第123話 開けずになだめる
夜が明けきらないうちに、レインは卓へ全員を呼んだ。
灯りの下に広げたのは深層第一区画の機構の図だった。奥へ配る管の束。その根元に並ぶ幾つかの弁。灰霧が毎日下りて世話をしてきた設備の、いちばん手前の部分だ。
「通します」
レインは図の一点に指を置いた。
「開けるのではありません。閉じるのでもない。……奥が求めているのは循環です。滞ると跳ねる。ならばこちらの側で、ひと息ぶんだけ余分に流してやる。壁の向こうへ手を伸ばすのではなく、こちらの手の届く範囲で流れを緩めます」
『それです』
ミストの光が跳ねた。
『前段はこちらの持ち物です。触れても向こうを突きません。……ならば話は早い。絞ってある弁を全て開けましょう。溜めが飢えているなら満たしてやればいい。満ちれば当分は静かです』
「満ちたことが、どうすれば分かりますか」
ミストの光が止まった。
「奥の量を私たちは知りません。管の本数も太さも読んでいません。……読まないと決めたのは私です。読まずに満たそうとするのは、目をつぶって桶へ水を注ぐのと同じです。溢れたと分かるのは、溢れたあとだけです」
---
『反対の理由を申し上げます』
ノアの光が硬く灯った。
『弁を開けば機構の拍子が上がります。拍子が上がれば上層へ滲む余波も増えます。緩衝は今、その余波を弱めるために挟んであります。通す間、緩衝は今より重い波を受けることになります』
「持ちますか」
『昨夜の高さのままなら、持ちません。通した瞬間に緩衝が追い越されます。……上の光石が狂い、水脈の音が変わり、第一層と第二層に前と同じ赤が戻ります』
卓が静かになった。
レインは図から目を上げなかった。奥をなだめるための手が、上層を一度危険へ差し出す手でもある。第二層の採集はいつもどおり動いている。宿には滞在者がいる。ここで払う分は、机の上の魔力ではない。人の暮らしの側から出る。
「では、通す前に上を空けます」
レインは静かに言った。
「順番が逆でした。通してから上を守るのではありません。上を先に逃がして、それから通します」
---
どの弁を開けるかは、セレスが選んだ。
『手入れの記録と跳ねの記録を、もう一度突き合わせました』
夜通しの照合の続きだった。
『流れを絞った日から二日か三日あとに跳ねる。この形が最も強く出るのは、根元から三本目の弁を触った時です。他の弁を絞っても跳ねは弱い。三本目だけが、跳ねの大きさと揃います』
「三本目が、いちばん奥へ配っているのですね」
『そう推せます。ただし推しであって、確かではありません。……確かめるには読まねばなりません。読まないと決めたのはレイン、あなたです』
「推しで進めます」
レインは即答した。
「確かめてから動く余裕は、今夜までしかありません」
---
量を決めたのはドルクだった。
老坑夫は図を見なかった。見ても読めない。代わりに、卓の縁を指の背でゆっくり叩きながら訊いた。
「その弁ってのは、どんくらい回る」
「一周半です」
「なら四半周だ」
ドルクの答えは早かった。
「渇いた土に水をやるときにな、いっぺんに桶を空ける馬鹿はいねえ。表を流れて終わりだ。土が吸うのは、細く長く垂らしたぶんだけさ。……溜まりも同じだ。ひと息で満たそうとすりゃ、満ちる前に波が立つ。波が立ちゃ、そこで寝てるもんが起きる」
「四半周で足りますか」
「足りるかどうかは俺が聴く」
ドルクは腰を上げた。
「濁った水が動き出す時ってのは、音が変わるんだ。ざらついてたのが、すっと通る。通ったら、そこで止めろ。それ以上は要らねえ」
『では、通し方だけは私が引きます』
ミストの光が、さっきより低い位置で灯った。
『握りをいちどきに落とさず、指の力を抜きながら回してください。同じ四半周でも、落とせば段になり、抜けば坂になります。……盛りません。今夜のこれは、見せるための仕事ではありませんから』
