第10話「声を喰う獅子」 その5 拍手なき終演
最初に戻ってきたのは、音ではなかった。
重さだった。
床の板が足裏を支える感触、
空気が肌に触れる感覚、
自分の体重が、確かに自分のものとしてそこにあるという実感。
梓は能楽堂の舞台脇、暗がりに立っていた。
照明はついており、現実の稽古場そのものだ。
だが、どこか“張り詰めていたもの”が抜け落ちている。
「……戻りましたか」
高峰の声が、いつもより低く聞こえた。
声だ。
ちゃんと、声がある。
「ええ。
完全ではないですが……
終幕です」
自分の声を確かめるように喋りながら、胸の奥を探る。
違和感は残っている。
喉の奥が、少し軽すぎる。
(……奪われた“声”は、完全には戻らない)
これはいつものことだ。
残響によって削り取られたものは、元通りにはならない。
修正はできる。
再調和もできる。
けれど、上書きされた痕跡は必ず残る。
控室では、医師と警察官が津村隼人を囲んでいた。
津村は震える両手で水を口に含み、
何度も、声を出そうとしている。
「……あ」
かすれた音が、こぼれた。
「……あ……ぁ……」
一音。
それだけで、彼は泣き崩れた。
声は弱い。
以前の張りや響きはない。
舞台で主役を張れるかどうかは、正直、分からない。
それでも――
(“存在”は、戻った)
彼は再び、世界に認識されている。
高峰が梓の隣に来て、低く言った。
「被害は、十五人。
うち搬送された十四人が、発狂死か重度の精神崩壊。
……この子は、例外だったな」
「境界に、踏みとどまれた。
声を完全に喰われる前で」
「……理由は?」
梓は少し考えた。
「型です。
彼は舞い続けていた。
声がなくなっても、“舞台に立つ自分”を手放さなかった」
高峰は、能楽堂を見回した。
「……芸に生きる人間ほど、危険で、
同時に、最後まで抗えるってことか」
「ええ。
残響は、“空白”を好みますから」
そのとき、ポケットが震えた。
携帯だ。
画面には、中森の名前。
通話を取る。
『終わったか』
「ええ。
きれいとは言えませんが」
『上出来だ。
あれを“消さずに”済ませたならな』
「消す理由はありません。
世界に残るべきものも、あります」
電話の向こうで、短い笑い。
『相変わらずだな。
だが……覚えておけ』
「何をです?」
『今回のは、**“舞台を知ってる残響”**だ。
名を残した連中が、次々、目を覚まし始めてる』
言葉が、静かに胸に沈んだ。
『声、型、祈り、支配。
どれも人間の“文化”が作ったもんだ。
そいつらが狂えば、厄介になる』
「……分かっています」
『ならいい。
次も準備しとけ』
通話が切れる。
梓は携帯を下ろし、舞台を見た。
舞台には、もう獅子の影はない。
削れた床板だけが、事件の名残を主張している。
津村隼人は、涙を拭き、何度も深呼吸を繰り返していた。
そして、小さく、慎重に、足を踏み鳴らす。
コ……
かすかな音。
完璧ではない。
だが、確かにそこにあった。
(……あなたは、また舞台に立つ)
梓はそう思った。
夜明けが近い。
外から、朝の車の音が聞こえ始めている。
世界は、何事もなかったかのように回り続ける。
名前を失いかけたものたちを踏み越えて。
(声は、存在の証)
そう教えたのは、彼だった。
皮肉なことに。
だからこそ梓は、それを否定しなかった。
声がなくても、
うまくなくても、
美しくなくても。
舞台から降ろされる理由には、ならない。
梓は八鍵を静かにしまい、
高峰と並んで能楽堂を後にした。
背後で、誰かがもう一度、拍子を踏んだ。
今度は、奪うためのものではない。
稽古を再開するための、
小さく、確かな一拍だった。




