第11話 祓屋を名乗るもの 第5章 正しくない世界
午後三時二十分。
東湾市総合福祉センター。
救急車のサイレンは鳴っていない。
規制線も張られていない。
テレビ局も来ていない。
外から見れば、何事もない一日だった。
それでも、高峰修一は事件が終わったとは思えなかった。胸の奥に残るざらつきが消えず、無意識に指先がわずかに震える。
救急隊員に付き添われ、祓屋を名乗っていた女が静かに建物を出ていく。
抵抗はしない。
暴れることもない。
ただ、何度も涙を拭っていた。肩が小さく上下し、その呼吸は浅く不安定だった。
その姿は犯罪者には見えなかった。
高峰は、その背中を最後まで見送る。視線を外せず、喉の奥がわずかに詰まる。
「……逮捕にはならないんですね。」
若い刑事が隣で小さく尋ねた。声はかすかに揺れている。
「現時点ではな。」
「直接、人を傷付けた証拠はない。」
「むしろ感謝されている。」
刑事は困ったような顔をした。眉間に皺を寄せ、視線を落とす。
「でも……。」
「何か、おかしいですよね。」
「ああ。」
高峰は短く答えた。息を一つ吐き、視線を遠くへ向ける。
「だから事件なんだ。」
刑事は黙って頷いた。喉を鳴らし、言葉を飲み込む。
相談室では、先ほどまで無表情だった人々が少しずつ言葉を取り戻していた。
「私……。」
「何を相談しに来たんだっけ。」
「そうだ……主人のこと……。」
「仕事が怖かったんだ……。」
一人、また一人。
感情が戻ってくる。
泣き出す者もいた。肩を震わせ、嗚咽を漏らす。
怒りを思い出す者もいた。拳を握りしめ、歯を食いしばる。
絶望を思い出して崩れ落ちる者もいた。膝から力が抜け、床に手をつく。
だが梓は、その光景を静かに見つめていた。まばたき一つせず、呼吸も一定のまま。
「戻りましたね。」
「はい。」
高峰は頷く。胸の奥に重さを感じながら。
「苦しみまで。」
「ええ。」
「それでいいんです。」
梓は迷わなかった。指先がわずかに動き、八鍵に触れそうになるのを止める。
「苦しみが戻るということは。」
「その人自身も戻ったということです。」
高峰は小さく息を吐く。肩の力を抜くように。
「お前らしい答えだ。」
梓は苦笑した。ほんのわずかに視線を逸らす。
「そうでしょうか。」
「少なくとも。」
「結衣さんなら違う答えを言う。」
その名前に、高峰は静かに笑った。口元だけがわずかに緩む。
「確かにな。」
「あいつなら。」
「危険だから消す、で終わりだ。」
「はい。」
「でも私は。」
「残響でもない人を。」
「祓うことはできません。」
その言葉を聞き、高峰は改めて梓を見る。視線が自然と鋭くなる。
この女は、いつも同じだった。
残響は迷わず祓う。
だが、人だけは最後まで人として向き合う。
それが真名井梓という祓屋だった。
その時だった。
高峰のスマートフォンが震える。ポケットの中で微かな振動が伝わり、反射的に手が動く。
着信。
サイバー対策室。
「高峰だ。」
『警部補。』
『例の相談記録なんですが……。』
「何か見つかったか。」
無意識に声が低くなる。
『いえ、それが逆です。』
「逆?」
眉がわずかに寄る。
『全部、消えています。』
高峰の表情が変わる。瞳が鋭く細まる。
「どういう意味だ。」
『相談履歴。』
『防犯カメラ。』
『受付システム。』
『全部正常なんです。』
『最初から彼女は存在しなかったようになっています。』
高峰は黙り込んだ。呼吸が一瞬止まり、次の息が重くなる。
「……改竄か。」
『違います。』
『ログにも侵入形跡がありません。』
『完全に存在そのものが記録から消えています。』
高峰はゆっくり電話を切った。指先にわずかな力がこもる。
嫌な汗が背中を伝う。シャツが肌に張り付く感覚が不快に残る。
梓が気付く。視線がすっとこちらへ向く。
「何かありましたか。」
「……記録が消えた。」
「相談履歴も。」
「監視映像も。」
「全部だ。」
梓は一瞬だけ目を閉じた。呼吸を整えるように。
「そうですか。」
その返答は、驚きではなかった。
確認だった。
「予想していたのか。」
「はい。」
「彼女自身は。」
「ただ利用されただけです。」
「利用?」
梓は静かに八鍵へ触れる。指先がわずかに震え、その感触を確かめるように撫でる。
「残響ではありません。」
「ですが。」
「誰かが。」
「彼女へ”祓屋”という役割を与えました。」
「そして。」
「役目が終わると。」
「痕跡まで消した。」
高峰の眉が動く。喉がわずかに鳴る。
「つまり。」
「黒幕がいるのか。」
梓はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。視線が遠くへ伸びる。
街は相変わらず静かだった。
だが。
八鍵は、ほんのわずかに震えている。掌に伝わる微細な振動が、確かな異常を告げる。
遠く。
とても遠く。
まだ見ぬ誰かの気配を捉えるように。
そしてその気配は、まるでこちらの動きを観察しているかのように、わずかに揺らいでいた。
(……始まっています。)
胸の奥で鼓動が一つ強く打つ。
(誰かが。)
視線がわずかに細まる。
(残響を。)
指先に力がこもる。
(人を。)
呼吸が静かに深くなる。
(意図的に動かし始めています。)
その予感だけが。
