第44話 誰の水か
灰霧前砦の広場に、かつてないほどの清らかな水音が響き渡っている。
地下の『腐れ谷』へと適切に排水されるようになったことで、洗い場の水槽は常に美しい清水で満たされるようになった。
泥と悪臭にまみれていた冒険者たちが、冷たい水を頭から被り、歓喜の声を上げている。
それは、この拠点が「病と死の淵」から完全に生還したことを示す、何よりの証明だった。
だが、その無邪気な歓喜の輪から少し離れた場所で。
迷宮管理者レイン・ヴァルトは、極めて冷徹な「商売」の圧力と対峙していた。
「さあ、管理者殿。奇跡の証明は終わりました。次は、この素晴らしい水を『誰が』『どのように』配り、そして『どれだけの利益』を生み出すのか。……大人の商談の続きを始めましょうか」
水運商会代理人のセドリック・ヴェインが、完璧な営業スマイルを浮かべてレインに語りかける。
その隣では、商工会会頭のバロスが、面白そうに葉巻の煙を細く吐き出していた。
レインは広場で水を分け合う人々を一度だけ振り返り、そして静かに頷いた。
「……ええ。場所を変えましょう。バロス会頭、再び天幕をお借りできますか」
「構わんよ、共同経営者殿。命のやり取りの次は、金のやり取りだ。商人としては、こちらの方が性に合っているからな」
レインたちは、広場の喧騒から切り離された、バロス商会の分厚い天幕の中へと再び足を踏み入れた。
今回は、レイン、バロス、セドリックの三人に加え、運用管理長のベルダ、そして巡回治療師のエルメアも同席していた。拠点の衛生と生活を預かる彼女たちにとって、水の問題は絶対に部外者に任せきりにできない領域だからだ。
上等な椅子に腰を下ろすなり、セドリックは再びあの美しい羊皮紙の契約書をテーブルに広げた。
「では、改めてご提案させていただきます。我が水運商会が、この拠点の『配水網』の設備投資をすべて自費で行います。巨大な貯水タンク、冷却魔導具、各区画への配水管、そして水運びの人足」
セドリックは、まるで慈悲深い聖者のような声で言葉を紡ぐ。
「あなた方管理側は、もう水回りのトラブルに頭を悩ませる必要はありません。我々が責任を持って、この砦の隅々まで水を届けます。……その代わり、居住者から『適正な水代』を徴収する権利を、我々に完全独占させていただきたい」
「ふざけるんじゃないよ!」
セドリックの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ベルダがテーブルを強く叩いて身を乗り出した。
徹夜続きで血走った彼女の目は、強欲な商人に対する強い怒りに燃えている。
「水に金を取るだって? 今、隔離テントで熱を出して寝込んでる連中は、その日暮らしの下働きや、怪我をして稼げなくなった新人冒険者たちなんだよ! あいつらに、毎日水を買う金なんてあるわけないだろうが!」
「ベルダの言う通りだ」
エルメアもまた、腕を組んで冷ややかな視線をセドリックに向けた。
「いいかい、商人さん。疫病を防ぐための『公衆衛生』ってのは、全員が参加しなきゃ意味がないシステムなんだ。金持ちだけが綺麗な水で手を洗い、貧乏人が泥水で顔を洗っていれば、結局その貧乏人から発生した病原菌が、金持ちのテントにも襲いかかる」
エルメアは、医療の専門家としての絶対的なロジックを突きつける。
「たった一割の人間が水をケチって不衛生になれば、残りの九割も病に巻き込まれる。……水を金で売って、買えない人間を生み出すことは、この拠点全体に対する『医療的な自殺行為』だよ」
ベルダの「感情」と、エルメアの「科学」。
二人の女性による強烈な反論に、セドリックは少しだけ困ったように眉を下げたが、その余裕の笑みは微塵も崩れなかった。
「お二人の仰ることは、人道的には極めて正しい。……ですが、現実の『維持費』という数字の前には、その理想は無力です」
セドリックは視線をレインとバロスに向けた。
