第10話「声を喰う獅子」 その2 記録されない悲鳴
午前四時。
総務省消防庁からの一斉通達で県警に緊急連絡が入った。
「市内の能楽稽古場で、複数の舞手と関係者が“失声状態”で倒れている」
失声──声を失う事故自体は珍しくない。
過度のストレス、心因性の反応、発声障害など、理由は多岐にわたる。
だが今回は違った。
現場に急行した鑑識の報告を聞くだけで、
高峰修一の背中は、嫌な汗でじっとりと濡れた。
「……何度確認しても同じなんですが……
被害者の声が、映像記録から“消えて”います」
「……消えている?」
「はい。監視カメラにも、ICレコーダーにも、
被害者達の声だけが“まるで録音されなかったように”欠落してます」
「ノイズじゃなくて、欠落?」
「ええ……“最初から存在しなかった”みたいに」
鑑識の言葉は淡々としているが、異常そのものだ。
声が録音されない?
そんなバカな話はない。
設備環境の問題なら、他の音も欠落する。
声だけが消えるなんて物理的にありえない。
(残響の影響か……?)
直近で遭遇した“眠りを奪う回廊”事件が脳裏に浮かぶ。
音声記録の欠落は、あのときも起きていた。
残響が現実に干渉する際、電子記録が“飛ぶ”。
その兆候と似すぎている。
嫌な予感しかない。
「高峰警部補、こちらへ」
鑑識が稽古場の床を指し示した。
板張りの床に、数本の深い擦過痕が残っている。
床板に爪で引っ掻いたような跡。
「人間の爪ではありませんね」
「ええ。獣の爪痕のようにも見えますが──
深さが不規則で、明らかに“踏み込んで”つけた痕のようです」
「獣が室内に入った形跡は?」
「それが、どこにもありません」
「……どういうことだ」
「分かりません。ただ──」
鑑識はほんの一瞬だけ、声を落とした。
「これ、獅子舞の足拍子の痕にも似ているんです。フォルムが」
「獅子舞……?」
「ええ。あの頭で舞うやつです。
でも……普通、獅子舞で床板はこんなに削れません」
高峰は、気づかぬうちに拳を握りしめていた。
(声が消える。記録も飛ぶ。獣のような痕跡。
そして“獅子”……)
思い当たる存在はある。
認めたくないが──
(…真名井の領域だ)
「被害者は?」
「1名、意識はあります……ただ、声が……」
案内された控室で、若い舞手・津村隼人が毛布に包まれて座っていた。
瞳は焦点が合っておらず、
理性の薄膜が剥がれかけているような虚ろさがあった。
「津村くん。警察の者だ。少し話を聞かせてほしい」
高峰が静かに声をかける。
だが──隼人は唇を動かしても、
音はひとつも出なかった。
喉は震えている。
息も吐いている。
なのに、音だけが“不在”だった。
(……声帯が動いてるのに、音がない?)
医師の説明も意味不明だった。
「器質的な損傷はゼロです。
声帯の腫れも痙攣もありません。
気流も問題ない。
……なのに、『音』という現象が発生しないんです」
「治るのか?」
「原因が分かれば……ですが……正直、初めてです」
高峰は深く息を吐いた。
ますます“異常現象”でしか説明がつかない。
(祓屋に頼るしかないか……)
そう思ったときだった。
稽古場の照明が、唐突に“息を潜める”ように暗くなった。
停電ではない。
明るさが保たれているのに、音だけが完全に死ぬ。
瞬間、全員が固まった。
スマホのアラーム音も、廊下の足音も、
紙が擦れる音さえも──全部消えた。
世界が、音を拒絶する。
(来た……!)
高峰は無意識に拳銃に手を伸ばした。
意味がないと分かりながら。
稽古場の奥──
能舞台に続く廊下から、
コン……コン……
と足拍子のような振動が伝わってくる。
音はない。
なのに“リズムだけ”が胸骨に直接響く。
(これは……残響だ)
ついに確信した。
この現象は、人間の行動でも環境要因でもない。
“誰かが、声を喰っている”。
足拍子のリズムが近づき、
高峰の胸が嫌な圧力で締めつけられる。
(真名井……早く来てくれ)
高峰は迷わずスマホを取り出し、
祓屋・真名井梓へ電話をかけた。
数秒の呼び出し音のあと、梓の声が届く。
「はい、真名井です」
「稽古場だ。
“音が消える現象”が発生している。
被害者は声を奪われている。
……お前じゃないと説明できん」
「分かりました。すぐ向かいます」
その瞬間──
廊下の暗がりに、
“獣の鬣の影”が揺れた。
高峰の呼吸が止まる。
(……くそっ)
その影は、こちらを見て──
音もなく、獅子の“口”を開いた。
次の瞬間、
稽古場の空気から“声という声”が完全に失われた。
世界が、舞台の緞帳が下りるように沈黙する。
(急げ、真名井……!
間に合わなければ、今回も犠牲が増える)




