聖座の集い - 3
ありがとうございます。
私はこの提案に感謝した。
最初からこうすれば良かったのだが、この案も、街を徘徊した、酒場に行ったおかげでもあるので、今までの道のりもまた無駄ではなかった。
そもそも、悩んだ結果で聞くのと、悩んでいない状態で聞くのとでは捉え方も異なってくるだろう。
私の進む道は決まった。
悩みが解決する時、晴れ晴れする気持ちもありつつ、それは完全ではなく、まだ心のどこかに、そうでなかった場合の未来を想像してしまう。
これは別にこの決定に限ったことではない。
今までの生き方すべてで言えることだ。
これまでの生き方もすべて選択の連続だったはずだ。
悩むことも多少はあっただろう。
大きく悩むことも、小さく悩むことも。
右の森に入るか、左の草原に入るか、それもまた選択であり、決定であり、悩みであったはずだ。
なぜ今回、こんなに悩んだのか。
それはこの決定が冒険者として、これからの大半の行動を占める冒険者としての、ギルドの確定だったからだ。
長い「時」、人生という時間を使う。
そこにどれだけ自分を預けられるか、任せられるか、乗り込めるか、そういう決定下すことになるのだ。
大きく悩むに値する。
これが簡単に、数日で変えられるのであれば、こんなにも悩むことはなかっただろう。
朝ごはんくらいの短い時間であれば、悩むこともなかっただろう。
それはまた訪れるものだから。
ギルドの選択が今後も訪れることはあり得る。
しかし、それでも、この決定がしばらくの間の、人生の時間を有するならば、朝ごはんなどとは違うのだ。
なのに、『聖座の集い』を利用してしまって良いのかと。
それはあくまで助言であって、決定や確定ではない。
私はそれを聞いて、それに従わなくても良い。
最終的な決定はすべて自身のあるのだ。
それが人生であるから。