胸の奥へ静かに沈んでいった。
◇
午後五時四十分。
東湾市郊外。
雑居ビルの屋上。
夕日が街を赤く染めていた。
その光景を、一人の男が静かに見下ろしている。
黒いコート。
細身の体。
年齢は三十代にも四十代にも見える。
特徴があるようで、何一つ印象に残らない顔。
手には、一冊の古びた手帳。
男はページをめくる。
そこには、いくつもの名前が並んでいた。
平清盛。
世阿弥。
そして、新しい一行。
―― 濱本美亜。
男はその名前へ一本の線を引く。
「終了。」
淡々と呟く。
感情はない。
成功した喜びも。
失敗した悔しさも。
ただ、一つの実験が終わったという事実だけを確認していた。
過去には濱本美亜の妹に残響を寄生させた。
人が残響を精神で凌駕出来るか見たかった。
そして今、彼の目的は人間が「正しさ」という概念だけでどこまで歪み、壊れていくのかを観測することにあった。
祓屋としての素養を持ち、心の壊れた濱本美亜は、彼にとって丁度良い素材だった。
次のページを開く。
そこには短く書かれている。
《人は、正しさだけで壊れるか》
その問いにも線を引く。
「結果。」
「成功。」
男は小さく笑った。
笑ったはずなのに。
その笑顔は数秒後には忘れてしまうほど薄かった。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面には一つのアプリだけが表示されている。
黒い鳥居のような紋章。
タイトルはない。
男は指先で画面をなぞる。
すると、画面へ新しい文字が浮かび上がる。
被験体 No.11
終了
精神誘導 成功
観測完了
その下へ新たな文字が現れる。
次段階へ移行しますか?
このアプリは、彼が各被験体の精神状態や誘導結果を記録・管理するための観測ツールだった。
男は迷わず押した。
画面が黒く染まる。
ゆっくりと、新しい文章が表示された。
No.12
準備完了
開始対象
真名井梓
男は静かに画面を閉じた。
「予定どおり。」
誰へともなく呟く。
その声を聞く者はいない。
夕日だけが、静かに男の影を長く伸ばしていた。
◇
同じ頃。
県警本部。
高峰は一人、事件資料を読み返していた。
机には、これまでの資料が並んでいる。
名前。
眠り。
音。
正しさ。
一つ一つは別事件。
だが。
どこか一本の線で繋がっている。
(偶然じゃない。)
その考えは、胸の奥に冷たい水滴のように落ちて、じわじわと広がっていく。拭い去ろうとしても、指の隙間から染み込むように消えない。
誰かが意図している。
そう考えなければ説明がつかなかった。
資料の端に、ふと違和感を覚える。
記録の並び方。
発生の順序。
まるで誰かが意図的に配置したかのような規則性。
それは、見えない糸で操られた人形の列のように、不自然な整列をしていた。
(順番がある……?)
高峰は眉をひそめる。
だが、それを裏付ける証拠はない。
ただの推測に過ぎない。
それでも。
胸の奥に残る不安は消えなかった。
それは形を持たないのに、確かに重さを持っていた。肺の奥に沈み込み、呼吸をわずかに浅くするような圧迫感。
窓の外では夜が始まっている。
街は平穏だった。
あまりにも平穏で。
静けさが、逆に耳鳴りのように響く。
だからこそ、不気味だった。
何も起きていないはずなのに、何かが確実に進行している――そんな錯覚が、背筋をじわりと撫でていく。
◇
真名井梓は、自宅兼事務所へ戻っていた。
机の上には今日の事件資料。
帰想札。
八鍵。
静かな部屋だった。
今日だけで何人もの人間が戻ってきた。
それでも。
胸の奥に残る違和感は消えない。
それは、言葉にならない棘のように、心の内側に引っかかっている。触れれば痛むのに、どこにあるのかははっきりしない。
(誰だったんでしょう。)
(あの人へ。)
(祓屋という役目を与えたのは。)
考えても答えは出ない。
思考は同じ場所をぐるぐると回り続け、出口のない迷路に閉じ込められたようだった。
ふと、机の端へ視線が止まる。
そこへ一枚の紙が置かれていた。
今日まで無かったはずの紙。
白い封筒。
宛名だけが書かれている。
真名井梓様
差出人はない。
梓は慎重に封を開く。
指先に触れる紙の感触が、妙に冷たく感じられた。まるでそこだけ温度が奪われているかのように。
中には、一枚だけ紙が入っていた。
そこへ印字されていた文章は、たった一行。
『あなたは、本当に正しい祓屋ですか。』
その瞬間。
八鍵が、かつてないほど強く震えた。
残響反応ではない。
もっと深く。
もっと静かな。
誰かの”悪意”だけが、その紙へ染み込んでいた。
それは音もなく、しかし確実に心へ触れてくる。冷たい指で内側をなぞられるような、不快で逃げ場のない感覚。
梓は紙を静かに見つめる。
その問いに答えはなかった。
だが。
この日初めて。
真名井梓は、自分自身へ問いを向けることになる。
(私は……)
(何を守っているんでしょう。)
その問いは、胸の奥に落ちて、波紋のように広がっていく。今まで揺らぐことのなかったはずの信念が、わずかに軋む音を立てた気がした。
窓の外では夜風が吹いていた。
その風は穏やかだった。
けれど、その穏やかさが、かえって現実との距離を感じさせるように、どこか遠く、冷たく感じられた。




