第16話:冒険者が戻る日
灰霧前砦の地下中枢室から地上へと続く、長く冷たい石階段。
レイン・ヴァルトは、現場作業員頭のガルムと共に、一段飛ばしでその階段を駆け上がっていた。
「おいおい、エリート様! 息が上がってんぞ! もっと足腰鍛えねえと現場じゃ使い物にならねえぜ!」
「……っ、これでも、王都の文官の中では、体力テストは上位だったんです……!」
息を切らしながら強がるレインの耳に、地上に近づくにつれて、これまで聞いたことのない種類の「異音」が届き始めた。
それは、魔物の恐ろしい咆哮でもなければ、罠にかかった冒険者の断末魔でもない。数十人の人間が同時に怒鳴り合い、重い物が床に叩きつけられ、硬貨が弾け飛ぶような、ひどく生々しく、熱気に満ちた「喧騒」だった。
重い鉄格子を抜け、地上の受付ホールへと飛び出した瞬間。
レインは、目の前に広がる光景に思わず足を止め、絶句した。
「こら! 押すんじゃないよ! 順番に査定してやるから、カウンターの前にそんな馬鹿デカい袋を乱暴に置くんじゃない! 木枠が軋んでるだろうが!」
受付カウンターの奥で、受付嬢のベルダがドスを効かせた声で怒鳴っていた。
30代後半の彼女は、長年この砦の衰退を見てきた古株だ。いつもは気怠げに帳簿を眺めている彼女だが、今は袖をまくり上げ、手や頬には書類に判を押すためのインクをべったりと付着させている。
彼女の目の前のカウンターには、泥だらけの分厚い麻袋が、文字通り「巨大な山」となって積み上げられていた。
「す、すげえ……本当に死なずに帰ってこれたぞ……!」
「俺なんて三時間も潜ってたのに、ゴブリンの影すら見なかった! 明るい通路で、ただひたすら両手で薬草を引っこ抜いてただけだ。あんなの、ただの畑仕事じゃねえか!」
「おいベルダの姐御! 早く俺の魔石とシダ草を換金してくれよ! こんなに稼げたのは、冒険者になってから初めてなんだ! 早くエールが飲みてえ!」
興奮冷めやらぬ声でまくしたて、顔を真っ赤にしてカウンターに詰め寄っているのは、今朝一番で「第一層安全区画」へと潜っていった十数人の下級冒険者たちだ。
ホールの人口密度自体は、普段この砦にたむろしているいつもの面々と変わらない。だが、彼らが放つ熱気と、何よりも彼らが地下から引きずり上げてきた「成果の質量」が、これまでの常識を完全に破壊していた。
「ベルダさん! 私たちも戻りました!」
人だかりの最前列で、噂の火付け役であるリナとカエルの二人が、自分たちの背丈の半分ほどもある巨大な麻袋を、ドスンッ! という重々しい音を立てて持ち上げていた。
分厚いオーク材で作られた受付カウンターが、その重量に耐えかねてギシィッ、と不吉な軋み声を上げる。
「リナかい! よかった、無事だったんだね……って、なんだいその袋のデカさは! あんたたち、岩でも詰めて帰ってきたのかい!?」
「ふふっ、今日は奥の第5区画まで足を伸ばしてみたんです。安全ルートの壁際に、高値で売れるシダ草の群生地を見つけて……カエルと二人で、時間も忘れて夢中で刈り取ってきちゃいました!」
リナは泥だらけの顔で誇らしげに胸を張り、隣のカエルも照れくさそうに鼻の下を擦っている。
彼らが持ち込んだ素材の量は、かつての第一層の常識からすれば、完全に「異常」だった。
かつての灰霧迷宮では、帰路で魔物に奇襲された際にすぐ武器を構えたり、全力で逃走したりできるよう、「荷物(戦利品)は身軽に動ける最小限に留める」というのが、生き残るための絶対の鉄則だった。
欲をかいて重い袋を背負い、動きが鈍った者から順に、暗闇に潜むゴブリンの餌食になっていくからだ。熟練のパーティでさえ、泣く泣く高価な素材を捨てて帰ることは珍しくなかった。
だが、レインが構築した「安全ルート」と、匂いや瓦礫による「多層防壁」が確立された今、その鉄則は無用の長物と化した。
緑の線の内側にいれば、絶対に襲われない。
その事実が、彼らの行動様式を根本から変容させたのだ。彼らは『帰りの戦闘や逃走』を一切考慮せず、安全な明るい道をただ歩いて帰るための「限界の重さ」まで、袋いっぱいに薬草を詰め込むことができた。
迷宮の安全化という環境の変化が、冒険者たちの「積載量の限界突破」という劇的な出力の向上をもたらしたのである。
「冗談じゃないよ、すごい量じゃないか……。しかも、根っこが綺麗に揃ってる!? これなら最高ランクで買い取れるよ。ええと、このシダ草の束が十、二十……。これを全部買い取るとなると……銀貨が三枚と、銅貨が……」
ベルダが計算盤の珠を弾き、顔を引きつらせた。
そして、カウンターの下に備え付けられた小さな金庫を開け、絶望的な声を上げる。
「……嘘だろう。買い取り用の小銭が、もうすっからかんだよ……!?」
これまでは、一日に数人がわずかな素材を命からがら持ち込むだけだった。だから、砦の金庫には少額の準備金しか用意されておらず、素材の重さを量る天秤も、薬の調合に使うような手のひらサイズの小さな真鍮製のものがあるだけだった。
利用者の数は変わっていない。だが、冒険者「一人あたりの採集量」が、これまでの十倍以上に跳ね上がったのだ。
