傘の下で想うことー遠くのあなたと雨の音ー
その日は朝から蒸し暑かった。
梅雨入りして間もない6月半ば……隼人は朝から何とも言えない怠さを感じていた。
カフェの店内は、エアコンで除湿され、適温が保たれている。
しかし、隼人は自身の体が火照ってくるのは、暑さのせいかもしれないと思っていた。
エアコン、よく効いてないのかな……。
室内の温度を確かめるが、特に高めの気温は表示されていない。
おかしいなぁ。
隼人は、仕事の手を休め、額に手を当て少し腰を屈めて立っていた。
カフェの扉が開く。
「こんにちは。」
結衣の声がした。
「あれ?隼人さん、どうかしたんですか?」
すぐに結衣は隼人の辛そうな様子に違和感を抱いた。
「あっ、結衣ちゃん、いらっしゃい。
特に何でもないよ。」
背筋を伸ばし、隼人が結衣を空いている席に案内しようとした。
「何でもないことなさそうですよ。
隼人さんの顔、火照って少し赤くなっているみたいだし……。」
結衣が心配そうに隼人に近づいてくる。
「隼人さん、熱があるんじゃないんですか?」
「まさか……。」
隼人は、結衣の心配そうな顔を見て、何でもない風を装った。
俺は滅多に体調を崩したこともないし、体には自信がある。
そう思った隼人だったが……。
結衣の後にカフェに入ってきた咲耶が、隼人の異変にすぐに気がついた。
「隼人……、具合悪いんじゃない?」
咲耶が隼人に駆け寄る。
「あっ、咲耶さん、隼人さんがさっきから顔が赤くて。」
背後に結衣の声を聞いて、咲耶は振り向いた。
「結衣ちゃん、来てたのね。
確かに隼人、顔が赤いわ。
きっと熱があるわね。私、体温計探してくる。」
そう答えると店の奥にある従業員用の小部屋に姿を消した。
隼人は、
「そんな……二人とも大袈裟だよ。たいしたことないから、気にしないで。」とカフェの仕事を続けていた。
体温計を持ってきた咲耶に促され、隼人は小部屋に入ってソファーに腰を下ろし、しぶしぶ熱を測った。
ピピピッ……体温が表示される。
「えっ、38.2度?嘘だろ?」
隼人は自分の体温を見て驚きの声をあげた。
しばらくすると咲耶が部屋に入ってきた。
「やっぱり熱があったでしょ。
お店は、私がやるから隼人は、そこで休んでて。」
そう言って風邪薬とスポーツドリンクを隼人に渡すと、咲耶はテキパキと仕事を始めた。
数十分後には、潤がやってきて珈琲を淹れている。
「あれっ?潤さん……。」
隼人は、部屋から潤が来ているのを覗いて驚く。
「お父さん、ちょうど今日、仕事が休みだったから来てもらったのよ。
昔、陽子さんの喫茶店を手伝っていたから、任せてくれって言ってるの。」
咲耶が仕事の合間にやってきて、そう隼人に話した。
「そうなんだ。何だか悪いな……。」
重たい体をソファから起こして、隼人は申し訳なさそうにうなだれた。
「隼人は心配しないで、寝ていて。
お父さん、結構楽しそうよ。」
咲耶が微笑んでいる。
実際、潤は咲耶が言うように生き生きとしながら働いていた。
そのうち、真紀と由紀も姉妹でカフェにやってきていた。
「あらっ、潤さん、様になってるわね。」
真紀の声に
「そうだろう?」と満足そうな潤。
「隼人、大丈夫?」
隼人の母、由紀も隼人の寝ている部屋に顔を出した。
「え~っ、母さんまで来たの?
咲耶が電話なんかするから。」
隼人は、おちおち寝ていられない気分だった。
一体、俺、いくつだよ?
親たちの登場で、隼人は恥ずかしくなってきた。
一番始めに隼人の異変に気付いた結衣は、次々と現れる隼人の家族を呆気にとられて見つめていた。
美しい人たちが何人も……。
あれが隼人さんの親御さんたちなの?
咲耶に紹介された人たちを一人一人見て、ため息をついた。
私が手伝えたのは、近所の薬局でお薬とスポーツドリンクを買ってきたことだけ……。
基本、咲耶さんがいれば大丈夫なんだ。
隼人さんもこのカフェも。
ぼんやりと咲耶を眺めながら、潤に淹れてもらったブレンドコーヒーを飲む。
私、別にここにいなくても良いのかもね。
一抹の寂しさを覚えながら、結衣は立ち上がった。
「あっ、結衣ちゃん。もう、帰るの?
今日は本当にありがとう。隼人にお薬や飲み物を買ってきてくれて。とっても助かったわ。」
結衣が帰ろうとしたのにすぐに気がついて咲耶が声をかける。
「いえ、大してお役に立てなくて……。」
結衣が恐縮していると
「あなたが、結衣ちゃん?
隼人が焼いたマドレーヌ、どうだったかしら?」
由紀がそう言って近づいてきた。
「あの、凄く美味しかったです。」
「良かったわ。そう言って下さって。
隼人も頑張って作った甲斐があったわね。」
由紀の優しい笑顔に結衣は、心が温まった。
隼人さんも咲耶さんもーー
そしてご家族も皆、優しい。
結衣は咲耶と由紀に頭を下げるとカフェの扉に手をかけた。
「結衣さん、今日はありがとう。また、来てくださいね。」
結衣の背中に向かってカウンターに立っていた潤の声がする。
結衣が振り向くと、穏やかに微笑む潤の顔が見えた。
隣には潤に寄り添うように真紀が立って小さく手を振っている。
「隼人さん、お大事に。」
小さく会釈し、結衣はそっとカフェを後にした。
鉛色の空からは、ポツポツと雨粒が落ちてきて、結衣はバッグの中から折り畳みの傘を探した。
花柄の傘を広げると、気持ちが少し明るくなった。
淡いピンクの花に包まれて結衣は駅に向かって静かに歩き出した。
雨音が優しく、そして少し切なく響く。
隼人にとっての咲耶の存在ーー
それはあまりに大きなものだということに結衣はとうに気付いていた。




