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除菌から始まる恋なんてアリ? 除菌スプレーを使っていたら、なぜか王子様に溺愛されました。

作者: 貧血みかん
掲載日:2026/03/13

「リリアナ、大変申し訳ないのだけれど、魔物討伐部隊の手伝いに行ってもらえるかしら?」

 

 王城のメイド長は、こめかみを押さえながら少し早口で言った。これは彼女が困った時にする仕草だ。


「魔物討伐部隊………ですか?」


「人手が足りないみたいでね、貴女は光魔法が使えるって言ってたでしょ? 適任だと思うの」


「………でも私、最弱の魔法しか使えませんよ」


「だ、大丈夫よ! 主な仕事はね、治療のサポートと調理の手伝いをするだけなの。もちろん専門の治癒魔法師もプロの料理人もいるから、難しい事は何もないわ」


「そんなラクそうな仕事なのに、誰も立候補者がいないんですか?」


「それは、その、魔物討伐部隊には遠征があるでしょ? 野営が嫌だって敬遠されるのよ」


「…………分かりました。私、行ってもいいですよ」


「えっ! ほ、本当に?」


「お給金、弾んで下さいね?」


「もちろんそのつもりよ! ありがとう、リリアナ」


 鼻歌まじりで去って行くメイド長の後ろ姿を見送りながら、いつもより長めのため息が溢れる。

 また厄介事を押し付けられてしまったわ。

 でも、お給金を弾んでくれるって言っていたし、断る理由はないわね。



 私の名は リリアナ・ベルナーレ、年齢18歳、貧乏男爵家の一人娘。彼氏なし、婚約者もなし。現在は王城で出稼ぎ中だが、先ほど勤務地が変更になった。

 

 魔物討伐部隊は国を守る重要な部隊ではあるが、危険で過酷で泥臭くて華がないとか言われていて、ご婦人方には人気がない。

 仕事の募集が近衛騎士団の手伝いだったなら、きっと立候補する娘達が殺到していただろう。


 王城で働くメイドは男爵家か子爵家の家柄が多い。

 すでに婚約者がいて、結婚前に社会勉強をしに来ていますって感じの子もいれば、お相手を探すために働きに来ている子も大勢いる。


 王城は優良物件に出会える確率が非常に高いのだ。

 運良く大貴族様に見初められたりしたら、逆転さよならホームラン! なんて事も全然あり得る。


 だからどんなに給金が良くても仕事がラクでも、魔物討伐部隊には誰も行きたくないのだろう。

 魔物討伐部隊には大貴族様はいないものね。

 正確には、有力貴族のご子息様とかがいるのだけれど、次男坊とか三男坊とか領地なし貴族が多いのだ。

 

 でも、私には魔物討伐部隊勤務はむしろ好都合。

 だって別に、逆転さよならホームラン! なんて望んでいないもの。

 地位とか権力とかどうでもいい。

 私が未来の旦那様に求める条件は、とにかく健康な体をしていて、貧乏領地への婿入りを文句を言わずに受け入れてくれる人だ。

 

 我が家は一応、男爵家ではあるが金はない。

 ちっちゃな田舎の領地を何とかやりくりして慎ましく暮らしている。

 借金はないが常にギリギリの経済状況。

 平常時なら問題はないけれど、災害でも起きたら結構まずいかもしれない……と思う。


 私が絶世の美少女だったなら、逆転さよならホームラン! もあったかもしれないが、残念ながら私の顔はごくごく普通のモブ顔である。

 

 上京したばかりの頃は、もしかしたら私にも素敵な出会いがあるかも? なんて憧れたりもしたけれど、さすがに3年も経つと現実が見えてくる。


 とにかく今は、堅実に働いて貯蓄をして自分に合ったパートナーを見つけるのが目標だ。

 高望みはしない。でも、出来れば誠実で互いを思い合える人がいい。


 王城は出会いも多いが競争率も高いのだ。

 美しい娘、スタイルがいい娘、実家が太い娘、才能がある娘……の順で売れていく。


 ちなみに私のセールスポイントは、丈夫な体と打たれ強い性格と少しだけ光魔法が使えるって事くらい。

 それと、前世の記憶があるのだけれど、これは特に役に立たないから、セールスポイントにはならないかもしれない。


 光魔法の使い手には時折り、前世の記憶をもった娘が生まれる事がある。

 中には、その記憶を使ってのし上がっていく娘もいるが、実際はそう上手くはいかないものだ。

 私だって前世の記憶を持っているが、今世の人生で役に立った事は一度もない。


 私の前世は、日本という異世界で事務という仕事をしていた地味で内気な女性だった。

 何歳の頃に亡くなったのか、どうして亡くなったのかは覚えていない。


 記憶に残っているのは、幼い頃に病気がちだった事と生きていくのって辛いなぁ……と感じていた事。

 前世の私は、良く言えば物腰柔らかで丁寧に生きている人。悪く言えば自分の意見を主張するのが苦手な繊細すぎる人だった。


 なかなか子供に恵まれなかった両親の元に生まれてきた私は、体が弱かったのもあって、それはそれは大事に育てられた。

 外遊びなんてほとんどしなかったし、幼稚園も小学校も休んでばかりいた。

 とにかく風邪を引かないように、ケガをしないようにと大切に大切に育てられたのだ。


 元来、内気で大人しい性質だったのかもしれない。

 争い事が苦手で誰に対しても気を使い、何か言いたい事があっても我慢してしまうのが日常だった。


「〇〇さんって、凄くキレイ好きだよね〜!」

 この言葉に、ストレスを感じるようになったのはいつ頃からだろうか?

 常にマスクをして、携帯用の除菌スプレーとウエットティッシュは必ず持ち歩くようになっていた。


 不特定多数の人が触る物が汚く思えてしまって、それらに触るのが苦痛だった。

 お金とか吊り革とか、なるべく触りたくない。

 誰かが口を付けた物なんて絶対に食べたくない。

 回し飲みは無理だし、同じ鍋をつつくのも無理。

 この世の中はバイ菌だらけ。私の手は除菌と洗いすぎでいつもガサガサにひび割れていた。


 そんな自分が大嫌いで、細かい事を気にしない性格になりたいのに、大らかに生きたいのに変えられない。

 とてもとても息苦しい毎日。


 …………とまぁ、そんな感じの前世だったんだよね。

 何と言うか、生きにくい性格だったなって思う。

 それで、今世は真逆の性格に生まれたのよ。

 良く言えば大らか、悪く言えばガサツ。

 言いたい事はズバズバ言うし、人にどう思われようとあまり気にしない。

 って言うか、気にしてる余裕がないのよ!


 だって私、もう18歳なのよ?

 前世ならピッチピチの女子高生だけれども、今世ではすでに行き遅れ!

 早く未来の旦那様をゲットしなければならないのだ。

 でもね、焦ってはダメなのよ。

 焦って変なのを捕まえたら目も当てられない。

 

 魔物討伐部隊は不人気職業ではあるけれど、体力があって、正義感の強い人が多いと思うのよね。

 だって命をかけて魔物と戦うんだもの、きっと貧乏にも負けない根性がある人がいるはず。


 欲を言えば、真面目で優しくて私を好きになってくれる人がいたら最高なんだけどね。

 でも贅沢は言わないわ。貧乏領地と私を受け入れてくれる人なら、恋愛感情とかなくても全然OK!



