第129話 領主が卓に着く
辺境伯の一行が灰霧前砦の門をくぐったのは書状から三日後の昼だった。
前触れの早馬は一頭きり。随行も供回りを絞った少人数で旗も鳴り物もない。仰々しさで格を見せにくる相手ではないらしかった。馬の脇にいつもの代官補佐の顔があった。若い実務窓口が今日は一段うしろへ控えている。それだけで卓の格が変わったのが知れた。
辺境伯ハルドレイは馬を下りるとまっすぐ管理棟へは向かわなかった。賑わいのほうへ足を向けた。
通路までせり出した市の露店。宿の壁ぎわに敷かれた野宿の筵。荷捌き場に伸びたままの札の列。砦の器からあふれた人の暮らしを辺境伯は歩きながら一つずつ目に収めていく。値踏みの目だった。だが見下す目ではなかった。
「よく人が集まる」
辺境伯がぽつりと言った。誰にともなく。
「わしの領で、これほど人の匂いのする場所は久しく見ておらんな」
賑わいの縁でひとりの女が幼子の手を引いて炊き出しの列に並んでいた。旅の埃をかぶった身なりだった。辺境伯はその親子の前でわずかに足を止めた。
「あれは領の外から流れてきた者か」
「多くはそうです」
代官補佐が答えた。
「食い詰めてこの砦の噂を頼りに来ます。ここでは飯にありつけて、荷運びの日銭も拾えると」
「流れ者が食える場所は放っておけば無法の巣になる。だが飯があるうちは、無法より暮らしのほうへ傾くものだ」
辺境伯は荷捌き場へ目を移した。札の列が壁の途中で折れて二列になっている。
「あの列は日に何本捌ける」
「今は四十です」
代官補佐が即答した。
「春先は二十でした。倍に増えて、それでも夕方まで列が消えません」
「二十のときに作った場所で四十を捌いているわけだ」
辺境伯は札の折れ目をしばらく見ていた。それから歩きを再開した。
「どちらへ転ぶかは器の作り手次第だな」
---
管理棟の卓に着いてからも、その静かな目つきは変わらなかった。代官補佐が両者のあいだに座り、これまでの暫定の取り決めを短く辺境伯へ引き継いだ。有事の折の人手の出し方。鈴が鳴ったときの触れ合いの順。街道までの退避の段取り。どこまでを領が負いどこからを砦が負うかを去年の暮れに紙一枚で決めてある。ただしどれも当座しのぎで期限の欄が空いたままだった。
辺境伯は頷きだけで聞き、それから自ら口を開いた。
「単刀直入に言おう。領はこの街化を歓迎する」
レインへまっすぐ向いた。
「人が戻るのは良いことだ。あぶれ者の溜まりになるなら話は別だがな。……だから領がきちんと後ろ盾になろう。治安の兵を出す。流民の差配も手を貸す。街道の安全も領の名で見てやれる。灰霧を領の秩序の内に正しく数えたい」
筋の通った申し出だった。悪意はどこにもない。流民が無秩序に集まる街は領にとって現実の脅威で、それを秩序へ収めたいというのは領主として当然の理屈だった。
だからこそレインは、その申し出の底に沈んでいるものを見た。
後ろ盾になるとはこの街を領の町として秩序へ組み込むこととほとんど同じだ。治安の兵が入れば治安の采配が領へ寄る。流民の差配を任せれば人の出入りの決定が領へ寄る。そうして街の運用の主導が少しずつ領の側へ滑っていけば、いずれその真下の奥の世話の決定権まで、じわりと領の手へ寄っていく。
レインはすぐには答えなかった。
最も外を立てず、最も芯を守り、しかも領を敵に回さない一言を探した。探しているうちに卓の沈黙が一拍長くなった。辺境伯の返答を待つ目が、こちらの逡巡を静かに読んでいた。
「管理人」
横からベルダの低い声が差した。
「考え込む前に勘定を先に出しなさい。この人が引き受けるって言ってるのは、あんたが一人で抱え込んでる荷の半分でしょう。……なら半分の目方を先に量って見せればいいのよ」
その一言でレインは我に返った。最も良い答えを探して黙り込むのはいつもの悪い癖だった。探しても答えは出ない。出すのは勘定だ。
