第2話 発電所跡・時間遅延型残響事件 その2 時間に沈んだ施設
鉄柵をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。
気温は変わらない。
湿度も同じ。
なのに——
肺に入る空気の“重さ”だけが、微妙に違う。
(……もう、内側ね)
真名井梓は、静かに周囲を見回した。
剥がれたアスファルト。
錆びた輸送レール。
倒れかけた照明柱。
典型的な廃施設。
だが、この空間には
別の情報が、上から噛み合わさっている。
「おい、真名井」
後ろで高峰が声をかける。
「中森から聞いてた件と一致するか?」
「ええ……状況は想定どおりです」
淡々と答える。
「今回は、空間の歪みじゃなく、
時間律の異常です」
「時間が壊れてる、ってやつか」
「正しくは……時間が、ここだけ別のルールで動いています」
高峰は顎を鳴らした。
「そんなことが起きるのか」
「本来は起きません」
梓は歩きながら答える。
「でも祈りは、人の感情だけでなく、
時間にも染み込みます」
「祈り……」
「大量に繰り返された感情。
諦め、後悔、未練。
それが長時間ここで積層すると、
記録媒体なしで“固定”されることがあります」
「今回の発電所は?」
「稼働期間が長すぎます」
「事故も、労災も、再稼働も中止も、全部ここに溜まっている」
壊れた設備を見つめながら、梓は言った。
「ここは“願いの上に建った施設”じゃありません
……労働の上に建った場所です」
八鍵を取り出す。
「残響反応、確認開始……」
端末が低く音を立てた。
空気中に細かい光の粒が浮く。
だが、それは物理じゃない。
時間層に露出したノイズ。
「……来てます」
「どれぐらいひどい?」
「団地よりも深い」
梓は即答した。
「残響が“人”に依存していません
場所そのものがトリガーになっています」
「自走型か」
「はい」
八鍵の画面に、異常値がいくつも並ぶ。
時間遅延指数:高
記憶干渉率:中
自己修復傾向:あり
外部接続:断続的
眉がわずかに動いた。
「……面倒ですね」
「悪いか?」
「ええ。こういうのは」
「抹消も修正も、素直じゃない」
高峰は苦く笑った。
「じゃあ、どうする?」
「まず、侵入ループの確認です」
梓は指を指す。
「ここから先、
“十分間”が明確に区切られているはずです」
「区切り?」
「誰かが、十を単位に区切った」
「……誰かが?」
梓は、少しだけ視線を落とした。
「ええ。
この残響は自然発生じゃありません」
「……つまり」
「意図があります」
高峰が無言になる。
梓は続けた。
「祈りが、時間そのものに命令を投げた。
“十分でいい”と」
「……十分で何をする気だったんだ」
「……それはまだ、わかりません」
その時、八鍵が低く警告音を発した。
「残響接近……」
「来てるか?」
「すでに、足元にいます」
高峰が咄嗟に下を見るが、
もちろん何もない。
「見えませんよ、まだ」
梓は淡々と続ける。
「普通の人には、
“違和感”になるだけです」
足元のコンクリートに、小さな亀裂が走る。
……ではない。
時間の“ひずみ”が、視覚に干渉しただけだ。
梓は中森との通話履歴を一瞬だけ表示する。
『ここ、近づきすぎると
一回ごとに自分の“現在”がズレるぞ』
彼の声が、脳に蘇る。
(さすがに、厄介なとこ持ってきたな)
梓は八鍵を強く握った。
「…真名井」
高峰の声。
「今のところ、入って大丈夫そうか?」
「……入れます」
「ただし」
彼を見る。
「内部に入ったら、
“十分経過する前”に必ず合流してください」
「どうしてだ」
「分離すると、
あなたの時間と、私の時間が
ズレ始める可能性があります」
「……冗談だろ」
「冗談なら、楽なんですけどね」
淡々と答える。
そして、梓は一歩踏み込んだ。
発電所の敷地内、
時間遅延圏へ。
その瞬間——
空気が、波打った。
(……もう始まってる)
胸の下で、
時間の周波数がズレる感覚。
「……高峰さん」
小さく言う。
「聞こえますか」
『ああ』
「ここから先、
“今のあなた”が、あなたでなくなる場合があります」
『……勘弁してくれ』
「私もです」
淡く、微笑した。
(でも、行くしかない)
次の瞬間、
それまで停止していた風が、
また止んだ。
梓の視界の端に、
さっき見た“作業着の男”の影が映る。
だが、
今度は少しだけ、距離が近い。
──十分、始まった。




