第12話「赦しを縫い合わせたもの」 その4 縫い合わされた祈り(下編)
――静寂が、落ちる。
鵺の軋みが止まり、
重なっていた人の声が、すべて沈黙した。
空間が一段、深くなる。
鵺の中心――
裂けていた空洞が、今度は内側から形を持ち始めた。
黒でも白でもない。
信仰の灰のような色。
そこから、一人の少年が歩み出る。
年の頃は十六、七。
だがその足取りには、年齢に似合わない確信がある。
裸足。
衣は古い小袖。
血の色を失った赤が、ところどころに残っている。
顔立ちは、端正だ。
あまりに整っていて、かえって現実味がない。
結衣が、息を詰めた。
「……子ども……?」
違う、と梓は思った。
これは――
**少年の姿をした“核”**だ。
彼は、周囲を見回さない。
世界そのものが、彼の内側にあるかのように。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『――ここまで来たか』
声は若い。
だが、何百もの祈りが裏打ちされた重さがある。
鵺が、彼の背後で脈打つ。
もはや集合体ではない。
器だ。
少年は、梓を見た。
『……なるほど』
微笑む。
それは敵意ではない。
理解されたことへの満足だ。
『人は、必ず理由を欲しがる』
彼は、胸に手を当てる。
『意味のない死に、
意味のない殺しに、
名前を与えずにはいられない』
結衣の喉が、ひくりと鳴る。
少年は、彼女を一瞥する。
その目に、憐れみはない。
だが、拒絶もない。
ただ、結果としての視線。
『君の兄は、優秀だった』
結衣が息を呑む。
『理解しようとした。
拒まず、逃げず、
“なぜ”を置き去りにしなかった』
少年は、少しだけ目を伏せる。
『だから、器になった』
結衣の指が、床を掻いた。
「……おまえは……」
震える声。
「……おまえは……誰だ……!」
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、
鵺の全構造が彼を中心に再編される。
声が、重なる。
祈りが、泣き叫ぶ。
祝福と呪詛が、同時に膨張する。
そして――
静かに、はっきりと告げた。
「――天草四郎時貞」
名が落ちた瞬間、
世界が一拍、遅れる。
歴史。
信仰。
処刑。
復活を願う声。
すべてが、鵺という構造に“核”として固定される。
『私は、救われなかった者たちの理由だ』
天草四郎は、穏やかに言った。
少年の背後で、
無数の影が膝を折る。
理解者。
殉教者。
名を与えられなかった死者たち。
『彼らが、私をここに立たせた』
天草四郎は、静かに腕を広げた。
『――さあ』
その声に、鵺が応える。
『久しぶりの兄妹の再会だ』
鵺の中心が、ゆっくりと裂けた。
人の身体が折り重なった集合体の、その最奥。
思想が縫い止められていた空洞に――
一つの輪郭が、静かに浮かび上がる。
青年の顔だった。
少し撫でたように癖の残る髪。
見慣れた姿。
結衣は、その場に立ち尽くした。
「……ぁ……」
声にならない。
足が、動かない。
怒りが、消えたわけじゃない。
ただ、それ以上に――
思ってしまった。
生きていた頃の兄を。
夜遅くまで机に向かっていた背中。
資料を広げ、眠そうに笑った顔。
「大丈夫だ」と言っていた声。
それが、
ここにいる。
鵺の中に、
“使われる前の形”で。
「……颯…お兄ちゃん……」
名前が、零れ落ちた。
その瞬間だった。
感情が、一気に決壊した。
怒りも、憎しみも、復讐も――
すべて押し流されて、
底に残ったものが、露わになる。
会いたかった。
それだけだった。
「……なんで……」
喉が、震える。
「……なんで、こんなことに……」
結衣の膝が、崩れた。
力が抜け、
床に手をついた瞬間、
嗚咽が漏れる。
「……戻ってきてよ……」
鵺が、低く脈打つ。
真名井梓は、その反応だけで理解した。
鵺が示しているのは、
“核”ではない。
媒介の履歴だ。
(これは……一代ではない)