 ………って感じで、意気込んで魔物討伐部隊に来たものの、魔物討伐部隊の人ってみんな彼女がいるっぽい。


 私のイメージではさ、男子校の中に女子が入ればモテる? みたいな感じを想像していたんだけどね。別に外に出ればいくらでも女性はいる訳で、貴族女性には不人気でも、街にはいくらでも可愛い女の子達がいるのよね。

 

 体を鍛えていてお金もあって、紳士的で正義感が強い男性なんて、普通に考えたらそりゃモテるわよ。

 私、3年も王城で働いていたから、考え方が貴族寄りに歪んで視界が狭くなっていたみたい。


 まぁ、人生ってこんなものよね。

 探しモノって必死になって探している時には、何故か見つからなかったりするのよ。

 そのうち私にも運命の相手が現れるかもしれないし、今はとにかく仕事を頑張ろうと思う。


 別に、お相手を貴族に限定する必要もないのよね。

 王城にいた時は周りに感化されて焦っていたけれど、そんなに焦る必要もないような気がしてきたわ。

 

 それにね、未来の旦那様の話はともかく、魔物討伐部隊って実は凄く働きやすい職場なのよ。

 口が悪い人が多いけど、みんな女性に優しいのよね。


 野営をする時は、私専用のテントを必ず用意してくれるし、魔物討伐中も怖い思いをしないようにって、かなり気を使ってもらっていると思う。


 治療魔法師や料理人のおじさんも「女の子がいると、華やかで癒されるなぁ」とか言って良くしてくれるし、基本的にキツい仕事は任されない。


 あんなに給金をもらっているのに、こんなヌルい仕事で本当にいいの? って言いたくなるレベル。

 とにかく、私にとっては最高の職場なんだけど、ただ一つだけ気になる事があるのよね。

 


「いい加減にしろよ? また勝手に帰りやがって! 」


「……………」


「おい! 何とか言えよ? どうせ、俺らの事なんてどうでもいいって思ってるんだろ?」


「まーまー、ちょっと落ち着けよ? な?」


「これで何度目だ? もう俺はチームを抜ける。信頼出来ない相手とは組めない!」


「まぁ、そう言うなって。シエル殿下は、まだ慣れていないんだ。俺も出来るだけフォローするし、もう少しだけ一緒にやろうぜ? な?」


「…………なら、酒奢れよ? 高いやつ」


「おう、任せろ。とっておきのを飲ませてやるよ」


「チッ! 次はないからなっ!」   


 薄茶色をした短髪の隊員は、怒鳴るように言い捨てるとドカドカと足音を立てて去って行った。


 

「いや〜ごめんね、リリアナちゃん。怖かったよね?」


「あ、いえ、大丈夫です」


「アイツさ、いい奴なんだけど怒りっぽいんだよね」

 

「あー……その、だいぶ怒ってましたね」


「いやでもね、これはハッキリ言ってシエル殿下が悪いんだよ。ね? シエル殿下?」


「…………わ、悪かったと……思っている」


「ちゃんと反省して下さいね?」


 ウェーブのかかった金髪の隊員は、慣れた様子でウィンクを飛ばすと、軽い足取りで去って行った。


 ちなみにここは、私のテントの目の前。

 そしてこの場に残っているは、私とシエル殿下だけ。


 えー…………これ、どうしたらいいの?

 テントに入りたいんだけれど、このまま王子様を放置しておくのってありかな?


 いやいや、もちろんなしでしょ。分かってるよ。

 それにさっきの会話で何となく察しがついた。

 確か、数日前も同じような事で揉めていたもの。


 シエル殿下は時々、魔物討伐中にいなくなってしまうそうなのだ。理由はよく分からない。本人もただ謝るだけで、説明とか一切しないらしいし。

 ぶっちゃけて言うと、魔物討伐部隊でのシエル殿下の評判って最悪なんだよね。


 食事も他の隊員達と一緒に食べないし、お酒を誰かと飲んでる姿だって見た事がない。会話もしない。

 いつも一人で離れた場所で本を読んでいる。

 だから隊員達はみんな『どうせ殿下は、俺らを仲間だなんて思ってないんだろ?』と苛立っているのだ。


 シエル殿下が魔物討伐部隊に入隊したのは、私がここで働き始めて少ししてからだった。

 シエル殿下は、剣術大会で何度も優勝をしている剣の達人で、剣の腕は国内トップクラスと言われている。

 

 元々は、第一騎士団に所属していたが、少ししてから第二騎士団に移り、さらにその後は第三騎士団に移り、第四、第五、第六、第七……と異動が続いて、現在は魔物討伐部隊にいる。


 最初の頃は『うちの部隊に剣の達人の王子様が入隊するらしいぞ!』って盛り上がっていたんだよね。

 シエル殿下からも『特別扱いはしないでほしい』とか『敬語は使わないでほしい』とか『部屋は他の隊員達と同じ相部屋で』なんて要望が来てたから、ますます盛り上がって歓迎ムードだったんだよ。


 でも、実際にやって来た王子様は、協調性はないし、やる気もないし、仲良くする気もないような人物だったから、みんなガッカリしてしまったんだと思う。


 シエル殿下は、この国の13番目の王子様なんだけれど、少々訳ありで複雑なお立場なのだ。

 確か、お母様は隣国の踊り子だったんだよね。

 それはそれは美しい女性で、王様が強引に側室にしてしまったという噂がある。

 

 でもその女性は、シエル殿下を産んで少ししてから、我が子を残したまま国へ帰ってしまったらしい。

 何があったのかは分からないが、王城に一人残されたシエル殿下が冷遇されていたのは間違いないだろう。


 輝かんばかりの白銀の髪と夏の海を閉じ込めたようなコバルトブルーの瞳。シエル殿下の容姿は、おそらくお母様似なのだと思う。

 少し怖いと感じるくらい整った顔をしているもの。


 不遇の王子様が頭角を現したのは一年前の事だ。

 剣術の大会にふらりと現れて、名のある騎士を次々と倒し、あっさり優勝してしまったのだ。

 その後もいくつかの大会に出場し、世間に忘れ去られていた王子様は一気に時の人となった。


 一時期は、その強さと美しさが大絶賛されて、ファンクラブがいくつも出来たそうだが、第一騎士団所属後に第二騎士団に移り、さらに第三騎士団に移ったあたりから、あまり話題には上がらなくなった。

 

 

「あ、あの、シエル殿下、もしよろしければお茶でもいかがですか? ここ、私のテントなんです」


 一応、声を掛けてみた。人嫌いで有名な王子様がお茶の誘いになんて乗る訳ないのは分かってるけれど、このままじゃテントに入れないもの。


 少しの沈黙の後、シエル殿下はコクリと頷く。

 えっ? 今、頷いた? 一緒にお茶をするって事?


「あ、えーと、では、こちらへどうぞ」


 先にテントに入り、入り口を開けて待っていると、シエル殿下も中に入って来た。

 ちょっと待って? 自分で誘っておいて何だけど、本当にお茶をする気なの?


「…………靴を、脱ぐのか?」


「えっ? あ、はい。そこで、靴を脱いで下さい」


 し、しまった! 靴を脱げとか言っちゃったよ! 

