表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AI精霊と始める迷宮再建 〜落第管理者ですが、運用改善で最強ダンジョンを作ります〜  作者: 結城ログ
第2章:人口爆発と衛生インフラ問題 ―― 地下水脈層を解放せよ
PR
44/112

第44話 誰の水か

 灰霧前砦の広場に、かつてないほどの清らかな水音が響き渡っている。


 地下の『腐れ谷』へと適切に排水されるようになったことで、洗い場の水槽は常に美しい清水で満たされるようになった。

 泥と悪臭にまみれていた冒険者たちが、冷たい水を頭から被り、歓喜の声を上げている。

 それは、この拠点が「病と死の淵」から完全に生還したことを示す、何よりの証明だった。


 だが、その無邪気な歓喜の輪から少し離れた場所で。

 迷宮管理者レイン・ヴァルトは、極めて冷徹な「商売ビジネス」の圧力と対峙していた。


「さあ、管理者殿。奇跡の証明は終わりました。次は、この素晴らしい水を『誰が』『どのように』配り、そして『どれだけの利益』を生み出すのか。……大人の商談の続きを始めましょうか」


 水運商会代理人のセドリック・ヴェインが、完璧な営業スマイルを浮かべてレインに語りかける。

 その隣では、商工会会頭のバロスが、面白そうに葉巻の煙を細く吐き出していた。


 レインは広場で水を分け合う人々を一度だけ振り返り、そして静かに頷いた。


「……ええ。場所を変えましょう。バロス会頭、再び天幕をお借りできますか」


「構わんよ、共同経営者殿。命のやり取りの次は、金のやり取りだ。商人としては、こちらの方が性に合っているからな」


 レインたちは、広場の喧騒から切り離された、バロス商会の分厚い天幕の中へと再び足を踏み入れた。

 今回は、レイン、バロス、セドリックの三人に加え、運用管理長のベルダ、そして巡回治療師のエルメアも同席していた。拠点の衛生と生活を預かる彼女たちにとって、水の問題は絶対に部外者に任せきりにできない領域だからだ。


 上等な椅子に腰を下ろすなり、セドリックは再びあの美しい羊皮紙の契約書をテーブルに広げた。


「では、改めてご提案させていただきます。我が水運商会が、この拠点の『配水網ラストワンマイル』の設備投資をすべて自費で行います。巨大な貯水タンク、冷却魔導具、各区画への配水管、そして水運びの人足」


 セドリックは、まるで慈悲深い聖者のような声で言葉を紡ぐ。


「あなた方管理側は、もう水回りのトラブルに頭を悩ませる必要はありません。我々が責任を持って、この砦の隅々まで水を届けます。……その代わり、居住者から『適正な水代』を徴収する権利を、我々に完全独占させていただきたい」


「ふざけるんじゃないよ!」


 セドリックの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ベルダがテーブルを強く叩いて身を乗り出した。

 徹夜続きで血走った彼女の目は、強欲な商人に対する強い怒りに燃えている。


「水に金を取るだって? 今、隔離テントで熱を出して寝込んでる連中は、その日暮らしの下働きや、怪我をして稼げなくなった新人冒険者たちなんだよ! あいつらに、毎日水を買う金なんてあるわけないだろうが!」


「ベルダの言う通りだ」


 エルメアもまた、腕を組んで冷ややかな視線をセドリックに向けた。


「いいかい、商人さん。疫病を防ぐための『公衆衛生』ってのは、全員が参加しなきゃ意味がないシステムなんだ。金持ちだけが綺麗な水で手を洗い、貧乏人が泥水で顔を洗っていれば、結局その貧乏人から発生した病原菌が、金持ちのテントにも襲いかかる」


 エルメアは、医療の専門家としての絶対的なロジックを突きつける。


「たった一割の人間が水をケチって不衛生になれば、残りの九割も病に巻き込まれる。……水を金で売って、買えない人間を生み出すことは、この拠点全体に対する『医療的な自殺行為』だよ」