「地下のポンプを二十四時間動かし続けるための莫大な魔力石。劣化した配管の修繕費。……水を無料で配り続ければ、その費用は誰が負担するのですか? いずれ管理側の資金が底を突き、ポンプが止まれば、結局は全員が渇き死ぬのですよ」
「……セドリックの言う通りだ」
バロスが、深く重い声で同意した。
「ベルダよ。商人として言わせてもらえば、無限に無料で提供される資源は、必ず浪費され、やがて枯渇する。……維持費を稼ぎ出し、設備を更新し続けるためには、利益を生み出す『商売』のサイクルに乗せるしかない。それが、システムを長く生かすための唯一の現実だ」
天幕の中に、重苦しい沈黙が落ちた。
ベルダとエルメアの主張する「全員の命を守るための無料のインフラ」。
セドリックとバロスが主張する「システムを維持するための有料のビジネス」。
どちらも間違っていない。
どちらの論理も、拠点を存続させるためには絶対に欠かせない要素だった。
片方を選べば、もう片方の致命的なエラーによって拠点は崩壊する。
『管理者様。……極めて難解な【二律背反】です』
レインの脳内で、監査精霊ノアが静かに明滅する。
『完全無料モデルを採用した場合、百二十日後に拠点の予算が枯渇します。完全有料モデルを採用した場合、二十日後に貧困層から第二次バイオハザードが発生します。……どちらを選択しても、システムは最終的に破綻します』
四人の視線が、迷宮管理者であるレインに集中していた。
彼は、この二つの矛盾する要求をどう解決するのか。
統治者としての判断が、今まさに下されようとしていた。
「……セドリックさん。バロス会頭」
レインは深く息を吸い込み、銀縁眼鏡を中指で押し上げた。
「お二人の言う通り、維持費を稼げないシステムは必ず死ぬ。……ですが、エルメアさんが指摘した通り、水を完全に商品化し、アクセス権を奪われた『弱者』を生み出すことは、この拠点全体に致命的なセキュリティホール(脆弱性)を抱え込むことを意味します」
レインはテーブルの上の契約書を、指先でツーッとセドリックの方へ押し返した。
「ですから、俺は『完全無料』も『完全有料』も選択しません」
「……ほう? では、どうされるおつもりで?」
セドリックが興味深そうに目を細める。
「資源の【階層化】を行います。……つまり、基本となる生存機能は完全に無料化し、それ以上の付加価値にのみ、従量課金を行うハイブリッド・モデルです」
レインの口から出た耳慣れない言葉に、天幕の全員が怪訝な顔をした。
「……階層化? どういう意味だい、レイン」
ベルダが問いかける。
「現在、地下から引き上げている水の量は、五百人が最低限の生活を送るために必要な量を、遥かに上回っています。圧倒的な『余剰』がある状態です」
レインは手元の端末を操作し、青い光の玉――セレスを呼び出して、空中に円グラフを投影させた。
「セレス。引き上げた全水量のうち、全住民の『飲料水』『炊き出し用の水』『手洗い・顔洗い用の共有水槽』といった、生命維持と公衆衛生に必要不可欠な水量の割合は?」
『計算します。……全体の総水量のうち、約三十パーセントです』
「その三十パーセントは、完全に『無料の公共インフラ』として俺たちが管理し、すべての人間に無償で開放します。……広場の給水塔と洗い場は、誰でも自由に、何度でも使える。これが、絶対に病魔を寄せ付けないための『最低生存ライン』です」
その言葉に、ベルダとエルメアがパッと顔を輝かせた。
手洗いや飲み水が無料で保障されるなら、弱者が不衛生な状態に置かれることは物理的にあり得なくなる。
「ですが、管理者殿。それでは結局、ポンプの維持費はどうやって稼ぐのですか?」
セドリックが、冷ややかな笑みを崩さずに反論する。
「残りの『七十パーセントの余剰水』を使うんです」
レインは、セドリックとバロスの目を真っ直ぐに見据えた。