 私には前世の記憶があるせいで、どうしても室内で靴をはいているのに抵抗がある。

 

 王城の寮生活では他の人に合わせていたけれど、最近はずっと一人部屋だったから、室内で靴を脱ぐのが習慣になっていたのよね。だから、もちろんテント内も土禁仕様だ。

 

 何か言われるかと身構えたが、シエル殿下は淡々と靴を脱ぎ、私の靴の隣に自分の靴を置いた。

 な、なんか意外……と言うか拍子抜けな感じ。

 

「あ、えーと、こちらに座って下さい」


 テントは三人用なので広めだが、持ち運びを考慮した貧乏丸出しの家具しか置いていない。

 中古品の簡易ベッドと閉店セールでゲットした一人用の椅子と小さなテーブル。

 さすがにベッドに座らせる訳にはいかないので、折り畳み可能な簡素で質素な椅子を勧めた。


 今度こそ不敬って怒られるかしら? とドキドキしたが、シエル殿下は何も言わずに静かに椅子に座った。

 ほんの一瞬、長めの前髪からのぞく青い瞳と目が合ってドクリと心臓が飛び跳ねる。

 私は別に面食いではないのだが、シエル殿下はあまりにも顔が良過ぎるのだ。


 と、とにかくお茶を用意しなければっ!

 水の入った皮袋と紅茶の缶を鞄から取り出し、ポットに火の魔石をセットする。

 

 えーと、ティーカップは……そ、そう言えば、ティーカップって1つしか持ってないんだったわ!

 うーん………私の分はお椀でもいいかしら?


 仕方がないので、お椀とティーカップをテーブルの上に並べてみた。

 何ていうか、生活感が滲み出ちゃってるわね。

 せめて除菌だけでもしておこうかしら?

 鞄から除菌スプレーを取り出し、プシュプシュと多めにティーカップに振り掛ける。


「それは、何だ?」


「あ、これですか? 除菌スプレーです」


「ジョキン?」


「あー…えーと、不浄なモノをやっつけてキレイにする事が出来るスプレーなんです」


「不浄なモノをやっつける?」


「はい。実は私、少しだけ光魔法が使えまして、効果の弱い聖水を作る事が出来るんです。これはその、一般的な聖水と違って、病気を治したり魔物を倒したりは出来ないんですけど……ケガの化膿を止めたり、食べ物を腐りにくくしたり、ようするにバイ菌をやっつける事が出来るんです」


「ほぅ、それは凄いな」


「いえいえ、全然凄くはないですよ。だって最弱の聖水ですから」


「だが、不浄なモノをキレイに出来るのだろう?」


「まぁ……そうですけど」


 シエル殿下は、キラキラした瞳でじっと除菌スプレーを見つめている。よほど気に入ったのだろうか?


「えーと、あのー……もしよろしければ、これ差し上げましょうか?」


「えっ! いいのかっ!?」


「まぁ、いくらでも作れますし」


「いくらでもだと?」


「最弱の聖水ですから、大量に作れるんですよ」


「本当にもらっていいのだな?」


「ええ、どうぞ」


 シエル殿下は大事そうに除菌スプレーを受け取ると、さっそく自分の手のひらに吹きかけた。


「ふむ、これで手がキレイになったという事だな?」


「そうですね。あとは、ニキビや肌荒れなんかにも効果がありますよ。まぁ普通の聖水を使った方が断然早く治りますけどね」


「他には、どんな効果があるのだ?」


「えーと…アンテッド系の魔物に嫌がらせが出来ます」


「ぶはっ!…………あ、いや、すまん」


「いいですよ別に。これを言うといつも笑われるので。あ、あと、汚れや臭いを消すのにも使えます」


「おぉ! それは便利だな」


 その後も除菌スプレー談義に花が咲き、シエル殿下は紅茶を3杯おかわりして、上機嫌で帰って行った。

 人嫌いだと思っていたけれど、違うのかしら?

 とりあえず、不敬だとか怒られなくて良かったわ。

 

 意外と話しやすい?……と言うか普通に楽しかった。

 あんなに除菌スプレーに食い付いてくる人は初めてだ。大抵の場合は、ネタにされて笑われて終わるのに。


 一般的に流通している聖水は、かなり高額ではあるが、その値段に見合った価値がある。

 大ケガや病気も治せるし魔物だって倒せるのだ。

 特に効力の強い聖水は、失った手足を生やす事だって出来るし、アンテッド系の魔物を一瞬で消し去るなんて事まで出来てしまう。


 それに比べて私の聖水ときたら……消毒に除菌、臭い消しに汚れ落とし、魔物に振り掛けても嫌がらせ程度にしかならないんだもの、そりゃ笑われるわよね。


 だけどシエル殿下は、そんな弱々聖水除菌スプレーを嬉しそうに受け取ってくれたわ。

 しかも「凄い」とか「それは便利だな」なんて、たくさん褒めてくれたし……実は良い人なのかしら?


 確かに私の聖水って最弱ではあるけれど、使い勝手は良いのかもしれない。

 価格を安くして商品化したら、ちょっとした商売になるかもしれないわね。

 

 医療品じゃなくて日用品として販売すればいいのよ!

 除菌スプレー、美肌&手荒れ用化粧水、汚れ落とし&臭い取り洗剤……とか?

 うん、いいかもしれない! 売れそうだわ。

 

 翌日、私は弱々聖水の小瓶を数本ポーチに入れた。

 とりあえず料理人のおじさんに渡して、感想を聞かせてもらうのだ。

 鍋とか皿とかの洗い物に使ってもらおう。


 私はワクワクしながら仮設食堂に向かい、隊員さん達と一緒に山盛りの朝食に手を伸ばす。

 今朝もシエル殿下はみんなの所には来なかった。

 一人でテントで食べているのかしら?

 いつもと同じ風景なのに、少し寂しい気がした。

 

 どうしてシエル殿下は、みんなと一緒に食事をしないのかしらね?

 人嫌い……ではないはずなのに。

 だって昨日は、あんなにたくさんお喋りをして、紅茶だって一緒に飲んでくれたもの。

 ボンヤリ考えていると、大きな話し声が聞こえた。


「昨日は散々だったよな〜」


「あぁ、ゾンビは弱いくせに臭いは最強だからな」


「やめろ! 思い出させるな! メシが不味くなる」


 隊員達は楽しそうに語らいながらも、バクバクと大量の食事が吸い込まれていく。

 見ていて気持ちのいい食べっぷりだ。

 つい、つられて私まで食べ過ぎてしまっている。

 おかげで最近、体が重い。

 

 食事が終わり、隊員達が席を立ったので、汚れた食器をまとめて流し台へと運ぶ。

 簡易流し台には、水の魔石がはめ込まれていて、洗い物が出来るようになっている。

 

 とは言え、魔石はとても高価なのだ。

 水は大事に使わなければならない。遠征中は特に。

 そこでこの弱々聖水の出番だ!