 ベルダの「感情」と、エルメアの「科学」。

 二人の女性による強烈な反論に、セドリックは少しだけ困ったように眉を下げたが、その余裕の笑みは微塵も崩れなかった。


「お二人の仰ることは、人道的には極めて正しい。……ですが、現実の『維持費』という数字の前には、その理想は無力です」


 セドリックは視線をレインとバロスに向けた。


「地下のポンプを二十四時間動かし続けるための莫大な魔力石ランニングコスト。劣化した配管の修繕費。……水を無料で配り続ければ、その費用は誰が負担するのですか? いずれ管理側の資金が底を突き、ポンプが止まれば、結局は全員が渇き死ぬのですよ」


「……セドリックの言う通りだ」


 バロスが、深く重い声で同意した。


「ベルダよ。商人として言わせてもらえば、無限に無料タダで提供される資源は、必ず浪費され、やがて枯渇する。……維持費を稼ぎ出し、設備を更新し続けるためには、利益を生み出す『商売ビジネス』のサイクルに乗せるしかない。それが、システムを長く生かすための唯一の現実だ」


 天幕の中に、重苦しい沈黙が落ちた。


 ベルダとエルメアの主張する「全員の命を守るための無料のインフラ」。

 セドリックとバロスが主張する「システムを維持するための有料のビジネス」。


 どちらも間違っていない。

 どちらの論理も、拠点を存続させるためには絶対に欠かせない要素だった。

 片方を選べば、もう片方の致命的なエラーによって拠点は崩壊する。


『管理者様。……極めて難解な【二律背反トレードオフ】です』


 レインの脳内で、監査精霊ノアが静かに明滅する。


完全無料パブリックモデルを採用した場合、百二十日後に拠点の予算が枯渇します。完全有料ビジネスモデルを採用した場合、二十日後に貧困層から第二次バイオハザードが発生します。……どちらを選択しても、システムは最終的に破綻します』


 四人の視線が、迷宮管理者であるレインに集中していた。

 彼は、この二つの矛盾する要求をどう解決するのか。

 統治者としての判断ジャッジが、今まさに下されようとしていた。


「……セドリックさん。バロス会頭」


 レインは深く息を吸い込み、銀縁眼鏡を中指で押し上げた。


「お二人の言う通り、維持費を稼げないシステムは必ず死ぬ。……ですが、エルメアさんが指摘した通り、水を完全に商品化し、アクセス権を奪われた『弱者』を生み出すことは、この拠点全体に致命的なセキュリティホール(脆弱性)を抱え込むことを意味します」


 レインはテーブルの上の契約書を、指先でツーッとセドリックの方へ押し返した。


「ですから、俺は『完全無料』も『完全有料』も選択しません」


「……ほう? では、どうされるおつもりで?」

 セドリックが興味深そうに目を細める。


「資源の【階層化ティアリング】を行います。……つまり、基本となる生存機能ベースラインは完全に無料化し、それ以上の付加価値プレミアムにのみ、従量課金を行うハイブリッド・モデルです」


 レインの口から出た耳慣れない言葉に、天幕の全員が怪訝な顔をした。


「……階層化? どういう意味だい、レイン」

 ベルダが問いかける。


「現在、地下から引き上げている水の量は、五百人が最低限の生活を送るために必要な量を、遥かに上回っています。圧倒的な『余剰オーバープロビジョニング』がある状態です」


 レインは手元の端末を操作し、青い光の玉――セレスを呼び出して、空中に円グラフを投影させた。


「セレス。引き上げた全水量のうち、全住民の『飲料水』『炊き出し用の水』『手洗い・顔洗い用の共有水槽』といった、生命維持と公衆衛生に必要不可欠な水量の割合は?」


『計算します。……全体の総水量のうち、約三十パーセントです』


「その三十パーセントは、完全に『無料の公共インフラ』として俺たちが管理し、すべての人間に無償で開放します。……広場の給水塔と洗い場は、誰でも自由に、何度でも使える。これが、絶対に病魔を寄せ付けないための『最低生存ライン』です」


 その言葉に、ベルダとエルメアがパッと顔を輝かせた。

 手洗いや飲み水が無料で保障されるなら、弱者が不衛生な状態に置かれることは物理的にあり得なくなる。


「ですが、管理者殿。それでは結局、ポンプの維持費はどうやって稼ぐのですか?」

 セドリックが、冷ややかな笑みを崩さずに反論する。


「残りの『七十パーセントの余剰水』を使うんです」


 レインは、セドリックとバロスの目を真っ直ぐに見据えた。


「この要塞には、大量の馬を抱える商人や、血にまみれた大型の魔物を解体する業者、そして、泥を落とすためだけでなく『温かい風呂に入って疲れを癒やしたい』と願う、金を稼いだ上位の冒険者たちがいます」