「この要塞には、大量の馬を抱える商人や、血にまみれた大型の魔物を解体する業者、そして、泥を落とすためだけでなく『温かい風呂に入って疲れを癒やしたい』と願う、金を稼いだ上位の冒険者たちがいます」
レインは、空中の円グラフの大部分を占める『七十パーセント』の部分を指差した。
「彼らが求めるのは、生きるための水ではない。ビジネスのための大量の水であり、快適さという『贅沢品』です。……俺は、この残りの水量をすべて、セドリックさんの水運商会に『卸売り』します」
「……!」
セドリックの目の色が変わった。
「セドリックさん。あなたの商会の資金力で、商人区画専用の配水管や、上位冒険者向けの『有料の温浴施設』、魔物解体業者用の『高圧洗浄場』を作ってください。……そして、彼らからたっぷりと利用料を取って、ビジネスを回せばいい。俺たちはあなたから、卸売りした水量の分だけ『インフラ利用税』を徴収し、それをポンプの維持費に充てます」
それは、弱者の命を守る「公共インフラ」と、強者から利益を吸い上げる「商業ビジネス」を、見事に一つの水脈の中で両立させる、完璧なシステム設計だった。
「……なるほど。最低限の生存は無料で保障し、快適さや事業用途には課金する、というわけですか」
セドリックは、呆然としたようにつぶやき、やがてフツフツと肩を震わせて笑い始めた。
「クックック……! これは恐れ入った。完全な独占ほどの暴利は得られませんが、需要が尽きない、極めて手堅く、かつ反感を買わない素晴らしい商売だ。……見事な手腕です、管理者殿」
セドリックは懐から新しい羊皮紙を取り出し、素早い手つきで契約内容を書き換え始めた。
商人としての彼の頭脳が、この「階層化モデル」の持つ圧倒的な安定性と将来性に、完全に魅了された証拠だった。
「ハハハハハッ! 傑作だ!」
バロスが、腹を抱えて豪快に笑い声を上げた。
「金持ちの商人や稼いだ冒険者から巻き上げた金で、貧乏人の飲み水とポンプの維持費を賄わせる。それを『商機』という綺麗な箱に包んで、この王都の抜け目ない水商人に売りつけたわけだ! ……あんた、本当に恐ろしい統治者(システム管理者)になったな、共同経営者殿!」
バロスの最大の賛辞に、レインは小さく息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「俺はただ、システムがクラッシュしないための『最適解』を導き出しただけです」
「……レイン。あんた、本当に大したもんだよ」
ベルダが、心からの安堵と敬意を込めて、レインの背中をポンと叩いた。
エルメアもまた「これで安心して治療に専念できるよ」と、口元に柔らかな笑みを浮かべている。
命を守るための水。
そして、利益を生み出すための水。
誰の論理も切り捨てることなく、複雑な社会のバグを見事に修正してみせたのだ。
天幕を出て、再び初夏の日差しが照りつける広場へと戻ったレインは、絶え間なく溢れ続ける給水塔の清水を見つめた。
『……管理者様。これにて、拠点における【インフラ再構築タスク】、すべて正常終了です』
ノアの静かな、しかし確かな達成感を含んだ報告が脳内に響く。
迷宮の罠を直すだけの「現場の管理者」だったレインは、今や、五百人の命と経済の循環をコントロールする、真の「都市の運営者」へと進化した。
水を配るということは、命と権力を配るということ。
その重責を背負いながらも、レインの心はかつてなく透き通っていた。
「……さて。地上の受け皿は、これで完全に整った」
レインは、給水塔の向こう側――再び静寂を取り戻した、地下迷宮の入り口へと視線を向けた。
「次は、第2層《地下水脈層》の本格的な資源開発だ。……水以外の価値を、あの地下から引き上げに行くぞ」
疫病の危機を乗り越え、真の「暮らせる拠点」へと進化した灰霧前砦。
その強固な土台の上に、次なる「莫大な富」を築き上げるための、地下水脈層への新たな探索が、今まさに始まろうとしていた。




