第10話「声を喰う獅子」 その3 存在証明の剥落
稽古場の敷地に足を踏み入れた瞬間、耳が変になった。
聞こえない、というわけではない。
風の音も、遠くを走る車の音も、確かに存在している。
けれど、それらがすべて“薄い”。
(……音のレイヤーが削られている)
八鍵が、低く震えた。
祓詞層が明確な異常を検知している。
梓は深く息を吸い、門をくぐった。
建物の外観は、ごく普通の能楽堂だ。
古いが手入れは行き届き、木材の匂いも自然。
異臭もない。
それでも、足を進めるたびに何かが剥ぎ取られていく感覚がある。
(……声ですね)
声だけを、選別して奪われている。
高峰が、入口の前で待っていた。
表情はいつになく硬い。
「真名井」
「高峰さん。……音、かなり削られてます」
「ああ。俺にも分かる。
耳鳴りじゃない。世界のほうが静かになってる」
その言葉を聞いて、背筋が冷えた。
(警察で、ここまで感覚的な異常を“分かる”と言うようになった……
それ自体が、残響の影響範囲が広がっている証拠)
「被害者達は?」
「意識の無い者は全員搬送された。1人意識が戻り控室に残ってもらった。今、医師が付き添っている」
控室に入ると、津村隼人が椅子に座っていた。
毛布に包まれ、俯いたまま、視線だけが落ち着かない。
梓は津村の前に膝をつき、視線を合わせた。
「津村さん。
聞こえていますか?」
彼は、力強く頷いた。
そして、必死に口を動かす。
声は、やはり出ない。
喉の振動は正常だ。
息も流れている。
それでも、“声という情報”が生成される直前で切断されている。
(……喰われてる)
梓は静かに八鍵を構え、最低限の解析祓詞を走らせた。
波形が浮かび上がる。
本来あるべき“音程”と“響き”のデータが、途中で消失している。
しかも、完全な破壊ではない。
(……持っていかれている。
誰かが“保持”している)
「津村さん。
舞台で、何か……見ましたか?」
津村は一瞬、躊躇したあと、
床を指で“コン、コン”と叩いた。
音は出ない。
だが、その仕草は、不気味なほど正確だった。
「……拍子、ですか」
津村は、強く頷く。
次に、両手で頭を覆い、獣の鬣を真似るような仕草をした。
(獅子……)
八鍵が、わずかに反応した。
“獣形の波形”。
音域に強く紐づいた残響。
(なるほど……
これは単なる騒音型や精神侵食型じゃない。
声=存在証明を狙っている)
梓は立ち上がり、高峰に向き直った。
「高峰さん。
今回の残響は、“音を奪う”のではありません」
「……どういう意味だ」
「声を奪っているんです。
もっと正確に言えば──
“その人がそこにいる証”を喰っている」
高峰の眉が、わずかに動いた。
「存在証明……?」
「はい。
声は、ただの振動じゃありません。
人がそこにいる、という最古の証明です。
名前を呼ぶ、返事をする、歌う、語る。
それを奪われると、人は“舞台から下ろされた存在”になります」
控室の空気が、さらに沈んだ。
(……これは、芸に関わる残響)
能楽。
舞。
声。
型。
存在の美学。
(中森さんが言っていた“音対応の祓具”……必要ですね)
梓はスマホを取り出した。
中森は、こちらからかける前に出た。
『着いたか』
「はい。
獅子型。声喰い。
存在証明を削るタイプです」
『あー……当たりだな。
思ったより厄介だ』
「音が使えません。
祓詞が……声を必要とするものは全部封じられます」
『だから渡しただろ。
“音を使わない祓い”』
梓は肩をすくめた。
「ずいぶん変わったものを」
『お前向きだよ。
響導札。
声じゃなく、“型”で祓う。
動きと呼吸と意志だけで成立する』
「……舞に対抗するなら、舞ですね」
『そういうこった』
通話が切れた。
その瞬間、稽古場の奥から、
リズムだけが震える気配がした。
音ではない。
振動でもない。
存在の“拍子”。
(来ますね……)
梓は八鍵を構え、
響導札を静かに取り出した。
声は使えない。
音も信用できない。
それでも──
(祓いは、声だけじゃありません)
呼吸を整え、型を取る。
世界が、さらに静まり返った。
能舞台の奥で、
見えない獅子が、一拍、足を踏んだ。
梓は、一歩、前に出た。
声のない戦いが、始まろうとしていた。




