ってくれよ!」
「ふざけんな、俺の方が先だ! この薬草、さっきより葉っぱが萎びてきてるぞ! 鮮度が落ちて買取価格が下がる前に、早く鑑定しろ!」
怒号と罵声が飛び交う。
素材を換金しようとする冒険者たちの列は、受付ロビーをとうに突き抜け、外の広場を横断し、冒険者宿舎の前にまで蛇のように長く伸びていた。
「黙っておしまい! 順番にやってるんだから、大人しく並んでな! ……ああっ、もう! この袋、虫が湧いてるじゃないか! あんた、土も払わずに適当に詰め込んだね!?」
ベルダが頭を抱えていると、今度は隣の鑑定スペースから、巡回治療師のエルメアの雷が落ちた。
「なんだい、この草の山は! お前さん、目が節穴なのかい!」
エルメアは、若手冒険者が持ち込んだ水脈薬草の山から、一本の草を乱暴に引き抜いて鼻先に突きつけた。
「よく見な! 葉の裏に黒い斑点があるだろうが! これは『偽光草』っていう猛毒の草だよ! こんなもんを一つでも正規の薬草に紛れ込ませたら、傷薬が全部毒薬に変わっちまうんだ! これだから初心者は嫌なんだよ、全量再検品だ! やり直し!」
「ええっ!? そんなの、あとどれだけ待てばいいんだよ!」
怒鳴られた若手冒険者が絶望的な声を上げる。彼が再検品に回されたことで、後ろに並んでいた列がさらに完全にストップしてしまった。
一方、カウンターの反対側では、商工会から派遣された鑑定士と冒険者が、顔を真っ赤にして胸倉を掴み合っていた。
「ふざけるな! これは結晶洞窟で拾った『薄光結晶』だぞ! なんでこんなゴミみたいな値段なんだ!」
「落ち着きなさい! これはただの石英に水脈の魔力が微量に移っただけの『ただの光る石』だ! 触媒としての価値は皆無! 嫌なら持ち帰れ!」
泥の処理、虫の駆除、毒草の検閲、そして真贋論争と価格交渉。
物理的な汚れと情報的な混乱が、一つの窓口に一気に押し寄せ、受付の処理能力を完全に崩壊させていた。
ベルダは、書き殴った跡で真っ黒になり、泥水でふやけた台帳の上に羽ペンを放り出し、天を仰いで叫んだ。
「レイン! いるんだろう、早く出てきな! あんたが迷宮の中を整えたせいで、今度は外が詰まってパンクしたじゃないか! こんなの、人間のやれる仕事じゃないよ!」
◆
「……状況は把握しています、ベルダ。同情しますよ。これはひどい有様ですね」
混乱の渦中、二階の階段から、管理端末を片手にした迷宮管理者レイン・ヴァルトが静かに姿を現した。
彼の周囲には、いつものように四体のAI精霊たちが忙しなく飛び回っている。
『管理者様、現状の処理待ち件数およびスループットを算出しました』
青い光の玉、分析精霊セレスが、空中に真っ赤な警告グラフを展開する。
『現在、一四二組の冒険者が滞留中。窓口での平均処理時間は一人当たり十二分。このままの流入速度と処理速度が維持された場合、最後尾の冒険者の処理が完了するのは明日の午前四時となります。……受付機能は完全にフリーズ(機能停止)しています』
『ヒヒッ! だったら全部機械に任せて自動化しちまおうぜ!』
黄色い光の玉、自動化精霊のルカが、カウンターの上を飛び跳ねて提案する。
『素材を放り込める巨大な箱を作ってよ、魔法でスキャンして重さと質から自動で値段を弾き出す「自動買取機」を設置しよう! そうすりゃベルダも寝てられるし、列なんて一瞬で消えるぜ!』
『即座に却下します。ルカの提案はセキュリティの観点から致命的です』
緑の光の玉、監査精霊のノアが、冷徹な声でルカを切り捨てた。
『先ほどのエルメア氏の指摘通り、未分類の素材には危険物、毒草、発火性の不明結晶、さらには魔力汚染された鉱泥が混入しています。これらを一律にブラックボックスで自動処理すれば、拠点の安全管理が根底から崩壊します。目視確認を省く自動化は不適切です』
『それなら、まずはこの汚い見た目をどうにかしなさいよ!』
赤い光の玉、設計精霊のミストが、泥だらけの床を見てヒステリックに明滅する。
『泥だらけの男たちと、繊細な薬草や綺麗な結晶を同じ場所に並べるなんて、空間設計のミスもいいところだわ! 臭いが移るし、美しくないわ!』
自動化、厳格な監査、空間の分離。
精霊たちの極端な意見を聞き終えたレインは、銀縁眼鏡を中指で押し上げ、手元の端末の画面を素早く操作した。
「……ミストの言う通りだ。現在の最大の問題は、『単一の窓口に、処理手順の全く異なる異質のデータが混在していること』です」
レインは端末から広場とロビーの図面を空中に投影し、それを四つのブロックに切り分けた。
「泥の重量を量る作業と、毒草を一束ずつ目視で検閲する作業。さらには結晶の価値を鑑定する作業。これらを一つの列で、ベルダという一つの処理装置(CPU)に丸投げしているから詰まるんです。……これより、窓口を機能別に分離し、並列処理へと移行します」
「分離? 窓口を増やすのかい?」
ベルダが疲れた顔で顔を上げる。「気持ちはありがたいけど、人を増やす余裕なんてこの砦にはないよ」
「人は増やしません。処理の『仕組み』を変えるんです」
レインは広場に集まった冒険者たちにも聞こえるよう、よく響く声で指示を飛ばした。
「これより、受付の窓口を以下の四つに分割します。