 弱々聖水は、魔物を消す事は出来ないけれど、汚れを消す事は出来る……はず。


「面白そうだね。よし、試してみよう!」


 料理人のおじさんは、楽しそうに弱々聖水を受け取ると、さっそく使ってくれた。

 焦げ付いた鍋に数滴、油汚れが酷い皿に数滴、茶渋が取れないカップに数滴。

 少しおいてから、軽くこすってみる。


「おぉぉ!? こ、これは凄いっ!」


 焦げ付いた鍋もギトギト食器も茶渋の汚れも、あっという間にピカピカになったのだ。

 正直、私も驚いた。

 何となく汚れが落ちるとは思っていたけれど、洗剤として使った事はなかったから。


「リリアナちゃんっ! これは、どこで買えるんだい?」


「えっと、その、これは試作品でして、そのうち商品化したいとは考えているのですが……」


「是非、うちで買わせてもらうよ。出来るだけ早く商品化してほしい!」


 興奮状態のおじさんに圧倒されながらも、値段をいくらにすればいいかの相談をした。


 おじさんは、だいぶ強気な値段設定を提案してくれたので「高すぎませんか?」と聞いたのだが「いや、これでも安すぎるくらいだ。これ以上は下げられないよ!」と、誰目線だかよく分からないアドバイスをくれた。


 弱々聖水の威力は凄まじく、普段の半分の時間で全ての食器がピカピカになった。

 洗い物が終わったので、次は医療用テントに向かうと、治療魔法師のおじさんが頭を抱えて唸っている。


「あのー……どうしたんですか?」


「あぁ、リリアナちゃんか………いや〜実は、洗濯物があまりにも多くて、途方に暮れていたんだよ」


 へたり込むおじさんの隣りには、汚れた衣類が山のように積み重なっていた。


「昨日、ゾンビが出たらしいんだ。それでこの有様さ」


 以前は、魔物討伐部隊にも専門の洗濯係がいたそうだが、経費節減のため人員が削減されたらしい。

 遠征中、隊員達は自分の服は自分で洗い、あまりにも汚れが酷い物だけ治療魔法師が浄化の魔法を使う。

 

 昨日はゾンビ系の魔物と戦ったそうなので、おそらく服には酷い汚れと腐敗臭が染み付いているのだろう。

 浄化の魔法は、それほど魔力を消耗しないと聞いてはいるが、これだけ大量の洗濯物を全て浄化するとなると相当大変だと思う。


「あの、もし良ければ、コレ使ってみます?」


「ん? それは何だい?」


「効力の弱い聖水です。さっき、食器を洗うのに使ってみたら簡単に汚れが落ちたので、もしかしたら洗濯にも使えるかもしれません」


「うーん、効力の弱い聖水か……普通の洗剤を使うよりも効果があるかもしれないね」


 おじさんと私は、タライに水を張って大量の洗濯物を入れた。とんでもなく酷い臭いだ。

 水はあっと言う前にドス黒い緑色になった。

 ゾンビの血って緑色のが多いんだよね。

 たまに紫のヤツもいるらしいんだけど、臭いはどちらも同じくらい臭いそうだ。


 刺激臭で涙が出たが、必死で堪えながらタライにドバドバと弱々聖水を投入する。

 すると少しずつ臭いが収まってきた。

 そして、水の色も段々透明になってきたのだ。


「こ、これは凄いっ! リリアナちゃん! この聖水、うちでも買わせてもうらうよ!」


「あ……ありがとうございます」


 そして、価格の話をすると「ダメだっ!それでは安すぎる!」と怒られた。


「でも、最弱の聖水だから大量に作れるんです。あまり高くすると買ってもらえないかもしれないし…」


「いやダメだ。これは君にしか作れない聖水だろ? 付加価値がある。安売りしてはいけない。むしろ数量を減らしてブランド化すべきだ!」


 結局、価格や分量については、治療魔法師のおじさんと料理人のおじさんが話し合って、これが妥当だろうという金額が定められた。


 私にとっては「そんなに高くするの!?」とビビるくらいの値段だったけれど「これ以上は負けられないよ」と熱く語るおじさん二人に何も言えなかった。


 すっかりキレイになった洗濯物を干していると、隊員達が数人、歩いて来るのが見えた。

 まだお昼前なのに、今日はずいぶん帰りが早い。

 すると、隊員の一人が小走りで近づいてきた。


「リリアナちゃん、これ全部洗ってくれたの!? 汚れを落とすの大変だったでしょ?」


 爽やかな笑顔が眩しい年若い隊員だ。

 どうやら彼は風魔法使いのようで、短い詠唱を唱えると、温かい風がクルクルと辺りを舞い始めた。


「…………よし! これで乾いたと思うよ?」


「わぁ〜凄いっ! ありがとうございます!」


「こちらこそ、キレイにしてくれてありがとね」


 青年は優しく微笑むと「それじゃ、またね」と言って去って行った。

 やっぱりここは、最高の職場だわ!

 みんな優しくて親切だ。私に…と言うよりも、女性に対して紳士的なのよね。


 鼻歌まじりで洗濯物を取り込んでいると、後ろの方で小さな声がした。


「…………ずいぶん、仲が良いのだな」


「ん?……あ、シエル殿下? お帰りなさい。今日は早いお戻りなんですね」


「あぁ、討伐が大物一体だけだったからな。小物がたくさん出るより早く片付いた」


「へぇ、そうなんですか」


「君は、その、リ、リリアナは……まだ仕事なのか?」


「私もあと少しで終わりです。洗濯物をたたんで、みなさんに届けたら上がりなんです」


「それなら、その、君のテントに行ってもいいか? 除菌スプレーの補充を頼みたいんだ」


「分かりました。では、先にテントで待っててもらっていいですか? 大急ぎで仕事を終わらせてきます」


 私は洗濯カゴを抱えて医療用テントに向かった。

 今日は本当に良い日ね。早く仕事が終わりそうだし、弱々聖水は大好評だったし。

 あの感じなら、商品化も夢じゃないわ。


 鼻歌まじりでテントに入ると、ケガをした隊員が治療を受けていた。

 一瞬ギクリと体が強張るが、大きなケガではない様子にホッと息を吐く。

 良かった。治療の手伝いは必要なさそうね。


 やはりここは、魔物討伐部隊なのだ。

 隊員達は命をかけて戦っている。

 自分はまだ体験した事はないが、治療が間に合わずに亡くなってしまう事だって起こり得うるのだ。



「これはな、新しい消毒薬だ。今後、軽いケガにはこれを使おうと思う」


「へぇ〜新しい消毒薬か。あまり染みないんだな。変な臭いもしないし」


「化膿もしないし治りも早いはずだ。数日後にまた感想を聞かせてくれ」


 上機嫌で話す治療魔法師の手元を見てギョッとする。


「ちょ、ちょっと、それ、私の聖水じゃないですか?」


「あ、リリアナちゃん、お帰り。これね、消毒薬としても試してみる事にしたんだよ」


「いやいやいや、ちゃとした消毒薬があるでしょ? そっちを使って下さいよ!」


「だってさ、リリアナちゃんの聖水の方が断然安いし、効果もありそうな気がするんだよね」


「そんな適当でいいんですか?」


「大丈夫、大丈夫。とりあえずは様子見で、軽いケガにしか使わないから」


 私はカラカラと楽しげに笑うおじさんに冷たい視線を送りながらも、洗濯物をたたみ始めた。

 先ほど、風魔法をかけてもらったおかげで、洗濯物はフワッフワに仕上がっている。


「リリアナちゃん、それね、たたみ終わったのそこに置いといていいよ」


「え? 届けなくていいんですか?」


「いいよ、取りに来させるから」


「そうなんですか? じゃ、じゃあ、お先に失礼します」


「はい。お疲れ様〜」


 やはりどう考えても仕事が楽すぎる。

 私、これに慣れてしまったら、もう他の所で働けなくなるのではないだろうか?……と、そんな事を考えながら自分のテントへ急いで移動した。


 シエル殿下は、本を読んで待っていてくれたらしい。

 彼が座っているだけで、安物の椅子が神々しく見えるのだから不思議だ。


「お待たせしました! シエル殿下」


「いや、それほど待っていないよ」


 優しく細められた瞳がそっと私を捉える。

 またドキリと心臓が飛び跳ねた。

 これは、何と言うか、顔が良すぎではないかしら?