---
上を空けるのに半日かかった。
エルメアが宿と炊き出しの滞在者を数え、動ける者から順に退避路へ寄せた。第二層の採集は昼で締め、札を持つ者を一人残らず上へ上げた。リナが縦坑の口に立ち、戻ってきた顔と札を突き合わせては、上の合流点へ流していく。
「今日は誰も下ろさないんですね」
リナが確かめるように訊いた。
「下ろしません。……夕までに一人残らず上です。数え落としがあったまま通せば、その一人が下に取り残されます」
「二人、まだ戻ってません」
リナは名を挙げた。返しの遅い組だった。レインは待つと決めた。ドルクの読む谷は夜半にも来る。半刻の遅れで人を置き去りにするほうが高くつく。
日が落ちる前に二人は戻った。何も知らずに、いつもどおり採ったものを担いで。
---
ガルムは締めの外にいた。
昼のうちに一本道を戻し、認証のない者を退避線の外へ下げてある。夜になってもその線は動かなかった。
「外は」
「張りついてるのが幾人か。減っちゃいねえ」
ガルムは短く答えた。
「気にするな。俺がここに立ってる間は、道は一本だ。……そっちは下を見てろ。上のことも外のことも、今夜は俺とエルメアと嬢ちゃんの仕事だ」
レインは頷いた。全部を自分で握れば、握った卓が詰まった刻に全部が止まる。前にこの拠点を守りの形へ作り変えたとき、繰り返し叩き込まれた形だった。
---
夜半、ドルクが床から顔を上げた。
「来るぞ。……引く刻だ」
深層第一区画の機構の前に、当番の若い作業員が立っていた。手袋の上から弁の握りを掴んでいる。エルメアは締めの外で鈴の紐を握り、レインは締めの手前で中枢に触れていた。自分は下りない。自分で決めた覗き方の取り決めを、今夜も守る。
「四半周。ゆっくり」
若者の腕がわずかに動いた。
金気の擦れる音が細く上がって、止まった。
『流れが増えました』
セレスの光が灯る。
『機構の拍子、上がります。緩衝の効き……落ちます。二割、三割』
『上層に滲みます』
ノアが被せた。
『第一層の光石、明滅を始めました。予定どおりです。人はいません』
誰もいない上層で、直したはずの明かりがまた狂い始めている。レインはその報せを聞き流さなかった。聞き流さずに、手だけは動かさなかった。今夜のそれは事故ではない。払うと決めて払っている分だ。
---
半刻が過ぎた。
『緩衝、四割まで落ちました』
ノアの光が硬くなる。
『停止ラインまで、あと一割です。割れば私は閉じるよう申し上げます』
「奥は」
『変わりません』
セレスの返事は短かった。
『脈動、昨夜と同じ高さ。谷の深さも変わりません。……通したものが届いていないのか、届いて足りないのか、区別がつきません』
レインは奥歯を噛んだ。ここで弁をもう四半周回せば届くのかもしれない。回さずに閉じれば、今夜払った上層の赤が丸ごと無駄になる。指が動きかけた。
その手前で、ドルクの声が床から立った。
「待て」
老坑夫は膝を突いて、床に耳に近い側の頬を寄せていた。
「音が、変わりかけてる。……ざらついてたのが、ほどけかけてる。あと少しだ。回すな。回したら今ほどけかけてるもんが、押し戻される」
「あと少し、とは」
「知るかよ。……水は待つしかねえもんだ」
---
緩衝が五割を割ったとき、ノアの光が閉じるよう告げた。
レインは閉じなかった。
『レイン』
「もう三拍だけ、待ちます」
『根拠を』
「ドルクの耳です」
レインは中枢に手を置いたまま答えた。
「数では、まだ何も出ていません。出ていないから待つのではありません。……この機構がいつから何を配ってきたのか、私たちは知りません。知らない相手の音を聴き分けられるのは、この砦でドルク一人です。数の出ない場所で数を待てば、待っている間に緩衝が折れます」