 レインは、空中の円グラフの大部分を占める『七十パーセント』の部分を指差した。


「彼らが求めるのは、生きるための水ではない。ビジネスのための大量の水であり、快適さという『贅沢品』です。……俺は、この残りの水量をすべて、セドリックさんの水運商会に『卸売り』します」


「……!」

 セドリックの目の色が変わった。


「セドリックさん。あなたの商会の資金力で、商人区画専用の配水管や、上位冒険者向けの『有料の温浴施設』、魔物解体業者用の『高圧洗浄場』を作ってください。……そして、彼らからたっぷりと利用料を取って、ビジネスを回せばいい。俺たちはあなたから、卸売りした水量の分だけ『インフラ利用税』を徴収し、それをポンプの維持費に充てます」


 それは、弱者の命を守る「公共インフラ」と、強者から利益を吸い上げる「商業ビジネス」を、見事に一つの水脈の中で両立させる、完璧なシステム設計アーキテクチャだった。


「……なるほど。最低限の生存は無料で保障し、快適さや事業用途には課金する、というわけですか」


 セドリックは、呆然としたようにつぶやき、やがてフツフツと肩を震わせて笑い始めた。


「クックック……! これは恐れ入った。完全な独占ほどの暴利は得られませんが、需要が尽きない、極めて手堅く、かつ反感を買わない素晴らしい商売ビジネスモデルだ。……見事な手腕です、管理者殿」


 セドリックは懐から新しい羊皮紙を取り出し、素早い手つきで契約内容を書き換え始めた。

 商人としての彼の頭脳が、この「階層化モデル」の持つ圧倒的な安定性と将来性に、完全に魅了された証拠だった。


「ハハハハハッ! 傑作だ!」


 バロスが、腹を抱えて豪快に笑い声を上げた。


「金持ちの商人や稼いだ冒険者から巻き上げた金で、貧乏人の飲み水とポンプの維持費を賄わせる。それを『商機』という綺麗な箱に包んで、この王都の抜け目ない水商人に売りつけたわけだ! ……あんた、本当に恐ろしい統治者(システム管理者)になったな、共同経営者殿!」


 バロスの最大の賛辞に、レインは小さく息を吐き、眼鏡のブリッジを押し上げた。


「俺はただ、システムがクラッシュしないための『最適解』を導き出しただけです」


「……レイン。あんた、本当に大したもんだよ」


 ベルダが、心からの安堵と敬意を込めて、レインの背中をポンと叩いた。

 エルメアもまた「これで安心して治療に専念できるよ」と、口元に柔らかな笑みを浮かべている。


 命を守るための水。

 そして、利益を生み出すための水。

 誰の論理も切り捨てることなく、複雑な社会のバグを見事に修正してみせたのだ。


 天幕を出て、再び初夏の日差しが照りつける広場へと戻ったレインは、絶え間なく溢れ続ける給水塔の清水を見つめた。


『……管理者様。これにて、拠点における【インフラ再構築タスク】、すべて正常終了コンプリートです』


 ノアの静かな、しかし確かな達成感を含んだ報告が脳内に響く。


 迷宮の罠を直すだけの「現場の管理者」だったレインは、今や、五百人の命と経済の循環をコントロールする、真の「都市の運営者」へと進化した。

 水を配るということは、命と権力を配るということ。

 その重責を背負いながらも、レインの心はかつてなく透き通っていた。


「……さて。地上の受けインフラは、これで完全に整った」


 レインは、給水塔の向こう側――再び静寂を取り戻した、地下迷宮の入り口へと視線を向けた。


「次は、第2層《地下水脈層》の本格的な資源開発だ。……水以外の価値を、あの地下から引き上げに行くぞ」


 疫病の危機を乗り越え、真の「暮らせる拠点」へと進化した灰霧前砦。

 その強固な土台の上に、次なる「莫大な富」を築き上げるための、地下水脈層への新たな探索が、今まさに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