「あ……えーと、除菌スプレーの補充でしたよね?」


「あぁ、頼めるか?」


「はい。 大丈夫です」


「実はもう空になってしまったんだ」


「えっ? 1日で全部使ってしまったんですか?」


「面目ない……」


「いえいえ、使ってもらえて嬉しいです。それってつまり気に入ってもらえたって事ですよね?」


「あぁ、とても気に入っている」


「ありがとうございます。実は昨日、この聖水を商品化しようって思い付いたんです。それで、他の人にも試してもらったんですけど、それが意外と好評で!」


「…………商品化、するのか?」


「はい。シエル殿下のおかげなんです! 昨日、たくさん褒めていただいたので、その、自信がついたと言うか、一歩踏み出す勇気が持てたんです」


「…………そうか」


「あ、もし良かったら、大きいサイズの物と交換しましょうか? でも、外に持ち歩くのなら荷物になってしまいますかね?」


「そうだな、出来ればサイズはこのままがいい。リリアナが毎日補充してくれるのならな」


「お安い御用です。ちなみに、シエル殿下はどのようにお使いになったのですか? 参考までに教えて下さい」


「色々使ってみたが、特に服と剣が良かった」


「えっ? ………け、剣に使ったのですか?」


「あぁ、昨日ゾンビを斬ってから、ずっと臭いが取れなくて困っていたんだが、除菌スプレーをかけたら一瞬で臭いが消えたんだ」


「それ、斬れ味が悪くなったりしませんでした?」


「むしろ良くなったぞ。輝きも増したしな」


「それなら良かったです」


「あと、服にかけたら汚れが付きにくくなったぞ。魔物の血や泥も軽く払うだけで落ちた」


「えっ! 本当ですか?」


「手や食器に使うのも良いな。安心して食事が出来る」


「色々と使ってもらえて嬉しいです。何かあったらまた教えて下さいね」


「あぁ、分かった」


 その日、シエル殿下は紅茶を2杯おかわりして、補充した除菌スプレーを大事そうに胸ポケットに入れて帰っていった。


 そしてやはり、その日の夕食も次の日の朝食もシエル殿下は食堂には来なかった。

 どこかで一人で食べているのかしら?

 

 魔物討伐部隊でのシエル殿下の評判は今だに最悪だ。

 シエル殿下は別に嫌な人じゃないのに、むしろ良い人なのに、みんなに誤解されているのがもどかしい。


 たぶん会話をしないのが良くないのよね。

 一度、腹を割って話をすれば、誤解が解けると思うんだけどな。

 

 この日の討伐はだいぶ手こずったみたいで、隊員達の帰りは遅かった。

 ケガをした隊員も数名いるらしく、雰囲気がピリピリしている。


「リリアナちゃん、今日はもう上がっていいよ」


 おじさん二人にそう言われたので、自分のテントに戻ろうとしたら、少し先からシエル殿下が歩いて来るのが見えた。何やら、右頬が赤くなって腫れている。


「シ、シエル殿下っ! 顔から血が出ていますっ!」


「少し切っただけだ。問題ない」


「でも、血が………治療してもらいましょう!」


「大丈夫だ。舐めておけば治る」


「そんなとこ、どうやって舐めるんですか? それに舐めるのは良くないんですよ! 傷口にバイ菌が入っちゃうんですから!」


「それなら、リリアナの聖水で消毒してくれ」


「あ〜もう!…………では、こちらに来て下さい」


 テントの入り口を開けると、シエル殿下は慣れた様子で靴を脱ぎ、私の靴の隣にそっと並べた。


「これ、だいぶ深く切れてますよ?」


「大丈夫だ。問題ない」


「問題大アリですよ! キレイな顔なのに……」


 ハンカチに聖水を染み込ませて傷口を拭くと、あっと言う間にハンカチは真っ赤に染まった。


「すまない。汚してしまったな」


「そんな事はどうでもいいんです。早く治療をしてもらいましょう?」


「大丈夫だ。君の聖水で消毒したのだから」


「私の聖水は、そんなに万能じゃないんですよっ!」


 何故だか楽しそうに微笑んでいるシエル殿下に、少しイラッとする。

 こっちは本気で心配しているのに、この態度は何なのかしら?

 もっと自分の顔の希少性を自覚してほしいわ。


「リリアナ、今日はお茶を入れてくれないのか?」


「…………お望みなら、お入れします。でも、お茶を飲んでいる場合ではないと思いますけどね」


 ポットに水を入れる様子を眺めながら、シエル殿下はまだ楽しそうに笑っている。

 本当にもう何なのかしらね? 人の気も知らないで。


 そっちがその気なら、私だって言いたい事があるわ。

 今までずっと聞けなかったけれど、今ならこの怒りに任せて聞ける気がする。

 

「あ、あのっ………シエル殿下はどうして、食堂で食事をしないのですか?」


「それは、その………不快な思いをさせないためだ」


「不快な思い?」


「私は、気の利いた話も出来ないし、大皿で食事をするのが苦手なんだ。祝い酒も飲む事が出来ない」


「祝い酒って……ボトルを回し飲みするアレですか?」


「そうだ。どうしても、人が口を付けた物を口にする事が出来ないのだ」


「つまりそれって、潔癖症って事ですか?」


「ケッペキショウ?」


「あ、いえ、キレイ好きって意味です」


「そう……だな。良く言えばそうかもしれない。神経質すぎると自分でも分かってはいるのだが……どうしてもダメなんだ」


「なるほど。では、それを隊員の皆さんにお伝えすればいいのでは?」


「そ、そんな事を言ったら、凄く感じが悪いだろ? 仲間が口を付けた物に抵抗を感じるだなんて……」


「でも、副隊長も同じですよ。人が口を付けた物は口に出来ないって言っています」


「えっ! そうなのかっ!?」


「はい。いつも食事は先に取り分けていますし、祝い酒にも参加しません」


「そ、それでいいのか? 皆は気分を害さないのか?」


「皆さん、特に気にしてませんよ」


「そ、そうなのか………?」


「シエル殿下、今日の夕食は食堂で食べませんか? もちろん料理は先に取り分けますし、皆さんには私から事情を説明します。それでもご不安でしたら、ずっとお側におりますから」