一つ、【薬草受付】。ここはエルメアさんに全権を任せます。査定よりも、毒草の検閲と弾き出しを最優先してください。
二つ、【鉱泥受付】。ガルムさん、悪いですが洗い場の横に、大工衆を使って特設の計量ブースを組んでください。泥水が落ちてもいい外で、重さを量るだけに特化させます。
三つ、【結晶受付】。バロス商会から鑑定士を常駐させ、専門の交渉窓口とします。
四つ、【不明物・危険物受付】。判断に迷うもの、見たことのない素材はすべてここに隔離し、俺が後で一括処理します」
「なるほど、種類ごとに列を分けるってわけか。……でも、それだけじゃ根本的な解決にはならないぜ?」
野次馬に混じっていたカエルが、首を傾げて言った。
「列が四つになっても、結局その場で値段の交渉をして、硬貨を数えて渡してたら、時間はかかるだろ?」
「その通りです。だから、最も重要なアップデートはこれです」
レインは、端末から印刷用魔導具にデータを送り、束になった『真っさらな紙の札』を大量に出力して見せた。
「本日この瞬間をもって、その場での現金精算を廃止します」
「……はあ!?」
冒険者たちから一斉にブーイングが上がった。
「ふざけんな! 今日稼いだ金がないと、今日の飯が食えねえだろうが!」
「静かに」
レインは冷ややかな目で暴れる冒険者たちを制した。
「代わりに、この【一時預かり証】を発行します。
窓口では、素材を受け取り、重量と持ち主の名前だけを確認して、この預かり証を渡す。それで今日の『受付業務』は終了です。冒険者は数分で窓口を通過でき、すぐに宿に帰って休むことができます。
そして、値段の交渉や現金への換金は、翌日の昼以降、鑑定と計算が終わったものから順次行います。……当座の食事代や宿代が必要な者には、この預かり証を担保に、バロス商会が少額のツケ払いを認めます」
その場での「即時処理」を諦め、一度データを溜め込んでから夜間に一括処理する「バッチ処理」への移行。
それが、レインの導き出した最強のボトルネック解消法だった。
◆
レインの号令により、拠点の主要メンバーが即座に動き出した。
「おう、泥なら俺の領域だ! 外の洗い場の横に、頑丈な計量台を組んでやるぜ! おいお前ら、木材を運べ!」
現場頭のガルムが、鼻息荒く大工衆を率いて広場へ駆け出していく。
「預かり用の樽と布袋なら、うちの倉庫に山ほどある。……レイン殿、預かり証の担保管理はうちの商会が引き受けよう。冒険者が飢えれば商売上がったりだからな」
バロスが恰幅の良い腹を揺らし、配下の商人たちに空き容器を次々と運ばせる。
「……まったく。あんたの考える仕組みは、いつも極端だけど理にかなってるよ。これなら、私は落ち着いて台帳の数字を合わせるだけで済むね」
ベルダは、素材別に分けられた真新しい四冊の台帳を受け取り、ようやく安堵の息を吐いた。
それから数時間後。
広場を埋め尽くしていた長蛇の列は、嘘のようにスルスルと前に進み始めていた。
「なんだ、重さを量ってこの紙をもらうだけでいいのか」
「鑑定で何時間も待たされるより、サッサと終わらせて酒場に行った方がマシだな。どうせツケで飲めるらしいし!」
冒険者たちは次々と「預かり証」を受け取り、最初は不満を漏らしていた者たちも、待ち時間の少なさに驚きながら、足早に酒場や宿舎へと散っていった。
これまでは「俺の素材を今すぐ高く買え」という欲望と交渉が列を停滞させていたが、「預ける」というシンプルな作業に切り替えたことで、受付の処理速度は実に十倍以上に跳ね上がったのだ。
日が完全に沈み、夜の静寂が戻ってきた受付ロビー。
ベルダは、すべての処理を終えて空っぽになったカウンターを見渡し、椅子に深く腰掛けて大きな溜息を吐いた。
「……はぁ。死ぬかと思った。迷宮が稼ぐってのは、魔物と戦うだけじゃない。受付が地獄を見るって意味だったんだね……」
「お疲れ様です、ベルダ。あなたの正確な記帳スキルがあってこその運用です」
レインは手元の端末に今日の処理データを記録し、窓の外――素材が運び込まれた薄暗い巨大倉庫を眺めた。
「預かり証の導入で、ひとまず列は流れました。ですが、これはただの『時間稼ぎ』に過ぎません」
「……まだ、何かあるのかい?」
ベルダが嫌な予感を感じて顔を引きつらせる。
「ええ」
レインは眼鏡を押し上げ、冷徹な事実を口にした。
「預かり証を発行したということは、拠点側が『負債』を抱えたということです。そして、今の倉庫に山積みになっているのは、泥だらけの鉱泥や、刈り取ったままの土のついた薬草。……これらは、そのまま王都へ運んでも、大した利益にはなりません」
「……つまり?」
「持ち込むだけでは価値が低い。次に俺たちがやるべきは、この拠点の中で素材を『商品』へと変えるプロセスです」
レインの瞳は、すでに受付の先――拠点の「産業化」という次なるフェーズを見据えていた。
「洗浄、圧搾、乾燥、精錬。持ち込まれた資源の価値を内部で高める『加工工程』を実装します。……これからの灰霧前砦は、ただの冒険者の受付窓口ではありません。一つの巨大な『資源処理工場』へと変貌させます」
夜の静寂の中。
第2層から引き揚げられた未加工の資源たちが、倉庫の中で静かに、次なる進化の時を待っていた。




