届かぬ想い
日下部の写真展は、春の光がよく入る小さなギャラリーで行われていた。
『春を待ちわびてー日下部洋・江口滋二人展ー』
入り口には、日下部と彼の親しい仲間の名前が並んでいる。
白い壁に余白を残しながら飾られた写真は、柔らかな空気を纏っていた。
「今日はわざわざ来てくれてありがとう。」
日下部が咲耶を見つけると、笑顔で近づいてきた。
咲耶は首を振る。
「わざわざだなんて……私、伺うのを楽しみにしてました。」
日下部は奥のスペースへゆっくり案内しながら、小さな声で説明する。
「これは春の海。
誰もいない時間を狙って撮影したんだけど、波の音しか聞こえなくて……。
ちょうど朝陽が出てきた頃で光る海が凄く綺麗だったんだよ。」
咲耶はしばらく立ち止まり、目を細めた。
「……すごく好きです、この写真。
見ているととても穏やかな気持ちになれます。」
「そう言ってもらえると嬉しいな。
僕もこの写真、気に入ってるんだ。柚木さんは……きっと分かってくれると思ってたんだ。」
「咲耶って呼んでくれて良いですよ。」
「えっ?じゃあ、咲耶さん。」
日下部は、ちょっと照れたように下の名前で呼んでくれた。
その後も北海道で撮影したというキタキツネやリスの写真などを見て歩いた。
ただ、公園のベンチだけが写っている写真もあり、そんな写真にも咲耶は心惹かれた。
咲耶は、どの写真にも日下部の持つ優しさが滲み出ているような気がした。
一通り見終わると、近くの洋食店に入った。
老舗の洋食店は、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。
窓際の席で頼んだ食事を待つ間、日下部が水を飲みながらふと尋ねた。
「普段は、どんな写真が好きなの?」
咲耶は少し考える。
「う~ん……風景も人物も好きですけど、
最近は、人が写っていなくても“人の気配”のある写真に惹かれます。」
日下部は驚いたように咲耶を真っ直ぐに見て
「……それ、僕も同じだな。」と言った。
咲耶はくすっと笑った。
「やっぱり?日下部さんの写真、そういう感じがするんです。
人がいないのに、ちゃんとそこに“誰か”がいた感じがする。」
「咲耶さんには、色々わかっちゃうんだな。」
感心したように日下部は、呟いた。
料理が運ばれ、軽く会話を交わしながら食べ進める。
そのうち、咲耶がふとハンバーグステーキを切るナイフの動きを止めて言った。
「そういえば、隼人がこの間言っていたんですけれど……。」
日下部は小さく頷いた。
「隼人さん?」
「はい。あの、兄なんです。」
咲耶の表情は自然で、嬉しそうですらあった。
「写真の話をしたら、自分は、モノクロ写真が好きだって。
より光やそこには表されていない色まで感じるんだって言っていて……。
それが今日、妙に納得できたんです。
日下部さん、モノクロ写真も何枚か撮られていたでしょ。それを見ながら隼人の言葉を思い出しました。」
咲耶は
「私もそう感じていたなぁ、そう思うなぁということを隼人が時々私に言うんですよ。」と笑顔で続けた。
日下部は静かに聞いていた。
そこには、説明しようのない感情があった。
咲耶が再び話し出す。
「隼人、店で子どもたちのイベントやったりするんですよ。
面倒くさいことも結構あるのに、嬉しそうで。」
日下部は笑った。
「良いお兄さんなんだね。」
「はい、そう思います。」
何のためらいもなくそう言う咲耶の声があまりにも柔らかかったので、日下部はほんの一瞬だけ言葉を失った。
咲耶は気づかずに続ける。
「日下部さんも、子どもたち好きですよね?
写真にも、そういう感じが出てる。」
「僕は、子どもが……というより、頑張ってる人が好きなんだ。
咲耶さんも、そういう人だと思うよ。」
日下部は、勇気を振り絞って咲耶の目を見つめながらそう告げた。
咲耶は一瞬目を丸くし、それから微笑んだ。
「そんな風に言われたの、初めてです。
日下部さんも普段、会社の仕事をしながら、あれだけの写真を撮られているなんて、凄いですよ。
もう、趣味だなんて言えない、プロの腕前です。
私が言うのも変ですが……。」
「……ありがとう。」
日下部は咲耶を精一杯褒めたつもりだったが、逆に咲耶から写真の腕を褒められて、面食らった。
咲耶はどこまでも真っ直ぐな人、優しい人なんだなと思った。
食事を終えて店を出ると、夕方の街が淡い色になっていた。
駅までの道で、日下部は一度だけ口を開きかけた。
もし、言うなら今だ……。
そう思ったが、言葉は喉の奥で消えた。
咲耶は駅の手前で立ち止まり、小さく会釈した。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
少し間を置いて、日下部は付け加えた。
「咲耶さん、また写真を見に来てくれるかな?
僕、これからも頑張って撮るから。」
咲耶は迷わず頷く。
「はい。是非。」
改札を入ると電車が来る音がして、咲耶は自分の行き先のホームに向かって駆けて行った。
咲耶とは帰る方向が違った日下部は、ホームに一人取り残された。
言えないことは、まだたくさんあったーー。
ただ、何となくこの先も言えないような気がしている自分がいた。
どうも咲耶さんには大好きなお兄さんがいるようだ。
ブラコン?とも違う……ピタリと感性の合う人みたいだ。
俺が入る余地なんてあるのかな?
日下部は、咲耶との楽しい時間を思い出しながらも、彼女の笑顔の先にあるのは、多分、僕じゃない。
悲しいけど……。
そんなことを考えていたら、ホームに電車が滑り込んできた。
扉が開いたが、日下部は乗ろうとしなかった。
彼は、ますます迷路に迷い来んだような気分でそのままホームに立ちすくんでいた。
春の少しひんやりとした風が日下部の頬に当たり、体が冷えていくのを感じる。
しかし、彼は黙って暗くなった空をいつまでも眺めていた。




