第16話「死者の正しさ」 その1 疑うことを許されない朝
最初に感じたのは、
違和感だった。
自分の考えが、
自分のものではない。
そう気づいたのは、
駅前の交差点で立ち止まったときだ。
(……赤だ)
信号は赤。
止まるのは当然だ。
だが、その判断に、
理由が伴わなかった。
赤だから止まる。
それ以上でも、それ以下でもない。
——考える必要がない。
それが、妙に気持ち悪かった。
男は三十九歳。
会社員。
遅刻しそうな朝。
スマホを片手に、
無意識に歩いていた。
周囲の人間も、
同じように立ち止まっている。
だが、誰もが静かすぎる。
咳払いもない。
舌打ちもない。
ただ、
正面を向いて、待っている。
(……こんなに静かだったか?)
青になった。
一斉に、歩き出す。
足並みが、揃いすぎている。
まるで、
合図を待っていたかのように。
男は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
会社に着くと、
さらに違和感は増した。
会議室。
上司が、資料を配っている。
「——以上が、今期の方針だ」
誰も、反論しない。
誰も、質問しない。
いつもなら、
必ず誰かが口を挟む。
だが今日は、
全員が頷くだけだ。
(……本当に?)
男は、資料に目を落とした。
明らかに、無理な計画だ。
数字も合っていない。
現場の負担も大きい。
だが、
“正しい”という感覚だけが、
頭の中に流れ込んでくる。
——正しい。
——従うべきだ。
——疑う必要はない。
胸の奥で、
小さな抵抗が生まれる。
(おかしい)
そう思った瞬間。
頭の中に、
別の声が響いた。
《……疑うな》
低く、重い声。
男のものではない。
《……死者は、間違えない》
映像が、流れ込む。
白黒の写真。
古い街並み。
群衆。
その中央で、
何かが裁かれている。
罪人。
異端者。
間違った者。
人々は、石を投げている。
——正しいことをしている顔で。
(……誰だ)
男は、頭を押さえた。
視界が、歪む。
《……選ばれた者だけが、生きる》
《……正しさに、従え》
会議室の全員が、
同時に顔を上げた。
視線が、男に集まる。
誰も喋らない。
だが、目だけが、同じことを語っている。
——お前は、間違っている。
男は、椅子を蹴倒して立ち上がった。
「……ちょっと、待ってくれ」
声が、震える。
「これ……おかしいだろ」
沈黙。
そして、
ゆっくりと、上司が言った。
「……君は、正しくない」
その一言で、
世界が反転した。
会議室の壁が、
ゆっくりと近づいてくる。
人々の影が、
伸びて、絡み合い、
一つの塊になる。
男は、後ずさった。
「……冗談だろ……」
誰かが、
静かに言った。
「正しさに、従わない者は——」
全員が、
同時に続ける。
「——裁かれる」
その瞬間、
男の意識は、
闇に沈んだ。
翌日。
男は、
自宅の浴室で発見された。
争った形跡はない。
遺書もない。
ただ、
鏡に、指で書かれた文字が残っていた。
《CORRECT》




