第14話「祈りを欲しがる家」 その5 名簿に残る空白
空白が、静かに閉じた。
反転した世界が裏返り、
軋みながら、現実の輪郭を取り戻していく。
結衣が気づいたとき、
彼女は玄関の上がり框に立っていた。
家は、ただの家に戻っている。
白い壁。
静まり返った廊下。
微かに漂う、洗剤と木の匂い。
異常は、何もない。
——あまりにも、何もなさすぎる。
結衣は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、
重たい塊が沈んだまま動かない。
リビングを見渡す。
食卓には、何も置かれていない。
祈りの紙片も、血の跡も、
すべて消えている。
だが、分かる。
ここで、確かに人が壊れた。
壊されて、
利用されて、
祈りの名で殺された。
結衣は、視線を落とした。
床の上。
小さな、ぬいぐるみ。
子ども部屋から、
転がり出たのだろう。
片方の耳が、ほつれている。
結衣は、しばらくそれを見つめてから、
屈んで拾い上げた。
軽い。
驚くほど、軽い。
(……守れなかった)
声には出さない。
出せば、
胸の奥で何かが決壊する。
結衣は、ぬいぐるみを元の場所へ戻し、
玄関へ向かった。
外に出ると、
夜の空気が肌に刺さる。
星は見えない。
雲が低く垂れ込めている。
バイクのエンジンをかける前に、
スマホが震えた。
『終わったか』
中森の声。
「一件、潰した」
『生存者は』
「……いない」
一瞬、沈黙。
『そうか』
それ以上、
慰めの言葉はなかった。
この仕事に、
そんなものは必要ない。
『名簿、見ろ』
結衣は、無言で端末を操作した。
《LIST of the Saved》。
スクロールする指が、止まる。
《No.34 KATO MISA》
《STATUS:EXECUTED》
《No.35 KATO KAZUYA》
《STATUS:EXECUTED》
《No.36 KATO HINATA》
《STATUS:EXECUTED》
三つの名前。
その下に、新しい行が追加されている。
《No.37》
名前は、まだ表示されていない。
だが、
“次”があることだけは、はっきりしている。
「……増えてる」
『ああ』
中森の声が、少しだけ低くなる。
『止まらねぇな。
名簿思想は、もう独立して動いてる』
「天草四郎?」
『本人か、その残り香か。
どっちにしても、元締めは同じだ』
結衣は、画面を閉じた。
「……次も、行く」
『聞くまでもねぇ』
「全部、斬る」
言葉は短い。
感情は、そこに乗せない。
だが、
胸の奥では、
確実に何かが変質している。
兄を失った夜から、
ずっと抱えてきた怒り。
それが、
少しずつ、
形を変え始めている。
復讐だけじゃない。
止めなければならない、という
冷たい義務感。
『……お前さ』
中森が、ふと思い出したように言った。
『残響の“修正”ってやる気はねぇのか』
結衣は、ヘルメットを被りながら答える。
「……やらない」
『梓はやってるぞ』
「だから、違う」
エンジンをかける。
低い音が、夜に広がる。
「私は、祓わない」
『……』
「滅すだけ」
アクセルを捻る。
バイクが、闇の中へ滑り出す。
背後で、
“祈りを欲しがる家”は、
ただの空き家として、
静かに佇んでいた。
何も語らず。
何も訴えず。
だが、
この世界のどこかで、
また新しい“家”が、
祈りを欲しがり始めている。
名簿は、
今日も更新され続ける。
救いの名を借りた、
殺戮のリストとして。
結衣は、前を見た。
もう、振り返らない。
祈りを殺すために、
彼女は走り続ける。




