第11話「祓屋を名乗る女」 その1 正しくなったはず部屋
最初は、何もかもが“正しく”なっていった。
会社の給湯室で、マグカップを割った。
それだけの出来事だった。
床に散らばった白い破片を見下ろしながら、私はため息をついた。
最近ついていない。寝不足が続いているし、理由の分からない頭痛もある。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは、知らない女だった。
いつから居たのか分からない。
けれど、給湯室に知らない人がいること自体は、特別おかしなことじゃない。
「怪我は?」
「いえ…平気です」
そう答えた途端、不思議な安心感が胸に広がった。
女は三十前後に見えた。
柔らかい声。
落ち着いた目。
妙に“信頼できそう”な雰囲気があった。
「最近、眠れてないでしょう」
どきりとした。
「……どうして」
「顔に出てる。
それに、こういう時に起こることは決まってる」
女はそう言って、ゆっくりと床に膝をついた。
割れたマグカップの破片を、一つひとつ拾い始める。
手つきが、異様に丁寧だった。
「片付けます」
「あ、いえ…」
「いいから」
逆らえなかった。
女が破片を集め終えるころ、
胸の奥にあったざわつきが、すっと消えているのに気づいた。
(……あれ?)
頭痛もない。
さっきまでの苛立ちも、焦りも、全部どこかへ行ってしまった。
代わりに残ったのは、
“正しいことが正しく整理された”という感覚。
「……すみません。助かりました」
「いいの」
女は立ち上がり、私の目を見た。
「ねえ。
最近、変な夢を見てない?」
「……見ます」
「決まった場所が出てくる?」
答える前から、喉が乾いた。
「……白い部屋です。
何もないのに、間違ってる気がして」
女は、ふっと微笑んだ。
「それ、残響ね」
その言葉を聞いた瞬間、
私は“納得してしまった”。
本当かどうかじゃない。
説明として、完璧に腑に落ちた。
「……放っておくと、悪くなる」
「どうすれば」
ほとんど反射だった。
「私が、祓う」
女は、迷いなく言った。
「祓屋だから」
胸の奥で、何かが“正しい位置”に収まった気がした。
(……よかった)
誰かが、答えを持っていた。
誰かが、片付けてくれる。
私は、そこまで考えて、
ほんの一瞬だけ、違和感を覚えた。
祓屋?
そんな言葉を、私はどこで知ったんだろう。
女はもう、給湯室の出口に向かっていた。
「今夜、また夢を見ると思う。
でも大丈夫」
振り返らずに言う。
「次は、ちゃんと“終わらせてあげる”」
その背中を見送りながら、
私はなぜか、言いようのない寒気に包まれた。
助けられたはずなのに。
何かを、
持っていかれた気がした。
その夜。
白い夢は、
前よりもずっと静かだった。
何も無いはずの部屋の中央に、
黒い影だけが、きれいに整えられて立っていた。
そしてその影は、
私の声で、こう言った。
「――これで、正しくなった」