「そう………だな。よろしく頼む」


「はい。お任せ下さい! では、このお茶を飲んだら治療に行きましょうね? 顔が切れてるままでは、食堂に行けませんから」


「あぁ、分かった」


 そして、無事治療を受けたシエル殿下は、恐る恐るといった様子で仮設食堂に足を踏み入れた。

 隊員達はみんなギョッとしていたが、事情を説明したら納得したらしい。

 少し気まずい雰囲気も、食事を始めた数分後には普段の状態に戻っていた。隊員達は基本的に細かい事を気にしないのだ。


 食事が終わり宴会モードに突入すると、副隊長が酒とグラスを持って近づいて来た。

 どうやら彼は、今まで『繊細』だの『神経質』だのと揶揄されていたので、仲間が増えて嬉しいらしい。


「なるほど………シエル殿下の肉体強化魔法は、加減するのが難しいって事か。つまり、ゾンビやスライムのような弱い魔物だと、木っ端微塵にしてしまうのだな?」


「あぁ、弱い魔物が相手だと肉片の雨が降る事になる。力をコントロール出来ればいいのだが、なかなか難しくてな」


「もしかして、シエル殿下が討伐中にいなくなるのって、それが理由だったりします?」


「そうだ。特にゾンビの汚れは厄介だからな。なるべく隊から離れた場所で討伐をするように心掛けている。私は、速度強化で肉片を避ける事が出来るが、他の隊員には迷惑になるからな」


「そ、そうだったのかっ! お、俺は、シエル殿下を誤解していたのだな……」


「でも、どうしてその事を隊員の皆さんに伝えなかったのですか?」


「伝えた方が良かったのか?」


「当然です! ホウ・レン・ソウは大事ですよ!」


「ホウレンソウ?」


「報告、連絡、相談の事です」


「耳が痛い話だな。それは俺も全く出来ていなかった。むしろ、副隊長という立場でありながら、問題を放置し続けた俺の方が断然悪い。その………申し訳なかった。明日からは、シエル殿下の能力を考慮して隊列を組み直そうと思う」


 その後もシエル殿下は、数人の隊員と酒を飲み交わし、宴会がお開きになるまで帰らなかった。

 そして、隊員達とシエル殿下のギスギスした雰囲気は、いつの間にかなくなっていた。



「リリアナ、おはよう」


「おはようございます。シエル殿下」


 次の日の朝、シエル殿下は食堂に入ると当たり前のように私の隣に腰を下ろした。


「えーと、あの………少し、近くないですか?」


「そうか? 別に普通だと思うが?」


 早朝から麗しい顔がすぐ隣にいると、少し気まずい。

 山盛りの肉団子スープが急に恥ずかしくなってくる。


「それ、好きなのか?」


「あ、はい。実はこれ、我が家のレシピで作った肉団子なんです。ハーブが効いているので好みは分かれると思うのですが………って、シエル殿下!?」


「ムグムグ………こんなにたくさんあるのだから、1つくらい食べてもいいだろう?」


「あの、それは別に良いんですけど、でもこれ、私が口を付けたスープですよ? 嫌じゃないんですか?」


「リリアナのなら………その、大丈夫だ」


 ん? シエル殿下って潔癖症じゃなかったの?

 確か、人が口を付けたものを口にする事が出来ないって言ってたよね?


 私は前世で潔癖症だったから気持ちが分かる。

 人が口を付けたものを食べるなんてあり得ないのだ。


 いや、待てよ? 確か例外もあった。

 潔癖症を拗らせていた私でも、両親と従姉妹のミナちゃんだけは大丈夫だったのだ。

 一緒にお鍋をつついたりもしたし、食べかけのアイスを一口もらった事もある。

 それでも、嫌だとか汚いとか一度も思わなかった。


 もしかしたら……潔癖症が発動するのって、心の距離が関係しているのかもしれない。


 前世の会社員時代、係長が近づいて来るのは不快だったけれど、同僚の鈴木さんが近くにいても、特に嫌だと感じる事はなかった。

 短気で怒りっぽい係長と違って、鈴木さんは穏やかで優しい人だったから。

 

 もしかしたら、潔癖症は心の信号なのかもしれない。

 言いたい事が言えず、ずっと我慢し続けた心が必死で出した身を守ろうとするサイン。

 だから、心を許している相手には発動しないのだ。


 ん…? あれ? つまりそれって、シエル殿下が私に心を許してくれてるって事なのかしら?

 こっそり隣りを見ると、青い瞳と目が合った。

 夏の海を閉じ込めたような美しい瞳が、私を映して優しくほころぶ。

 私の心臓は、またドキリと飛び跳ねた。


 その日からシエル殿下は、魔物討伐部隊で大活躍するようになっていった。

 もともとポテンシャルが高い人なのだ。なんせ、剣の腕は国内トップクラスなのだから。



「リリアナ、除菌スプレーの補充を頼みたいのだが」

 

「あ、シエル殿下! 今日はプレゼントがあるんですよ」


「プレゼント?」


「はい。除菌ウエットシートです!」


「ウェット……シート?」


「使い捨てハンカチのような物です。シーツを小さく切って、弱々聖水に浸して作りました。シーツは新品を使いましたから、安心して下さいね」


「これも、商品化するのか?」


「そのつもりだったんですけど、手間がかかり過ぎるので、商品化はしないと思います」

 

「そうか」


「油紙に包めば持ち運びも可能ですし、よろしければ、お使いになりますか?」


「あぁ、是非使ってみたい」


 シエル殿下は、なんちゃって除菌ウエットティッシュの入った大瓶を受け取ると嬉しそうに微笑んだ。

 長めの前髪の隙間から、青い瞳ががのぞく。

 

 前髪、邪魔そうね。

 短く切ってしまえば良いのに。

 いやでも、あの美し過ぎる顔をあらわにするのは少し問題があるかもしれない。


「蒸しパンの試作品をもらったんですけど、召し上がりますか?」


「あぁ、頂こう」


「チョコとチーズ、どちらがいいですか?」


「うむ………どちらも捨てがたいな」


「じゃあ、半分こにします?」


「そうだな。そうしよう」


 シエル殿下は、紅茶を2杯飲んで蒸しパンを食べ終えると、そのまま読書を始めた。

 最近はいつもこんな感じだ。

 討伐から戻ると私のテントに来てお茶を飲み、夕食の時間になるまでまったりと過ごす。


 どうやら、テント内で靴を脱ぐのが良いらしい。 

 シエル殿下のテントは相部屋だから、一人だけ靴を脱ぐ訳にはいかないものね。

 

 食堂でも必ず私の隣りに座る。

 隊員達ともだいぶ打ち解けたように見えるが、やはりまだ緊張するのかもしれない。


 シエル殿下は、前世の私に少し似ていると思う。

 潔癖症で自分の気持ちを伝える事が苦手。

 前世の私は、そんな自分の性格が嫌で息苦しかった。

 

 でも今世、改めて考えてみると、別に潔癖症でも良いのではないかと思う。

 そもそも性格なんて簡単には変えられないもの。

 それなら、全部認めて受け入れてしまえばいいのだ。

 悩んで抗おうとするから悪化するのだと思う。

 

 シエル殿下の心が少しでも軽くなったらいいのに。

 ありのままで良いのだと気付いてほしい。

 そしたらきっと、今よりずっと生きやすくなるから。

 

「リリアナ、髪に何か付いているぞ?」


「えっ? どこですか?」


「左耳の後ろの……………いや、私が取ろう」


「えっ? いや、大丈夫ですっ! 自分で取ります!」


「でも………見えないだろう?」


「だ、大丈夫ですから!」


「いいからほら、右を向いて?」


「だ、だから、大丈夫ですって! 今日は、その、忙しかったから、たくさんを汗かいて汚いですし…」


「リリアナが汚い訳ないだろう?」


「き、汚いですよ? 汗をかいたら、どんな人でも汚いし臭いんです!」


「……………そうか? 全然臭くないないぞ? むしろ…」


「ちょ、ちょ、ちょっと! 嗅がないで下さいっ!」


「ああ、すまん。つい……でもほら、取れたぞ。木の葉が付いていたのだな」


 シエル殿下を睨むと、何故か楽しそうに微笑まれた。

 この王子様は本当に距離感がおかしい。

 人付き合いをしてこなかった弊害だろうか?