『記録します』
ノアの声は止めなかった。
『停止ラインを超えた継続が一件。判断者はレイン。……三拍で切ります。三拍を超えた場合、私は減点ではなく、中枢の保全として申し上げます』
一拍。
二拍。
「通ったぞ」
ドルクが床を叩いた。
「音が、すっと通った。……止めろ、今だ」
若者の腕が戻る。金気の音が逆向きに細く鳴って、弁は元の位置へ落ち着いた。
---
『脈動、下がります』
セレスの光が細かく震えた。
『一段。……二段。昨夜の高さを割りました。堰を越えたままだった波が、境界の内側へ戻ります。谷が深くなっています』
『緩衝、回復に入りました』
ノアが続けた。
『四割。五割。……上層の光石、明滅止まりました』
レインは中枢から手を離した。離した指がわずかに震えていた。
開けていない。壁は一枚も動かしていない。奥の何かの姿は見ていないし、名前も形も、帳面の空欄のままだ。ただ、こちらの側の弁を四半周回して、ひと息ぶんの流れを通した。それだけで、堰を越えていた波が寝床へ戻った。
「静かになりました」
レインは誰へともなく言った。
「……鎮めたのではありません。腹が満ちて、また寝ただけです」
---
明け方、上層の人が下りてきた。
リナが宿の者を数え直し、エルメアが担架の二人を元の床へ戻した。第二層の採集は昼から通常どおりに開く。夜のうちに狂った光石は、朝には何ごともなかったように灯っていた。
卓に戻ったレインは、台帳を開いて新しい行を書いた。
――弁の三本目を、谷の刻に四半周。音が通るまで。通ったら戻す。
その下に、もう一行。
――上層を先に空けること。空けずに通さないこと。
書き終えて、レインは筆を置かなかった。まだ書くことがある。この手当ては一度きりでは終わらない。奥は満ちればまた減る。減れば滞る。滞れば跳ねる。次にいつ通すのか、誰が音を聴くのか、聴ける者が一人しかいないならその一人が倒れた日はどうするのか。
深層に下りる当番が一つ。曝露を数える鈴が一つ。そこへ今日から、もう一つ増える。
「固定費です」
レインは書き上げた行を見ながら言った。
「また一つ、終わりの日付のないものを抱えました」
『台帳に載せますか』
ルカの光が控えめに揺れた。
「載せます。隠せば、いつか誰かが黙って背負います」
---
昼過ぎ、ベルダが受付から一枚の書き付けを持って上がってきた。
「引き下げたそうですよ。奥の調査枠」
「ヴェッセンが、ですか」
「ええ。……理由が振るってます。『現地の運用により当面の危険は認められず、緊急の調査の要を欠く』。夜のうちに上が荒れなかったのを、どこかで確かめたんでしょうね」
ベルダは書き付けを卓へ置いた。
「あの人の口実は、奥が危ないってことでした。危ないから中央が扱うべきだ、と。……昨夜うちが上を一度赤にしてまで鎮めたんで、その口実がなくなった」
レインは書き付けの印を見た。押し返した。だが押し返した中身は、こちらが黙って払った一晩ぶんの前払いだ。
「ベルダ。あの人は、次はどう来ると思いますか」
「今度は逆でしょう」
ベルダはこともなげに答えた。
「危ないから寄越せ、が通らないなら――扱えると分かったから寄越せ、です。……昨夜のあれで、あの人はもう一つ知りましたよ。灰霧は奥をなだめられる、って。誰にでもできることなら、誰かに任せればいい。あの人がそう考えるのに、そう時間はかからないと思います」
レインは答えなかった。
卓の隅では、セレスの光が新しい列に一行目を書き足している。読まなかった日の列の隣に、今日から並ぶもう一つの列。通した日と、通した量と、音が通るまでにかかった拍。
開けずに、閉じずに、なだめ続ける。その付き合い方を、灰霧は昨夜たしかに一つ掴んだ。掴んだ手つきは、外からもよく見えていた。