「……失礼しました」
レインは辺境伯へ向き直った。
「後ろ盾のお申し出、ありがたく受けます。ただし一つだけ先に決めさせてください」
ベルダが一冊の台帳を卓の中央へ滑らせた。固定費の頁が開いている。
「灰霧を領の盾として数えてくださるなら、盾の手入れ代を先に分けてください」
レインは台帳の三本の列を指した。
「治安。衛生。この二つは町の規模で膨れます。兵と差配を出していただけるなら、そのぶんはまさにお申し出どおりに助かります。……ですが列はもう一本あります」
指を最後の列へ移した。終わりの日付のない列だった。
「この砦の一番底で毎晩欠かさず回さねばならない世話があります。何を世話しているかは申せません。ですがその費えだけはここに全部書いてあります。中枢の魔力の持ち出し。夜ごとの当番の頭数。……街が大きくなろうと、この底の費えは一垂らしも減りません。むしろ器を大きくすれば、この底ごと大きく背負う勘定になります」
ベルダが頁をもう一枚めくった。同じ数字が縦にどこまでも続いている。
「見てのとおり動かないんだよ。人が増えても減ってもここだけは毎日おなじ。……こんな列を持ってる砦がほかにあるなら教えてほしいね」
『補足します』
セレスの光が台帳の脇に一列の目盛りを立てた。
『街の頭数を倍に見積もっても底の費えは減りません。器が大きくなるぶん、器を支える底も同じだけ深く要ります。数字の上でも賑わいと底の重さは同じ速さで伸びます』
辺境伯は台帳をのぞき込んだ。数字の並びを追う目に、初めてわずかな渋りが差した。
「治安と流民は分かる。それは領の責務だ。だが……その底の費えとやらは中身も言えぬものだと言うのだな。中身の知れぬ荷の代金を領に恒久で払えと」
「はい」
レインは退かなかった。
「頼るなら世話ごとです。灰霧を盾として数えるなら、盾がなぜ盾でいられるか――その一番底の世話ごと数えていただく。底の費えを置いて街の秩序と采配だけを引き受けることはできません。それでは手入れの済んでいない盾を、手入れの終わった顔で数えることになります」
辺境伯はしばらく黙って台帳を見ていた。それから背を椅子へ預けた。
「面白いことを言う男だな。後ろ盾を頼む側が後ろ盾に条件をつけてくる」
「頼る側だからこそ条件を先に出します」
レインは静かに続けた。
「後で『こんな費えは聞いていない』となれば、盾は真っ先にそこから欠けます。先に全部お見せして、どこまでをどちらが負うかを決める。……そのほうが長く盾でいられます」
辺境伯の目に、値踏みとは違う色が一つ混じった。
「その底の費え、領が丸ごと抱えるとは言わんぞ。中身も言えぬものをそっくり背負う覚悟は今日は持っておらん」
「丸ごととは申しません」
「ふん。……どこまでを誰が負うか、か。厄介な卓になりそうだ」
辺境伯は代官補佐へ目をやった。代官補佐が心得たように頷く。暫定のままだった取り決めを街の大きさで結び直す卓が、こうして正式に開くことになった。街化はもう領を抜きにしては一歩も進められない。それがこの日はっきりと決まった。
---
ここまでは、良かった。
辺境伯が腰を上げかけたとき、代官補佐がわずかに声を落として付け足した。
「一つ御耳に入れておきます。……領が此度お動きになったことは遠からず王都の耳にも入ります。人と税と盾がこれだけ動く器を、中央がいつまでも辺境の一存に任せておくとは私には思えません」
辺境伯は片眉を上げただけで否定はしなかった。
レインは卓に開かれたままの台帳へ目を落とした。頼る手の勘定を、ようやく卓へ載せたところだった。だがその勘定の重さが卓に載った途端、もう一方の手が――器の大きさそのものを量りにくる握る手が、遠い王都で身じろぎを始めていた。器を替えると決めた矢先に、その器はもう二つの大きな手の間へ差し出されようとしていた。