 今までの人生、複雑で難しいお立場だったのだろうと想像すると、あまり厳しい事は言えなくなる。

 だけど、もう少し自分の顔の良さを自覚してほしい。


「怒っているのか?」


「べ、別に怒ってません」


「リリアナのお茶が飲みたいのだが?」


「はいはい、分かりましたよ。今、お入れします」


 そうやって過ごしているうちに、私はすっかりシエル殿下のお世話係として定着していった。

 

 そしていつも、悪い知らせはいきなりやってくる。



「リリアナちゃん! ご実家から電報が来ている!」


「えっ! 電報………ですか?」


「あぁ、どうやらお父上に何かあったらしい。すぐ荷物をまとめて、ご実家に戻った方がいい」


 隊長から渡された紙には『チチ、キトク』の文字。

 あまりの衝撃に全身の血の気が引くのを感じた。


 お父様が危篤ですって?

 事故……かしら? それとも病気?

 半年前に里帰りした時は、ピンピンしていたのに。


 危篤という事は、もういつ亡くなってもおかしくないという状況だ。

 それは、つまり………私が次の領主になるという事?


 いつかはと思っていたが、こんなに早くだなんて想像もしていなかった。お父様はまだ40代なのに。

 領民達と一緒に畑仕事をしながら、屈託のない顔で笑う優しい横顔を思い出して胸が苦しくなる。


 もっと真剣に領主経営を学んでおくべきだった。

 小さな田舎の領地とはいえ、そこには領民達の生活と命がかかっているのだ。

 私に出来るのかしら?

 いいえ、出来るのかしら? なんて言ってる場合じゃないわね。何が何でもやらなければいけないのよ。


 私はゆっくり息を吐き、手早く荷物をまとめた。

 大きな荷物は後で送ってもらおう。


 その日の夕食は、いつもより少し豪華だった。


「リリアナ、これは皆からの餞別だ。受け取ってくれ」


「隊長………これ、ビッグウルフの魔石ですよね?」


「あぁ。先日、皆で仕留めたやつだ」


「見事な魔石だから、討伐終了後の打ち上げ代にしようって盛り上がってましたよね?」


「皆からのせめてもの気持ちだ。もっと気の利いた物を用意したかったのだが、ここには何もないからな。この魔石には魔力増幅の効果がある。これを売った金で何か好きな物を買ってくれ。こんな物ですまんな」


「いえ、とても嬉しいです。ありがとうございます」


 その後、治療魔法師のおじさんから、商業ギルド長の連絡先をもらい、弱々聖水はそこで取り引きをするようにと言われた。買い叩かれたりしないように話を付けておいてくれたらしい。


 料理人のおじさんは、私の好きなクルミのビスケットがいっぱい入っている袋をくれた。



「リリアナ、これを受け取ってほしい。こんな物ですまないが、今はこれしかないのだ」


「シエル殿下…………これって、いつも読んでらっしゃる本ですよね? いただいてしまっていいのですか?」


「もう全部覚えているからいいんだ。移動中の時間潰しにでも使ってくれ」


「ありがとうございます」


「この討伐が終わったら、君の領地に行ってもいいか?」


「うちの領地ですか? 別に構いませんけど、遊ぶ所なんて何もない田舎ですよ?」


「いいんだ。君の故郷を見てみたい」


「本当に何もない所ですが、それでもよろしければ是非、遊びにいらして下さいね」


 シエル殿下からいただいた本は、魔物図鑑だった。

 そこには美しい字で、魔物の特性や効率の良い倒し方のメモが記されている。

 そして余白部分には時折り、隊員達の好物や趣味などが書かれていた。


 セドリックは、スコッチウイスキーが好き

 クロードは、いつもポーカーをしている(でも弱い)

 副隊長は、ピアノが得意

 シグルドは、氷魔法を使う事がある

 リリアナは、お茶を淹れるのが上手い

 フェリックスは、弟妹が9人いる(弟8人、妹1人)

 ドミニクは、猫が苦手

 リリアナは、食べる事が好き(特に肉団子スープ)

 ニコライは、隣国に彼女がいる

 ヴァルターは、泣き上戸

 リリアナは、甘い香りがする

 ルシアンは、ピーマンが嫌い(パプリカは平気)

 エドマンドは、隊長のいとこ

 

 何だか、シエル殿下らしくて笑ってしまった。

 せっかく仲良くなれたのに離れてしまうのは寂しい。

 そう言えば、きっかけは除菌スプレーだったのよね。

 別れ際、弱々聖水の大瓶を渡してきたけれど、シエル殿下のためにも早く商品化しなければ。



 数日間、馬車に揺られてようやく我が家に着いた。


「リリアナ、お帰り」


「お、お父様!? 起きていて大丈夫なのですか?」


「あー…いや実は、危篤というのは嘘なんだ」


「え…………ウソ?」


「あぁ、実はな、危篤ではなくて、その、ギックリ腰になってしまったんだよ」


「ギ、ギックリ腰!?」


「すぐ、リリアナに戻って来てほしかったのだが、遠征中は手紙が届かないし、電報は文字の数によって料金が変わるだろう?」


「はい。確か、文字数が増えるとお高くなりますね」


「だからな、一番少ない文字数を考えた結果、あのような電報になったのだ」


「なるほど………そうだったのですね。もの凄く心配しましたけれど、危篤ではなくて良かったですわ」


「すまない。腰を痛めたせいで、領地経営に支障が出ているのだ。だから、お前に手伝ってほしくてな…」


「分かりました。お任せ下さい!」


「その、本当に…………いいのか? 」


「ん? 何がです?」


「…………この領地を継ぐ事になるのだぞ?」


「元より覚悟の上ですわ」


「苦労を掛けるな。親戚筋から養子をもらう方法もあるのだが、ろくな奴がいないからな」


「お父様、私は自分が生まれ育ったこのベルナーレ領が大好きなんですのよ。何とか守ってみせますわ」


「そうか」



 実は最近、ベルナーレ領の東の森に魔物が出たのだ。

 その対応に奔走していたせいで、お父様は腰を痛めてしまったらしい。


 出没したのは、アトラクネという蜘蛛の魔物だ。

 大人の男性ほどの大きさがあり、毒の糸を吐く。

 繁殖力が非常に強く、特にメスは凶暴だ。


 特段に強い魔物という訳ではないが、短期間で卵を産む習性があるので、駆除するには骨が折れる。

 しかも、素材として使える部分がほぼない為、冒険者に討伐依頼をしても、断られるケースが多い。


 とにかく私は弱々聖水を大量に作り、販売を始める事にした。先立つものは金である。



「リリアナ、顔色が悪いわよ?」


「お母様、大丈夫です。もう少しだけ、聖水を……」


「いい加減にしなさい! 貴女が倒れてしまったら、元も子もないのですよ?」


「…………そ、そうですね…」


 いくらでも作れると豪語していた弱々聖水は、タライ2杯分が限界だった。

 いや、実際にはタライ1杯半で魔力が尽きてしまい、餞別でいただたいた魔石を使って、何とか2杯分を搾り出している状態だ。


 あぁ………こうしているうちにも、どんどんアトラクネが増殖してしまう!

