第13話「消えない名簿」 その1 救われる者の名
最初に「名簿」を見たのは、ただの夜更かしの延長だった。
河島涼、二十八歳。
地方都市の小さな印刷会社で、残業と納期にすり潰されている男。
その夜も、終電一本前で家に帰りつき、シャワーを浴びる気力もなくベッドに倒れ込んだ。
枕元のスマホだけが、まだ現実と繋がっている唯一の線だった。
「死にたい」と検索する勇気はない。
だから、少しだけ言い方を変える。
——「救われたい」。
指先が打ち込んだ言葉に、画面は素直に応じた。
広告まみれの自己啓発サイト。
怪しいスピリチュアル。
投げやりなまとめブログ。
どれも、すべて「努力しろ」とか「信じろ」とか、それなりに立派なことを言ってくる。
(努力した結果が、これなんだけどな)
乾いた笑いが喉の奥でひとりでに崩れた。
画面をスクロールする指が、一瞬だけ止まる。
見慣れないリンクが、ひとつ。
《LIST of the Saved──救われる者の名簿》
サイトのサムネイルも、説明文もない。
ただ、リンク文字だけが闇の中に浮かんでいる。
広告ブロッカーの抜け漏れかと思った。
あるいはまた、粗悪な釣りサイトか。
それでも、指は画面の上を滑った。
クリックした瞬間、画面が真っ黒になる。
フリーズか? と一瞬身構えたが、
すぐに白い文字が浮かび上がった。
《認証中……》
《あなたの状態を確認しています》
ゾッとする文言だ。
だが、冗談めいたポップ体のフォントが、危機感を薄めてくる。
ふ、と気が付く。
——音が、消えていた。
エアコンの微かな送風音も、
冷蔵庫の唸りも、
外を走る車のノイズも。
すべて、すとん、と落ちたように聞こえない。
「……は?」
声が、変な風に響く。
隣の部屋で壁ドンされるかと身構えたが、反応はない。
スマホの画面が、静かに切り替わる。
《No.26 KAWASHIMA RYO》
《STATUS:Saved》
(セーブド……?)
英語は得意じゃない。
でもそれくらいは分かる。
——自分が、「救われる側」だと、誰かが勝手に判定した。
画面の下に、妙なメッセージが追加された。
《あなたは選ばれました》
《心配しないでください》
《この世界から解放されます》
……ぞわり、と背中を這い上がるものがあった。
(馬鹿か、こんな——)
慌ててブラウザを閉じようとしたとき、
視界の端で、何かが揺れた。
部屋の隅。
カーテンの陰。
人影――そう認識した瞬間、
身体が凍りついた。
白いフード。
修道服のようなものを纏った、背の高い「何か」が直立していた。
さっきまで、誰もいなかった。
玄関のチェーンは自分でかけた。
鍵だってちゃんと回したはずだ。
なのに。
ただ、そこにいる。
顔はフードの奥に隠れて見えない。
ただ、そこから垂れ下がるものがあった。
最初は、髪かと思った。
違う。
それは、真っ黒な指だった。
タールのように粘ついた黒が、細長い指の形をして、
フードの奥からとろりと滴り落ちている。
「……なに……?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
白いフードのものが、微かに頭を傾ける。
フードの奥で、「顔」らしきものが動いた気がした。
いや、ひとつじゃない。
幾つもの顔が、
縫い合わされるように重なっている。
泣き顔。
怒り顔。
祈る顔。
諦めた顔。
それらが、ぬるりと混ざり合いながら、「穴」を形作っている。
穴の向こうから、声がした。
「……ミゼリコルディア……」
意味は分からない。
けれど、その音のひとつひとつが心臓の内側を殴ってくる。
河島は、指先が自分の意思と関係なく動き始めるのを理解した。
スマホを持った手が震える。
ブラウザはもう閉じているはずなのに、画面にはまだ「名簿」のページが表示されていた。
《No.26 KAWASHIMA RYO》
《STATUS:In Progress》
「やめろ……」
自分で言ったのかどうかも曖昧だった。
床の上で自分の足が動く。
カーペットを踏みしめ、スリッパを蹴り飛ばし、
机の方へと向かう。
引き出しを開ける。
カッターナイフがそこにある。
(違う違う違う)
心の中で何度も繰り返しても、腕は止まらない。
ナイフを握った手が、ゆっくりと喉元に向かう。
白いフードのものが、一歩だけ近づいた。
黒い指が、空気を撫でる。
その軌跡に、見えない鎖のようなものが張り巡らされる感覚があった。
逃げられない。
「……サクラメント……」
フードの奥で、縫い合わされた顔たちが同時に祈った。
その言葉が、なぜか日本語の意味として頭に突き刺さる。
——儀式だ。
——救いだ。
——処刑だ。
混ざり合ったまま、意味が固まらない。
右手が、喉元に刃を当てた。
冷たさよりも先に、「正しいことをしている」という奇妙な納得が胸に広がる。
(ああ、そうか)
ようやく。
ようやく、これで終わるのだと。
その安堵に似た感覚は、
最後の一秒まで、河島の中から消えなかった。
——翌朝、
彼はベッドの上で仰向けに倒れているのを発見された。
喉にも身体にも傷はなかった。
ただ、脳の一部だけが、外側から圧迫されたように陥没していた。
壁には、爪でほじった文字が残っていた。
《No.26》
《LIST of the Saved》
《EXECUTE》
それを読んだ救急隊員は、無意識に十字を切りかけた手を、慌てて下ろした。
十字を切る信仰など持っていないはずなのに。




