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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第10話「声を喰う獅子」 その4 舞台に立つ資格

 音が、最初に消えた。


 いや、正確には──

 音という前提そのものが、世界から剥がされた。


 能楽堂の床を踏み越えた瞬間、梓は“こちら側”に落ちた。


 現実の舞台とよく似ている。

 梁の位置。

 柱の数。

 だが、どこかが決定的に違う。


 空気が、張り付くように重い。

 息をすると肺が動くのではなく、胸郭がぎし、と軋む。


(……音の無い世界)


 声だけではない。

 呼吸音も、衣擦れも、足音も存在しない。


 それでも梓は“聞いている”。


 耳ではなく、

 存在の奥で。


 拍子だ。


 一拍。


 床が揺れた。


 だが、音はない。

 拍子だけが、心臓の鼓動と重なって響く。


(来る……)


 影が、ゆっくりと舞台の奥から滲み出した。


 四肢は獣。

 胴は人。

 頭部は、獅子舞のそれに似ている。


 しかし、木彫りではない。

 血の通った筋肉と、濡れた鬣。


 眼が、こちらを見る。


 その瞬間、喉が締め上げられた。


(……声を奪われる)


 反射的に祓詞を唱えようとして、止めた。


 声は、使えない。


 梓は代わりに、型を取る。


 響導札を開き、

 肩を落とし、

 つま先の角度を舞台に合わせる。


(音ではなく、型で)


 二拍。


 獅子が一歩、踏み出す。


 存在そのものが、こちらに“重なる”感覚。

 輪郭が揺らぎ、梓の影が獅子の影と溶け始める。


『……よい……型だ』


 声ではない。

 意味が、直接、流れ込んでくる。


『……だが……声が、足りぬ』


 獅子が、首を傾げた。


 その動きはあまりに優雅だった。


 殺意があるのに、

 動きが美しい。


(……美に侵食される)


 これは、力の衝突ではない。

 価値観の侵食だ。


 美しいものこそが正しい。

 声を持たぬ者は、舞台に立つ資格がない。


 その思想が、残響として生きている。


(……なるほど)


 八鍵が、静かに震えた。


 解析波形が、像を結ぶ。


 芸。

 型。

 声。

 存在証明。


 それらが“完成したものだけが残る”という、冷酷な選別。


(あなたは……“残す”ことに執着しすぎた)


 獅子が、跳ねた。


 一気に距離が詰まる。


 喉に、冷たい圧力。


 声を失う感覚が、再び迫る。


(今度こそ──)


 梓は、型を崩した。


 わざと。


 膝を折り、

 背を丸め、

 能の“美”から外れる。


 獅子の動きが、止まった。


『……なぜ、崩す』


(そこに……答えがある)


 梓は、響導札を胸に当てる。


 祓詞を“唱えない”。


 代わりに、書き換える。


 ――声は、美の証ではない。


 ――未完成でも、歪でも、存在は存在だ。


 拍子を外した呼吸で、

 あえて乱れた動きで、

 祓詞を「実行」する。


《存在維持・再調和祓詞さいちょうわふつし


 空間に、亀裂が走った。


 獅子の輪郭が、ひび割れる。


『……それは……』


 獣の顔が、人のそれに近づく。


 獅子の奥から、

 一人の男の影が浮かび上がる。


 面をつけた能役者。

 老成した目。

 美に取り憑かれた、冷静な狂気。


 梓は、理解した。


「……世阿弥(ぜあみ)


 名を呼んだ瞬間、

 世界が、悲鳴を上げた。


『……呼ぶな』


 怒りではない。

 拒絶でもない。


 恐怖だった。


『……名を呼ばれれば、役が終わる……』


(……そうか)


 あなたにとって、

 最も恐ろしいのは“終わること”。


 語り継がれないこと。

 完成でないまま、忘れられること。


 梓は、一歩前に出た。


「あなたの美は、もう十分に残っています」


 獅子の咆哮が、消えた。


『……では……私は……』


「…退場です」


 響導札を、静かに閉じる。


 世界が、ふっと軽くなった。


 獅子の姿が崩れ、

 能舞台が、ただの闇に溶ける。


 最後に残ったのは、

 拍子の“間”。


 そして──

 拍手の無い、静かな終幕。


 梓は、目を閉じた。


 再び、現実へ引き戻される。

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