 最後に残された手段はもう、森を焼き払うしかないのかもしれない。


 でも東の森は、領民達に恵みをもたらしてくれる大切な場所なのだ。出来る事なら、そのまま残したい。

 執務室で頭を抱えていると、部屋をノックする音が聞こえた。

 

「あ、あの、リリアナお嬢様。…お客様とういか、何と言いますか、その、こちらで働きたいと言う者が来ているのですが……」


「あら、使用人希望の方? それとも冒険者の方?」


「それが、その、どんな仕事でも請け負うと言っているのですが、どう見ても高貴な方にしか見えないのです。でも、自分は平民だとおっしゃっていて……」


「そうなの? とにかく、客間に行けばいいのね?」


 額の汗を拭う執事を後にして、私は客間へ向かった。

 自分を平民だと偽るご貴族様?

 こんな貧乏領地に一体何の用かしらね?


 ドアをノックして中へ入ると、簡素な服を着たシエル殿下がお茶を飲んでいた。


「シ、シエル殿下っ!?」


「久しぶりだな、リリアナ。変わりはないか?」


「え、な、ど、どうしてこちらに?」


「討伐が終わったら、会いに行くと言っていただろう?」


「あれは、社交辞令かと思っていました……」


「迷惑だったか?」


「いえ、そんな! またお会いできて嬉しいです」


「実はな、魔物討伐部隊を辞めたんだ。こちらで働かせてほしい」


「えっ? じょ、冗談です……よね?」


「冗談ではない。隊長に推薦状を書いてもらった。ちゃんと遍歴書も書いてきたぞ」


「王子様を男爵家で雇える訳ないじゃないですか!」


「もう、王子ではない。継承権は王妃に売ってきた」


「け、継承権を………売ったんですか?」


「ああ、だからもう身分は平民だ」


「そ、そんな事が………で、でも、うちの領地は、シエル殿下を雇えるようなお金はないんです」


「もう、殿下ではない。それに金ならあるぞ。金塊を山のようにもらった。だいぶ王妃に吹っ掛けたからな」


「そんなにお金があるのなら、こんなへんぴな所で働かなくてもいいのでは……?」


「ここでしか手に入らない物があるのだ」


「ここでしか手に入らない物?」


「そう………除菌ウエットティッシュだ! あれは、非売品なのだろう? 金塊でそれを売ってくれ」


「あ、あんなもの、いくらでも作ってあげますよ。金塊なんていりません!」


「それなら、ここで働く報酬を除菌ウエットティッシュで支払ってほしい。どうか私に、居場所を与えてくれないか?」


「………居場所……ですか?」


「私は、君が好きだ。ずっと君の側にいたい!」


「…………えっ? 好き? ……………わ、私を?」


「君は案外、鈍いのだな。ずっとアプローチをしていたのに、気付かなかったのか?」


「あ、いえ、あの、信頼してもらえてるかな?…と思ってはいたのですが………」


「他の隊員達は皆、気付いていたぞ」


「えっ? そうなんですか?」


「返事を聞かせてほしい」


「そ、そんなのは、もちろん願ってもないお話ですわ。私が求める理想の男性は、健康な体をしていて、私と貧乏領地を受け入れてくれる人……なんですもの」


「では、結婚の申し込みをしても?」


 シエル殿下は片膝を付き、うやうやしく私の手を取って優しく口付けを落とした。

 これは、騎士が生涯大切にするという愛の誓いだ。

 熱を帯びた視線にドクリと心臓が飛び跳ねる。


「………お、お受け致します」


 うわずった声で答えると、シエル殿下は嬉しそうに微笑んで、私の額にキスをした。これで婚約は成立だ。


 その後、結婚の話は急スピードで進み、3ヶ月後には結婚式を執り行う事になった。


「俺らのアドバイスのおかげだろ? 感謝しろよ?」


 どうやらシエル殿下は、私をどうやって口説けばいいかの相談を隊員達にしていたらしい。

 結婚式は、魔物討伐部隊全員が参加してくれた。

 隊長の乾杯の挨拶で披露宴が始まり、副隊長の素敵なピアノ演奏が会場を沸かせた。

 

「リリアナ………誰にも見せたくないくらい綺麗だよ」


 そう言って、うっとりと私を見つめる新郎は、まるで神が宿っているかのような美しさで、正直、隣に立ちたくないなぁ……と思ってしまった。


 そして、アトラクネ問題は、思いもしない方法であっさり解決する事になる。

 あまり知られていない話だが、実はアトラクネの卵は王妃様や高位貴族のご婦人方が好んで食べるらしい。

 味は不味いが美容にとても効果があるそうだ。


 とは言え、魔物の卵を食しているなんて外聞が悪いので、ごくごく一部の人しか知らない。

 東の森のアトラクネは、駆除ではなく管理をするという話になり、ベルナーレ領の貴重な収入源となった。

 

 その後、シエル殿下は王妃様からせしめた金塊を全てベルナーレ領の公共事業に使ってしまった。

 道路と水路を整備し治安維持部隊を立ち上げた。

 おかげでベルナーレ領は、治安と住みやすさが爆上がりして、移住希望者が殺到する事態となる。


 そして翌年、私は夫によく似た男の子を産んだ。


「おや? おしめが濡れているね? よし、お父様がキレイにしてあげよう」


「シエル様、手が汚れてしまいますわよ?」


「リリアナは、おかしな事を言うね? 愛しい君が産んだ可愛い息子のおしめが汚い訳ないじゃないか?」


「いや、汚いですよ。普通におしめは汚いです」


 潔癖症の夫は、手早くおしめを交換しながら、美しく微笑した。


「大丈夫だ。私には、これがある」


 息子の隣に置かれているのは、除菌ウエットティッシュが入っている瓶だ。

 

 先日、除菌ウエットティッシュの存在を知った商業ギルド長が「是非、こちらも商品化して欲しい」と頼みに来たのだが、夫は頑として首を縦に振らなかった。


「これは、リリアナが私の為だけに作る唯一無二のもだから、絶対に商品化はさせないよ」


 前髪を上げてオールバックにした夫の顔面は、周囲を平伏させる美貌だった。

 青い瞳に見つめられたギルド長は、顔を真っ赤にさせて何度も頷き、転びそうになりながら帰って行った。



 そして今日も、夫は距離感がおかしい。


「シエル様………あの、少し近くないですか?」


「そうか? 別に普通だと思うが?」


「いいえ、近いですよ。こういうのって、子供の教育上良くないと思うのですが……」


「大丈夫だよリリアナ。いくら愛しの息子とはいえ、この場所を譲る気はないから」


「ダメだ。話しが通じない……って、ちょっと! 匂いを嗅がないで下さいっ!」


「君が魅力的すぎるのが悪いんだよ?」


 こうして、ベルナーレ邸の一日は平和に過ぎていく。

 きっかけは一本の除菌スプレー。

 除菌から始まる恋なんてアリ? 除菌スプレーを使っていたら、なぜか王子様に溺愛されました。

 でもそんな珍妙な話も『二人が幸せならアリ!』なのかもしれません。


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