梓が八鍵を強く握る。
鵺の内部で、人の声が重なり始める。
『理解しようとした者が、扉になる』
『名を持たぬ罪は、次へ移される』
映像が、切り替わる。
白黒。
戦後まもない地方都市。
木造の一軒家。
雨。
警官の足音。
家族四人。
全員死亡。
だが、血の量が合わない。
刃物も見つからない。
遺体の配置が、生活の延長線上にない。
一家惨殺事件。犯人不明。
詳細、非公開。
その現場の暗がりに――
“視線”だけが残っている。
『ここからだ』
天草四郎の声が低く響く。
『この器は、名も残らぬ殺戮者』
『信仰も思想も持たず、ただ壊した』
梓は、息を呑んだ。
戦後の犯人不明事件。
異様な殺し。
詳細非公開。
“説明できない暴力”。
そこに、天草四郎の思想が重なった。
迫害され、裁かれ、復活を願う祈りが、
“名を持たない殺意”を自分の中へ取り込んだ。
『名のないものは、扱いやすい』
『魂は、原因を欲しがる』
映像が、さらに進む。
時代が変わる。
大学の研究室。
古い事件資料。
戦後日本の未解決事件を並べる青年。
佐々木結衣の兄――颯。
彼は、記録を見ていた。
理由を探していた。
なぜ、説明できない殺しが起きるのか。
それを理解しようとした。
その瞬間だった。
映像が、歪む。
『理解は、扉だ』
颯の背後に、
あの戦後の“名のない殺戮者”の影が重なる。
さらに、その奥から――
天草四郎の思想が、細く、確実に伸びてくる。
寄生は、直接ではなかった。
殺意 → 思想 → 理解者。
何世代も渡り歩く、感染。
結衣の指が、僅かに震えた。
「……私のお兄ちゃんは…」
一言。
声は低い。
「…選ばれたの?」
梓は、即座に首を振る。
「いいえ」
鵺が代わりに答える。
『理解しようとした者は』
『必ず、ここに辿り着く』
その声は、
もう敵意として届かなかった。
雑音だ。
「……違う……」
結衣は、床に額をつけたまま、
震える声で呟く。
「……お兄ちゃんは……
そんなつもりじゃ……」
復讐者の言葉じゃない。
妹としての、
むき出しの声だった。
「……私が……
ちゃんと止めてれば……」
肩が、激しく揺れる。
泣き声が、抑えきれなくなる。
梓は、何も言わずに近づいた。
結衣の横に膝をつく。
この瞬間、
彼女の祓屋としての役割は終わっている。
今、目の前にいるのは――
兄を失った一人の人間だ。
梓は、静かに八鍵を構えた。
「……ここからは、私がやります」
結衣は、返事をしない。
できない。
颯の輪郭が、
鵺の内側で、ゆっくりと歪み始める。
“器”として再利用されようとしている。
――このままでは。
梓は、一歩前に出た。
「あなたは、ここまでです」
声は、強くない。
だが、揺らがない。
「彼は、理解しようとした。
それだけです」
祓詞が、展開される。
狙うのは鵺でも、天草四郎でもない。
颯を繋ぎ止めている回路だけ。
思想の連結部。
名なき殺意。
天草四郎の祈り。
それらを媒介していた“理解者”としての楔。
「……もう、使わせません
祓詞・理鍵」
意味・理解・因果の接続に干渉する祓詞。
魂そのものではなく、
「理解したことによって生じた接点」だけを対象に切断する。
量子暗号札が光を放つ。
祓詞が、静かに流れ込む。
颯の輪郭が、初めて“器”をやめる。
抵抗もしない。
ただ、ほどけていく。
結衣は、泣きながらそれを見ていた。
止めようとも、
引き留めようとも、しない。
恋慕が、
別れを選ばせた。
颯の姿が、
完全に消えた。
鵺が、悲鳴のように軋み闇の中に消えた。
天草四郎の思想は、残る。
だが、この系統は、断たれた。
結衣は、その場で動けなかった。
泣き崩れたまま、
肩を震わせている。
復讐は、今はどうでもいい。
ただ――
兄が、確かに存在したことだけが、
胸に残っていた。
梓は、何も言わなかった。
代わりに、結衣の前に立った。
再び彼女が立てる日まで、
この場を守るために。