小さな天秤では量りきれず、袋から一つかみずつ取り出して何度も小分けにして量るため、査定には異常な時間がかかる。
支払うための小銭は即座にショートし、巨大な麻袋は狭いカウンターの裏をあっという間に埋め尽くして、ベルダの足の踏み場すら奪ってしまった。
「ああもう、待ちなさい! こんなオモチャみたいな天秤じゃぶっ壊れちまう! それに、こんな量の草、倉庫のどこに突っ込めってんだい! 誰か、手が空いてる奴は裏を手伝いな!!」
完全にパンク状態だった。
査定を待つ冒険者たちは、命がけの(実際は安全だったが)労働を終えてアドレナリンが出ていることもあり、「早く金にしてくれ!」「俺の番はまだか!」と苛立ち始め、ホールの空気は一触即発の混乱の様相を呈し始めていた。
「――そこまでだ。列を乱すな」
ホールの入り口から響き渡った冷徹な声が、その喧騒を鋭い刃のように切り裂いた。
レインだった。その後ろには、ガルムが大槌を肩に担いで、用心棒のように控えている。
レインはホールの惨状――溢れ返る巨大な麻袋、怒号を上げる冒険者たち、そして空っぽの金庫の前で天を仰いでいるベルダを、冷ややかな、しかし極めて分析的な目で観察した。
(……なるほど。これが地下のボトルネックを解消した代償か。完全な『スループットの超過』による、地上側のシステムダウンだ)
迷宮(地下)の安全性を高め、採集効率を極限まで引き上げた結果、出力される素材の質量が、拠点(地上)の貧弱な処理能力をはるかに上回ってしまったのだ。
システム開発において、ある部分の渋滞を解消すると、次に弱い部分に新たな渋滞が発生するのは常識である。レインの目には、この生々しい混乱が、単なる喧嘩騒ぎではなく「処理しきれないデータのオーバーフロー」として明確に映っていた。
レインは迷いなく、人だかりを掻き分けてカウンターの内側へ入り込むと、受付の卓上に散乱していた書類をバサッと容赦なく横に押しやった。
「ベルダさん。現状のボトルネック(課題)を報告してください」
「レ、レイン! あんたが地下で何を急にやらかしたか知らないけどね! 小銭が足りないんだよ! それにこのチマチマした天秤じゃ、一つ量るのに何分かかると思ってんだい!」
「入場を待っている新規の者もいるようですね。そちらの手続きは?」
「名前を記帳させて、注意事項を読み上げて、木札を渡すのに一人三分はかかってるさ!」
「話になりませんね。それらの直列処理をすべてベルダさん一人で抱え込んでいれば、この十数人を捌くだけで日が暮れてしまう」
レインは振り返り、鋭い視線をガルムへと向けた。
「親方!」
「おう!」
レインの指示に、ガルムが一歩前へ出る。
「親方は、そこのホール端にある大机を使って『入場の専任受付』をお願いします。名前の記帳などという無駄な手続きは後回しでいい。注意事項は、壁の掲示板を指差して『あそこを読め。守れない奴は死ぬぞ』と一言脅すだけで十分です。入場用の木札をひたすら渡し、迷宮の中へ人を流し込むことに専念してください」
「へっ、随分と荒っぽい受付だが、俺の凄みなら一秒で終わるぜ。任せな!」
ガルムが大机にドンッと腰を下ろし、大槌を机の上に置くと、新規入場の列を作っていた冒険者たちがビクッと肩を揺らし、一気にそちらへと移動した。
「次に計量だ。ベルダさん、そんな玩具のような天秤はしまってください。……親方、ついでに倉庫に眠っている修繕用の『大型の重量計(台秤)』をここに持ってきてください。小分けになどしない。麻袋ごと一括で量ります」
「おう! そういうことなら裏から運んでくる!」
ガルムが重量計を取りに走るのを見送ると、レインはベルダの隣に立ち、王都の役人時代に使っていた愛用の銀縁眼鏡を、胸元から取り出してスッと掛けた。
その横顔には、地下の迷宮を冷徹に制圧した時と同じ、感情を排した「システム管理者」としての凄みが浮かんでいる。
「ベルダさんは、素材の受け取りと、台秤での計量、そして倉庫への運搬指示だけをやってください。……金庫の小銭がないなら、支払いは『後日精算の預かり証(IOU)』を発行する方式に切り替えます」
「あ、預かり証かい?」
「そうです。素材の量と品質を俺が査定し、王国ギルドの正式な印を押した債券を渡す。明日、王都のギルド本部へ連絡し、素材の現物と引き換えに大量の現金を輸送させます。それまでの間は、この紙切れが現金と同等の価値を持つ。冒険者たちよ、文句はないな?」
レインが鋭い視線を向けると、不満を言いかけていた冒険者たちも、王国ギルドの正式な印という言葉と、レインの放つ有無を言わせぬ圧力に押され、ゴクリと唾を飲み込んで頷いた。
彼らとて、目の前の男が自分たちを「絶対に死なない道」へと導いてくれた張本人であることは理解しているのだ。
「よろしい。俺が代筆と査定の計算を、並列で処理します」
レインは羽ペンを手に取り、真っ白な羊皮紙の束を引き寄せた。
「いいですか。俺たちはこれから、この砦の『処理速度』をシステム的に三倍に引き上げます。……さあ、次の者、素材を台秤に載せろ」
地下のバグを修正した管理者は今、地上の「業務フロー」という名の新たなダンジョンへと、その鋭利なメスを入れようとしていた。




